4章(3)
アウストルの足音は絨毯に吸われて、ほとんど聞こえない。しかし、ベッドの下に潜り込んでいるメルフェリーゼには、直に振動としてアウストルの動きが伝わってくる。よく磨かれた靴があちこちを歩き回っている様子も見える。
メルフェリーゼは必死に呼吸を殺し、なんとか気配を消そうと躍起になった。ここに隠れていることをアウストルに見つかってしまえば、すべてが終わるといっても過言ではない。メルフェリーゼを見つければ、アウストルはなぜ寝室にいるのか、と厳しく問うだろう。翡翠色の瞳が険しく細められるのを想像しただけで、臓腑が縮み上がる。
幸い、アウストルはベッドの下を覗き込んだり、床に這いつくばったりするような奇行はしなかった。侍女を従えて、淡々と着替えを済ませているようだ。侍女のボソボソとした話し声と、衣擦れの音だけが室内に響く。
振動がだんだんと近くなり、ついにメルフェリーゼのすぐ目の前にアウストルの脚が見えた。侍女がドアを開けて去っていく音が聞こえ、寝室にはアウストルとベッドの下に潜むメルフェリーゼ二人だけになる。
ぎしり、と大きな音を立ててベッドが軋み、メルフェリーゼは息を詰めた。アウストルがベッドに身を横たえる気配がする。
グラスと、テーブルの触れ合う音。アウストルは一息にその中身を飲み干したのだろうか。すぐにグラスがサイドテーブルに置かれる音がする。
毒の効果が出るまで、何分かかる? そもそも、アウストルは本当にグラスの中身を飲んだのか?
どれも、確かめる術はない。ただ黙って、時間が流れていくのを待つことしかできない。もしアウストルに毒が効いている様子がなければ、メルフェリーゼは彼が寝静まってから起こさないように寝室を出て行かなければならない。
一秒が一分に、一分が一時間のように長く感じられる。ベッドが軋み、シーツの擦れる音がして、アウストルが本格的に寝入る様子が伝わってくる。
メルフェリーゼは極力、音を立てないように手のひらにじっとりと伝う冷や汗をドレスの裾で拭った。なにもしていないのに指先が細かく震え、喉がカラカラに乾いている。息をするたびに乾いた喉に絡まり、咳が出そうになる。
「ぐっ……!」
唐突に、短い呻きが聞こえた。ベッドが大きく軋む。アウストルの脚が、シーツを蹴る音がする。
メルフェリーゼは目を見開き、口元に手を当てて、衝撃を飲み込んだ。アウストルが苦しんでいることはたしかだった。アウストルが騒げば騒ぐほど、誰かが駆けつける可能性は高くなる。げんに、アウストルがベッドの上でもがくような音はますます大きくなっている。
逃げるなら、今しかないかもしれない。メルフェリーゼはそう決意すると、息を詰めてベッドの下から這い出した。オイルランプの明かりが目にしみる。
見ないようにしていたのに、見てしまった。
悲鳴をぐっと飲み込んで、後ずさる。
「メ、ル……っ」
およそ生者とは思えぬほど、アウストルの顔は赤黒く変色し、窒息の苦しみのためか風船のように膨張している。眼窩から飛び出さんばかりに眼球が突き出し、酸素を求めてはくはくと動く口はまるで魚のようだった。
美丈夫だったアウストルは、どこにもいない。綺麗な翡翠色の瞳も、今は濁って深い沼のようだ。
これはアウストルではない。メルフェリーゼの頭は勝手にそう結論づける。こんなに醜い顔を晒している男が、アウストルのはずがない。
メルフェリーゼの中のアウストルは端正な顔立ちで、翡翠色の瞳はいつも険しく細められていて、美丈夫だけれど愛想がなくてほとんど笑わない男だった。周囲はアウストルは美しい彫像の生まれ変わりかもしれない、などと噂したくらいだ。
ベッドの上で苦しむ男に、アウストルの面影はない。仕立てのいい夜着を着ているが、顔の醜さと口から絶えず漏れる呻き声が目立って、とても王子などとは思えない。あれはただの、人の形をした醜い怪物だ。
