1章(3)
アウストルが東方遠征へ出発してから二週間。
第二王子の後ろ盾をなくしたメルフェリーゼに対し、城内の人間は日頃の鬱憤を晴らすかのようにきつくあたった。
食事は残飯のようなものしか与えられず、日々の世話をしてくれる侍女も遠巻きにメルフェリーゼを見るばかりで、誰も彼女に近寄ろうとしない。
メルフェリーゼが唯一、頼りにしている侍女のハナも、マーリンドからツリシャ王国への遣いを頼まれて留守にしている。
ユルハ城の中で完全に孤立したメルフェリーゼは、ひたすらに夫の帰りを待った。アウストルが帰って来たからといって、メルフェリーゼの地位が格段に向上するわけではないが、少なくとも最低限、人としての扱いはしてもらえる。
メルフェリーゼは昨日の夕食に引き続き、今朝の朝食も食べ損ねた。メルフェリーゼの食事に毒が盛られていることが判明し、すべて捨ててしまったのだと料理長は言う。しかし、それがロワディナの嘘であることは、彼女のメルフェリーゼへ向けた意味ありげな微笑みを見れば一目瞭然であった。
気晴らしに外へ出れば、空腹も少しは紛れるかもしれない。そう思ったメルフェリーゼは、そっと部屋を抜け出した。あいかわらず、メルフェリーゼの部屋がある辺りは北側で暗く、空気までどんよりとしている。
廊下へ足を踏み出したメルフェリーゼの鼻を、ふと焼き立てのパンの香りが刺激した。匂いのもとを辿れば、隣室の細く開いた扉が見える。
その部屋には二週間前に狼に襲われて運び込まれた、ツリシャ王国の近衛兵が滞在しているはずだ。よほど怪我がひどいのか、まだその近衛兵が部屋を出て歩く姿は見かけていない。
メルフェリーゼは空腹に抗えず、扉の隙間に身を寄せて隣室を覗いた。
鼻腔を満たす、甘いミルクパンの香り。そしてメルフェリーゼが幼い頃、風邪を引いた時に母が作ってくれたスープの匂いがする。野菜の切れ端と羊の肉をドロドロに溶けるまで煮込んだスープは、病人食としてユルハ王国で親しまれている。
扉の隙間からでは大きなベッドの足元しか見えず、療養中の近衛兵もそこにあるはずの食事も見えない。
匂いにつられて、メルフェリーゼの腹がぐうと情けない音で鳴った。
「誰かいるのかっ」
部屋の中から引きつった声が飛び、続いてバタバタとなにかを叩く音がする。
メルフェリーゼは恥ずかしさから息を殺し、そっとその場をやり過ごそうとした。こちらからベッドの足元しか見えていないのであれば、あちらの近衛兵もメルフェリーゼの姿は見えていないだろう。
呼吸音すら響いてしまいそうで、メルフェリーゼは口元に手を当て、じっと時が過ぎるのを待つ。
じりじりと焼けつくような沈黙の後、部屋の中から「まだそこにいるか」と男の声で問いかけがあった。その声は先ほどのような険しさはなく、疲れきっているようにも聞こえる。
「いるなら……返事をして欲しい」
緊張を滲ませた声に、メルフェリーゼはわずかに身を乗り出し、室内を覗き込んだ。
広いベッドに、男がいる。枕を背に当てて半身を起こしているが、それ以上は起き上がれないようだ。右手がベッドの上をさまよい、なにかを探しているように見える。
メルフェリーゼは痛々しすぎるその顔を、息をするのも忘れてじっと見つめた。
男は額から目元までを白い包帯で覆い、口と鼻だけが出ている。癖のある黒髪から覗く左耳には治りかけの裂傷が見え、首筋にはいまだ乾いた血の跡が残っていた。
鼻筋がすっと通り、ぼんやりと開かれた唇は薄く、目元が包帯で覆われていても、その顔は美丈夫だろうと想像できる。
男の目が見えていないことは、一目瞭然だった。
ベッドサイドのテーブルには、柄にツリシャ王国の印が刻まれた短剣と、いくつかの皿が乗っていた。ミルクパンに、野菜と羊肉のスープ、切っただけのフルーツがいくつか盛られている。
