1章(2)

 茶会が行われているフロアを抜け出すと、メルフェリーゼは城内がにわかに騒がしいことに気づいた。もとよりメルフェリーゼの顔を見て声をかけてくる人間などそうそういないが、今日は皆、メルフェリーゼがそこに立っていることにも気づかないような慌てようである。

 バタバタと行き交う人々の中に、幾分か気心の知れた顔を見つけ、メルフェリーゼは彼女を呼び止めた。


「ハナ、一体なにがあったの?」


 ハナと呼ばれた少女はメルフェリーゼの姿を認めると、両手いっぱいにシーツを抱えたままメルフェリーゼに向かって礼をした。ハナの肩から、二つに結った黒髪がさらさらと流れる。


「メルフェリーゼ様! 茶会はもうよろしいのですか? あっ、お召し物を変えたいですよね。ちょっとお待ちください……」

「いいのよ、部屋に戻ったら自分で着替えるから。ね、歩きながらでいいの。なにがあったのか、教えて?」


 ハナはきょろきょろと辺りを見回してから、声を潜める。


「今日、シリシャ王国から第三王子様が外遊に来られているんですけど」

「ええ、その話はひと月ほど前に私も聞いたわ」

「マーリンド様とツリシャ王国の王子様が狩りに行った先で、狼と出くわしたみたいなんです」


 狼という単語に、メルフェリーゼの顔からさっと血の気が引いた。ユルハ王国の土地には、森や林も多い。深く入らなければそれほど危険はないが、たまに人の住むところの近くまでやってきてしまう狼がいる。

 メルフェリーゼの父親は猟師として一家を養っていたものの、狼に脚を食いちぎられたことで狩りができなくなり、貧民窟へとその住まいを移すことになったのだ。


「それで、マーリンド様と王子様は……?」

「どちらも怪我はなく、無事です。しかし、ツリシャ王国の近衛兵が一人、王子様を守った拍子に大怪我をしたそうで、城に運び込まれてきたんです」


 メルフェリーゼは大怪我を負ったという近衛兵の身を案じた。職務を全うしたとはいえ、外遊先の国で狼に襲われるなんて。

 ハナの話によると、近衛兵は顔面をひどく噛まれたものの、城に運び込まれるまでは意識があり、その手から決して剣を手放すことはなかったという。

 王子に怪我はなくとも、自国の領土で王子や近衛兵を危険に晒したことは大問題である。場合によっては、外交問題に発展しかねない。

 そのため、国中から腕の立つ医師や薬師を呼び寄せ、近衛兵の治療に全力を尽くすとのことだった。


「あのう、メルフェリーゼ様……」


 ハナが珍しく、言いにくそうに口ごもる。


「どうしたの?」

「近衛兵が運び込まれた部屋というのが、メルフェリーゼ様の部屋の隣なんです。ですから、しばらくは騒がしくなるかと……」


 メルフェリーゼの与えられている部屋は、北側の端。人のほとんど通らない場所だ。隣室は要人以外の客、他国の近衛兵や城に招かれたものの、それほど力を持たない商人、夜会のために呼ばれた演奏団などが滞在する部屋として使われている。

 そこが今は、病室として使われているということだろう。


「気にしないで。少なくとも、ハナが申し訳なさそうにする理由はないわ」


 メルフェリーゼとしては酔っ払った客人に突然、自室のドアを開けられるよりは静かな病人がいてくれたほうがありがたいものである。

 もっとも、客人と同じフロアに自室のある王族など、メルフェリーゼ以外にはいないが。




◇ ◇ ◇




 日中は隣室に医師や薬師がひっきりなしに出入りしていたようだが、メルフェリーゼが夜着に着替える頃には、人の流れも落ち着いて静けさが戻ってきていた。

 ふと夜風に当たりたくなり、メルフェリーゼはそっとバルコニーへ出る。

 二階に位置するメルフェリーゼの部屋からは、中庭を見下ろせる。真っ暗な中庭に、巡回の兵士が持つオイルランプの明かりが揺れている。ランプの明かりが茶会の時に見かけた、ボロボロの服をまとった少女を照らした。


 少女の棒のように細い足首を、軽装の兵士がしっかりと掴んでいる。少女は、抵抗らしい抵抗を見せなかった。その気力すら、ないのかもしれない。黙って、引きずられていく。

 メルフェリーゼは室内へ戻り、ぎゅっと目を閉じた。その先を、見たくなかった。彼女がどうなろうと、自分に関係のないことだとは分かっている、けれど、それを高みから眺め、自分はあんなふうにならなくてよかったと安心するような人間にはなりたくなかった。

 メルフェリーゼだって、あのまま貧民窟にいて飢えていたら、少女と同じ運命を辿ったかもしれないのだ。


「そんなところに突っ立って、なにをしている」


 冷え冷えとした声に、はっと目を開けて顔を向けた。開け放たれた自室の入り口に、アウストルが立っている。

 アウストルはまだ外出着のままで、コートに施された金糸刺繍が部屋の明かりを受けてきらめいていた。

 あいかわらず、人を寄せつけない厭世的な無表情で、少し長くなった前髪の間から翡翠色の目が抜け目なくメルフェリーゼを観察している。


「ア、アウストル様……」


 メルフェリーゼは震えながら、その目を見つめ返すこともできずに狼狽える。

 こんな時間に、アウストルのほうからメルフェリーゼの部屋にやってくるなど、ただごとではない。

 わずかばかりの期待を持って、次の言葉を待つ。


「昼間の茶会のことだが」


 アウストルはメルフェリーゼの部屋には足を踏み入れず、続ける。


「なぜ途中で抜けた? 愛想の悪い夫人だと噂されたいか?」

「い、いえ、そのようなことは……」


 怒っている。アウストルは、間違いなく怒っている。アウストルは誰かから、メルフェリーゼが途中で茶会を抜けたことを聞いたのだろう。メルフェリーゼの失態を咎めるためだけに、ここまでやってきたのだ。

 期待が急速にしぼんでいく。一瞬でも、アウストルが自分に興味を持ち、寝室に訪ねてきたのだという甘い考えを持った自分が、猛烈に恥ずかしかった。

 アウストルが翡翠色の目をすがめて、メルフェリーゼを一瞥する。


「ザク侯爵夫人に世継ぎのことを話したな?」


 厳しい声で問われて、メルフェリーゼは肩を縮こまらせた。


「……はい」


 アウストルのため息に、メルフェリーゼは自分の失敗を悟る。失望されるのは、これで何度目だろうか。

 アウストルがさらに険しい声で続ける。


「あれはマーリンド派の人間だ。ディナよりも先に、お前が男児を産みはしないか、見張っているんだろう」


 メルフェリーゼが男児を産む可能性など、わずかたりともありはしない。それはメルフェリーゼ以上に、アウストル自身がよく知っているはずだ。それなのに、アウストルはメルフェリーゼを責める。


「今後一切、世継ぎのことは人に話すな。俺が迷惑だ」


 アウストルは粛々と、メルフェリーゼを責める。一切の手加減はない。愛情もない。メルフェリーゼに、お飾りの妻でいることを求める。

 言いたいことをすべて言ったのか、踵を返したアウストルが、ふと立ち止まった。

 動き出そうとしていたメルフェリーゼはびくっと肩を揺らし、息を詰める。


「ああ、今度の東方遠征に俺も参加することになった。しばらく帰らない」


 アウストルは足早にメルフェリーゼの部屋から離れていく。

 離れていく足音を聞きながら、メルフェリーゼは震える肩を抱きしめた。

 夫と話すだけで心を消耗するような妻が、この世には一体、何人いるだろうか。

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