メルフェリーゼが見守る中で、アウストルだったものは引きつれた悲鳴のような声を上げて動かなくなった。
濁った沼のような色をした瞳は見開かれたまま、メルフェリーゼのほうを見つめている。
メルフェリーゼはおそるおそる、アウストルの口に手をかざした。呼吸はない。唇の端からはダラダラと唾液が垂れ、シーツを汚している。
迷うことはなかった。メルフェリーゼはアウストルに背を向けると、一目散に寝室を飛び出した。
◇ ◇ ◇
ドレスの裾をからげて、飛ぶように階段を駆け下りる。
メルフェリーゼは闇が落ちて真っ暗になった中庭を駆け抜けた。裏門の鍵を持っていない以上、カイリエンの滞在する離れに行くにはこれしか方法がない。誰にも見られていませんように、と形ばかりの祈りをしながら中庭を突っ切る。
メルフェリーゼの来訪を予感したかのように、離れの鍵は開いていた。ガタガタと震える手で取っ手を掴み、やっと開いた隙間に身体を捩じ込む。ドレスを彩るレースが裂けたような音がしたが、メルフェリーゼは気にしなかった。この城を出ていくなら、ドレスなど邪魔なだけだ。
もとより、メルフェリーゼにはユルハ城での豪華な生活にも、ドレスにも、王族という地位にも未練はない。たまたま貧民だった女が、なにかの間違いで二年間も王子の妻を務めてしまっただけの話。自分に王子妃という肩書きは重すぎた。それを捨てるだけだ。
メルフェリーゼはノックもなしにカイリエンの居室に飛び込むと、右目をすがめて読書をしていたカイリエンにすがった。彼女のただならぬ気配に、カイリエンも本を放ってメルフェリーゼの身体を受け止める。
カイリエンの腕に抱きとめられても、メルフェリーゼの身体の震えは収まらなかった。恐怖や罪悪感だけではない。ユルハ城から、夫から解放されるという昏い興奮が、彼女の身体を震わせ、血を滾らせていた。
「メル、落ち着いて。俺の声が聞こえるか?」
カイリエンに呼びかけられても、メルフェリーゼは一言すら絞り出すことができない。もどかしく彼の右目を見つめ、震える指先で閉じられた左目の傷をなぞる。
カイリエンは落ち着かないメルフェリーゼの様子を見て取ると、傍らに置いてあったグラスを引き寄せた。グラスを傾け、無色透明の液体を口に含む。
親指を捩じ込んで強引にメルフェリーゼの唇を割ると、カイリエンはぴったりと自分の唇を合わせた。
カイリエンの熱で温められた、とろりとした液体がメルフェリーゼの口内に流れ込んでくる。そのまま熱い舌を絡められ、メルフェリーゼは細い喉を上下させて液体を飲み下した。
喉から食道、胃にかけてカッと熱くなる。メルフェリーゼがその強すぎる酒を飲んだのを確認し、カイリエンは唇を離し、親指を引き抜いた。
メルフェリーゼはあまり好んで酒を飲むほうではない。熱くなる胃を持て余しながら、急速にどろりとした眠気が襲ってくる。
カイリエンの指が、メルフェリーゼのブロンドの髪を梳く。優しい手つきに、メルフェリーゼの意識は夢の中に引きずられていく。
これだけは言わねばならない。メルフェリーゼは重たい唇を開き、カイリエンの耳元に寄せる。
「私、やったわ……死んだ、の。あの人――」
薄い唇に言葉を吸い取られ、メルフェリーゼはついに意識を手放す。ふわふわと、いい心地でなにも考えられない。深い眠りの中に落ちていく。
カイリエンはメルフェリーゼの頭をひと撫ですると、彼女の身をベッドに横たえた。額にキスを落として、立ち上がる。右手を腰に当て、子どもの頃から使い込んできた護身用の短剣の感触を確かめる。
「おやすみ、メル。次会う時は城の外だ」
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