男の手は、シーツの上をなぞるだけで到底テーブルには届きそうにない。世話をするはずの侍女の姿も、一向に見えない。
メルフェリーゼは目の見えない男を驚かせないように「あの……」と、か細く呟いてから室内に足を踏み入れた。
ぴくりと男の肩が揺れ、メルフェリーゼの姿を探して頭を動かすような素振りを見せる。
男の手が探り当てたのは、ベッドサイドのテーブルに置かれた短剣だった。警戒するように柄をぎゅっと握り、入り口のほうへ顔を向けている。
「大丈夫です、あなたに危害を加えたいわけじゃないんです」
メルフェリーゼは言い訳めいたことを口走りながら、そろそろと男の横たわるベッドに歩み寄る。焼き立てのパンの匂いがより強く香って、メルフェリーゼの腹がまたしてもぐううと音を立てた。
男の耳にもその音が聞こえたのだろう。警戒し、引き結んでいた口がぽかんと開く。目は見えていないはずなのに、メルフェリーゼは男の目でしっかりと見つめられたような気がして、恥ずかしさで顔が熱くなった。
男がふいと短剣から手を離し、静かに笑う。
「腹が減ってるのか?」
「あ、あの……」
「俺の目には見えないが、そこにパンがあるんだろう? 半分やるから、俺にも食べさせてくれないか」
男の気さくな声色に、胸が震える。この男は、目が見えないせいでメルフェリーゼを侍女がなにかだと勘違いしている。メルフェリーゼは外交の場に出たことがないため、声を聞いただけでは第二王子の妃だと分からなかったのだろう。
男に勘違いされ、まるで侍女に対する気軽さで話しかけられても、メルフェリーゼは彼を失礼な人間だとは思わなかった。
むしろほっとしたのだ。彼はメルフェリーゼのことを「夫に見向きもされない貧民窟出身の女」だとは思っていない。このまま、正体を明かさず、彼と話ができたら――。
メルフェリーゼはベッドを回り込み、サイドテーブルのそばに置いてあった木製の椅子に腰を下ろした。男の顔がこちらを向き、見えない目でメルフェリーゼを見ようとするかのように微動だにしない。
メルフェリーゼは皿に盛られた大きなミルクパンに手を伸ばし、それを男の両手に握らせた。
「ずいぶん甘い匂いがするな」
ミルクパンを半分に割った男が、ぽつりと呟く。
「そのパンは、ミルクとバターと砂糖をたっぷり使って焼くんです。ツリシャではあまり食べられませんか?」
「宿舎で出るのは黒麦のパンばかりだからな。薄く切っても固くて、しかも酸っぱいんだ」
男はそう言いながら、半分に割ったミルクパンの一方をメルフェリーゼのほうへ差し出した。見えていないせいで位置がわずかにずれているが、メルフェリーゼへ与えようとしていることはたしかである。
しかし、メルフェリーゼはゆるゆると首を振った。
「受け取れません。怪我を治すためにも、あなたがしっかり食べておかないと――」
「いや、受け取ってもらわないと困る。腹を空かせた女を差し置いて俺だけ食べるのは、居心地が悪い」
虚空をさまよっていたミルクパンの片割れがメルフェリーゼの頬を掠め、そしてむぎゅっと押しつけられる。
「口は……このあたりか? 違っていたら申し訳ない」
ミルクパンを頬に押しつけられながら、メルフェリーゼはこらえきれずにくすりと笑った。男もつられたように、頬を緩ませる。
メルフェリーゼは頬に押しつけられたパンを受け取り、大きな口でかぶりついた。男の腕にそっと手を添えて、口元にミルクパンを持っていってやる。男もまた、メルフェリーゼに倣うかのように大口を開けてパンに噛みつく。
メルフェリーゼが作法や人の目を気にせずに食事をするのは、実に二年ぶりのことであった。
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