4章(2)

 ロワディナが本当に動くのか。メルフェリーゼはアウストルの部屋の前に来るまで、彼女のことを信じていなかった。あれはただの気まぐれ。メルフェリーゼがアウストルの寝室へ入れたところで、ロワディナにはなんらメリットがないからだ。

 もしメルフェリーゼがロワディナの助けを借りてアウストルの寝室へ入り、肌を重ねたら。そこには当然、世継ぎを身ごもる可能性がある。メルフェリーゼより先に男児を産もうと躍起になっているロワディナが、メルフェリーゼの夜這いを許すわけがないのだ。


 しかし、メルフェリーゼの考えはあっさり否定された。夜半、ロワディナに指定された時刻にアウストルの寝室を訪ねると、扉の両脇を固めていた兵士はどこかへ消え去っていた。

 アウストルがまだ執務室にいることは、先ほど確認した。寝室は無人のはずである。

 メルフェリーゼは音を立てないように、そっと扉を開ける。思った通り、室内に人影はなく、がらんとしていた。


 ベッドサイドのテーブルに侍女が運んで来たらしい、琥珀色の液体が入ったグラスが置いてある。アウストルが就寝前に必ず酒を一杯だけ飲むことは、ハナから聞いた。

 庶民には手の届かない高級な酒が飲めるとあって、毒見を志願する侍女が後を絶たないのだとか。今ここにあるグラスは、すでに侍女の毒見が済んでいる。アウストルは就寝前、ためらいなくグラスに口をつけ、中身を飲み干して眠りに就くはずだ。


 メルフェリーゼはするりとドレスの内側に手を忍ばせると、薄い青色に輝く小瓶を取り出した。こんなに綺麗な瓶に詰められたものが毒だとは、到底思えない。貴族女性の間で流行している新たな化粧品だといっても、信じられてしまいそうなほどである。

 中身を零さないように慎重に蓋を開けると、メルフェリーゼは小瓶を傾けてその中身をグラスの中に落とした。薄い青色の液体は、すぐに琥珀色に飲まれて見えなくなる。グラスに鼻を近づけて匂いを嗅いでみても、強いアルコールの香りがするだけだ。


 ぞわり、と皮膚が粟立った。メルフェリーゼは今まさに、人殺しになろうとしている。自分の手で、夫を殺すのだ。潜在的な恐怖が湧き上がり、メルフェリーゼは震える手でなんとか小瓶に蓋をすると、ドレスの内に落とそうとした――。


「その瓶をよこせ」


 低く、獣が唸るような険しい声がする。

 メルフェリーゼの手から、小瓶が滑り落ちる。視界の端で、さっと俊敏な動きを見せた影が、彼女の手から落ちた小瓶を床にぶつかる寸前に受け止めた。


「あっぶね、絨毯に吸われるところだった」


 メルフェリーゼはがちがちに固まった首をなんとか動かし、視線を自分の足元に這わせる。黒いローブをまとった人影が絨毯の上に座り込み、手の中でメルフェリーゼの落とした小瓶を弄んでいた。その手は白く、病的なまでに細くて、骨ばっているせいでまだほんの少年の手のように見える。


 ぎいぎいと音がしそうなほど、ぎこちなく振り返る。メルフェリーゼは震える足をなんとか踏ん張り直し、入り口に立つ人影を見た。

 アウストルよりもさらに長身で、がっしりとした体躯の男が立っている。鍛え上げられた二の腕は、メルフェリーゼの太ももよりも太そうである。開いているのかも分からないほど細い目が、メルフェリーゼのことをじっと観察している。

 メルフェリーゼは頭から急速に血が下っていくのを感じた。頭の芯が痺れ、冷たくなる。自分が息をしているかどうかも分からなくなる。自分は今、二本足でしっかりと立っているのか、それとも眠っていて夢を見ているだけなのか。


「大丈夫だよ、メル」


 足元から軽やかな男の声が聞こえて、メルフェリーゼはまた悪い夢に囚われている感覚に陥る。

 二人は一体、誰なのか。いつからそこにいるのか。どうしてメルフェリーゼを愛称で呼ぶのか。

 分からないことだらけで、メルフェリーゼの意識はぐらぐらと揺れる。


「俺らは君を助けに来ただけなんだから」


 また、足元から歌うような声。メルフェリーゼは動悸を抑えるように胸に手を当てると、窓枠に身を預けた。

 足元にいたローブの人影が立ち上がり、入り口の男の隣に並ぶ。親子ほども身長差のある二人だが、そうして並ぶと不思議とはじめからそこにいたような、しっくりはまるような雰囲気があった。


「確認だけど、それはメルが飲むものじゃないね?」


 ローブの下でもごもごと口が動くのが見える。目元は深いフードに覆われ、顔の全貌は分からない。声は高めで、身長から見ても少年の部類に入るだろう。

 二人が一体いつ部屋に入ってきたのかは分からない。しかし、なにもかも見られていたのだ。メルフェリーゼは観念してうなずいた。

 ローブの下の血色の悪い唇が弧を描く。笑ったようだ。


「よかった、それなら俺らが心配するようなことはなにも起こらない」

「誰なの、あなたたちは……」


 メルフェリーゼはようやく引きつる喉を叱咤して、言葉を絞り出した。情けなく震えている声しか出せなかったが、メルフェリーゼの言わんとしていることは伝わったようだ。

 素顔を晒している大男が一瞬、顔を歪めた。その表情に見えたものが怒りなのか悲しみなのか、メルフェリーゼには分からない。けれど、彼女の言葉がなんらかの心の機微を引き出したことはたしかだった。

 ローブの少年が薄青い小瓶を振る。


「知らないほうがいいことも、世の中にはあるってことだ。な、ミライ」

「外で気安く名前を呼ぶな」

「ミライ……?」


 メルフェリーゼの頭に、なにかが引っかかる。その特徴的な名前を、自分はどこかで聞いたことがある。一体、いつ、どこで聞いたのか。必死に記憶を引き出そうとするが、城に来る前の記憶は靄がかかったようにぼんやりとしている。

 メルフェリーゼがなにかを言う前に、二人は寝室の扉を開けた。ローブの下で、黒髪が揺れる。


「ここで見たことは俺たちだけの秘密だ。誰にも言わない。言ったら俺らまとめて首が飛ぶからな」

「王子が上がってくる気配がする」


 ローブの少年の声に合わせるように、大男が低く、メルフェリーゼに警告する。

 メルフェリーゼは二人に続いて部屋から出ようとしたものの、足が棒になってしまったかのように、その場から動けなかった。

 焦りだけが募る。どうしよう、このままここに突っ立っていたら、アウストルに見つかってしまう。そうすれば、言い逃れはできない――。


「メルはそんな愚鈍な女じゃないだろう!」


 ローブの少年が残した声で、メルフェリーゼの身体はバネのように弾けて動いた。ドレスの裾をまとめて抱え、ベッドの下に潜り込む。

 ドレスの裾がぴったりとベッドの下に収まるのと、アウストルが寝室の扉を開けるのはほとんど同時の出来事だった。

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