4章(4)

 絶えず、なにかに追いかけられていた。それは憤怒の形相のロワディナであり、老いたマーリンドであり、赤黒い顔をした瀕死のアウストルであった。

 夢か現か分からない、妙に現実的な質感を持ったその世界で、メルフェリーゼはもう一歩も歩けないというほど逃げ回り、追い詰められていた。

 アウストルの突出した眼球が、濁った翡翠色の瞳が、メルフェリーゼを眺め回している。赤黒く変色した顔は破裂するのではないかと思うほど、風船のように丸く膨れ上がり、メルフェリーゼに中身をぶちまけようとしている。

 アウストルの歪んだ唇が、メルフェリーゼの喉元に迫り――。


「メル、大丈夫か?」


 メルフェリーゼは自分の悲鳴で飛び起きた。ベッドにもたれて眠っていたらしいカイリエンが、さっとその身をベッドの上に乗り出し、メルフェリーゼの肩を抱く。人肌の温かさで、メルフェリーゼはようやく先ほどまで自分が夢を見ていたことに気づいた。

 ずいぶん長く眠っていたようで、窓からは柔らかな夕暮れの西日が差し込んでいる。

 メルフェリーゼは肩に置かれたカイリエンの手に自分の手を重ねると、ぎこちなく微笑んだ。


「ちょっと、夢を見ていただけなの」

「どんな夢?」

「ユルハ城の、色んな人が、私を追いかけてくるの……逃げても逃げても、私が歩けなくなっても、ずっと追いかけてくるのよ」


 メルフェリーゼの言葉に、カイリエンは眉をひそめた。メルフェリーゼの青白い顔を、カイリエンが両手で包み込む。


「ここに来てからずっと、そんな夢を?」

「そうね……眠っているのに、眠れていないみたい」


 メルフェリーゼが目覚めたのは三日前のこと。目が覚めた時にはユルハ城から遠く、ツリシャ王国の郊外にあるというこの小さな家にいた。ユルハ城からツリシャの家までは馬を乗り継いで五日はかかる。その間、メルフェリーゼは一切目を覚まさなかった。

 カイリエンはメルフェリーゼを馬に乗せてともに走ってきたというが、馬に揺られた記憶も、途中の野宿の記憶もない。離れでカイリエンと会話をしたのを最後に、メルフェリーゼの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。

 そしてその長い眠りの最中、ずっと悪夢に苛まれてきた。

 痛ましげに目を細めたカイリエンが、メルフェリーゼの頬をひと撫でして立ち上がる。


「ハーブティーを淹れよう。きっと気分が落ち着く」


 カイリエンがこぢんまりとしたキッチンの前に立つ。二階建てのこの家は、一階に生活のすべてが揃っており、二階には小さな書斎と物置部屋が備わっていた。


 メルフェリーゼはベッドに座り込んだまま、窓の外を見る。とろりとした蜂蜜のような色合いの日光に包まれた森は綺麗で、まるでおとぎ話の世界にいるようだ。

 ツリシャ王国の郊外、としか聞かされていないが、どうやらユルハ王国とツリシャ王国を隔てる山脈のすぐ近く、森の中にこの家は建っているらしかった。

 カイリエンがコップを二つ手にして戻ってくる。ひとつをメルフェリーゼに渡すと、カイリエンもベッドに腰かけた。

 淹れたてのハーブティーを口に含むと、懐かしさがこみ上げる。こっくりとした甘さに、柑橘の爽やかな香り。ハナがカイリエンにもらったのだといって淹れてくれたハーブティーと同じだった。


「あまり長く続くようなら、医師か薬師に診てもらおう。眠れない日が続けば続くほど、人は消耗する」

「でも、私の顔を知っている人がいないとも限らないわ」


 ここは世界から隔絶されたように、なんの情報も手に入らない。ユルハ王国の第二王子が亡くなったとなれば今頃、大騒ぎになっていてもおかしくないのにその様子はなく、城からいなくなったメルフェリーゼを捜す追っ手も今のところは現れていない。

 世間がどうなっているか分からないからこそ、メルフェリーゼは他人に素顔を晒すのが怖かった。もしかしたらメルフェリーゼは今、アウストルを殺害した人間として手配されているかもしれない。この首には懸賞金がかけられ、人々が血眼になってメルフェリーゼを捜しているかもしれない。

 考えれば考えるほど、メルフェリーゼは家から出ることも、他人に姿を見せることもできなくなっていた。


「やっぱり、城で王子妃のままでいたほうがよかったと思うか?」


 カイリエンは寂しげに、ぽつりと呟いた。


「後悔してる? 俺と一緒に来たこと」


 蜂蜜色の目が、メルフェリーゼの顔を見つめる。メルフェリーゼは息の詰まる思いがした。彼にこんな顔をさせているのは、自分の弱さのせいだ。自分でアウストルに手を下し、ユルハ城という牢獄から逃げ出すことを決意したのに、過去に囚われて、過去を断ち切れずに苦しんでいる。

 自分はもう自由になったのだ。この先ずっと、カイリエンと一緒に、この小さくも温かな家で暮らせる。彼が私の、唯一の家族。親に城へ売られ、国を捨てた自分の、唯一の味方。

 カイリエンは言っていた。メルフェリーゼが人殺しでもなんでもいいと。その言葉を、しっかりと信じてあげるべきなのではないか。

 メルフェリーゼはカップをテーブルへ置くと、カイリエンの太い首に腕を回す。ぴったりと厚い胸板に身体を押しつけ、深く息を吐いた。


「後悔なんてしてないわ。カイが来てくれたあの冬に、私の心は救われたんだから」


 カイリエンの少し癖のある黒髪に指を通しながら、メルフェリーゼは囁く。


「でも私は、自分が殺した人のことも忘れない。一生、夫だった人のことを思いながら、カイと一緒に生きていくの」


 メルフェリーゼの決意に、カイリエンも気持ちを沈めるように深く息を吐き出す。

 二人はぴったりと身を寄せ合い、黙って夕暮れの陽に身を浸していた。

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