隣国の騎士と駆け落ちするために殺したはずの冷徹夫がなぜか溺愛してきます

古都まとい

1章(1)

 豊かな森林と、冬でも凍らない大河に囲まれたユルハ王国。現国王ドゥアオロが即位し、三十年余がたとうとしているこの国でも、貧富の差は存在する。

 肥沃な土地と安定した四季のおかげで、ユルハ王国が飢饉に見舞われたという歴史はほとんどない。

 しかし、飢える者は飢えるのだ。その多くは口減らしという名目で、農村から都市部へ捨てられた女子たちであった。


 メルフェリーゼは、中庭に落としていた視線をそっと戻した。

 中庭でうずくまっていたボロボロの布切れ同然の服をまとった少女は、きっとどこかから城へ忍び込み、巡回中の兵士に捨てられたところだったのだろう。夜まで中庭にいては、そのうち兵士たちの慰みものになってしまう。

 重い、重いため息を吐く。メルフェリーゼは彼女に手を差し伸べることができない。夜になる前に、早く城下に戻って欲しい。そう願うだけだ。


「ずいぶん浮かない顔ですこと」


 棘のある声が投げかけられたことに気づき、メルフェリーゼは顔を上げた。幾人かの婦人が、じろじろとメルフェリーゼを眺め回している。そっと会釈を返すと、婦人たちは緩慢な動作でドレスの裾を持ち上げ、メルフェリーゼを取り囲んだ。


「ご機嫌いかが、メルフェリーゼ様」


 そう声をかけてきたのは、ザク侯爵夫人である。豊満な身体を艶やかなドレスで包み、髪は高く結い上げられている。城に出入りする貴族の中でもひときわ目立ち、国王との交友関係もあるときく。有力者であることに間違いはないが、メルフェリーゼにとってはあまり出会いたくない人でもあった。


「お気遣い、ありがとうございます」


 言葉少なに言って礼をし、場を後にしようとするが、侯爵夫人は微笑んだだけでメルフェリーゼを解放しようとはしない。

 王族や貴族の女性陣が集まる茶会でメルフェリーゼが聞かれることといえば、ひとつしかない。


「それで、どうなんですの?」

「……どう、とは?」


 侯爵夫人が、ぐっと身を乗り出して囁く。


「お世継ぎのほうは?」


 メルフェリーゼはそっと唇を噛んだ。身を離した夫人が嫌味ったらしい笑みを浮かべる。

 答えなければ、解放してもらえないだろう。

 メルフェリーゼはぎこちなく首を振った。

 くすり、と誰かのひそやかな笑い声がする。

 夫人がこの後に言うことなど、分かりきっている。唇を舐めて、蛇のようなにったりとした笑みを見せる彼女を、メルフェリーゼはなにも言えずに見ていた。


「あら、アウストル王子は王位継承には興味がないのかしら? それとも――」


 侯爵夫人が、その笑みを隠さずに言う。


「あなたに興味がないのかしら?」


 メルフェリーゼはむき出しの悪意に、黙って耐えた。メルフェリーゼも分かっている。侯爵夫人の言うことが、真実であると。


 メルフェリーゼは今から二年前、十八歳の時にユルハ王国の第二王子であるアウストルに嫁いだ。アウストルはその時、三十二歳。父親とまではいかないものの、年の離れた兄か、もしくは叔父と呼べるほど年齢は離れていた。

 両親は娘を嫁入りさせれば、一生遊んで暮らせるほどの給金がもらえるとあって、喜んでメルフェリーゼを城へ差し出した。最後の日、母が娘に言ったのは「なにがあっても帰って来るな」の一言である。


 妻となる女性は、月のものがきているならば若ければ若いほどいい。ユルハ王国は王女が王位を継承することはない。すなわち、王子夫人はなんとしてでも男児を産まねばならない。そのためにも若い女性が好まれ、貴族の令嬢ともなれば十六歳前後には嫁入りすることが当たり前であった。

 メルフェリーゼのように、貴族でもない、それどころか貧民窟の片隅に住んでいたような娘が、妾でもなく王子の正当な夫人となるなど、前代未聞である。


 当然、メルフェリーゼに対する風当たりは強い。貴族の夫人たちや城の侍女たちの間では、メルフェリーゼは魔女であって、アウストルになにか術をかけて操っているのではないかと噂する者までいる。貧民のメルフェリーゼと王族のアウストルでは、まるで不釣り合いなのだ。

 そして当のアウストルも、メルフェリーゼを妻として扱うことはこの二年間、一度もなかった。

 事務的な会話がほとんどで、ろくにお互いのことすら知らない。寝室も、食事も、ともにしたことがない。接点がないため、冷え切る関係すらない。

 メルフェリーゼにとってアウストルは、いまだ雲の上の王族であって、自分の夫であると自覚したことはない。自分が王子夫人だということも、いまだ信じられなかった。


 ザク侯爵夫人の言うように、きっとアウストルはメルフェリーゼに興味などないのだ。たまたま、なにかの間違いでメルフェリーゼを嫁に迎えてしまっただけで、アウストルも今になって後悔しているに違いない。王族はめったなことでは離縁できないのだから。


 侯爵夫人は黙ってうなだれるメルフェリーゼに飽きたのか、すっかりこちらへの興味を失い、別の夫人たちの輪に入って、お喋りに興じていた。どうやら話題は、アウストルの兄であり、ユルハ王国の第一王子マーリンドのことらしい。

 マーリンドはアウストルよりも先に結婚しているが、娘が三人いるだけで息子はまだ産まれていないという。マーリンドの妻ロワディナは、メルフェリーゼよりも早く男児を産もうと躍起になっているらしい。すべて風の噂である。


「ああ、ここにいらしたのね」


 茶会を抜けて休もうとしていたメルフェリーゼを、艶のある声が呼び止める。

 振り返ると、布をたっぷりと使った深紅のドレスを身にまとったロワディナが、こちらへやってくるところだった。

 胸元が広く開いたドレスから、豊かな胸がこぼれそうになっている。

 ブロンドのウェーブがかった長い髪を揺らしながら、ロワディナはメルフェリーゼのドレスを一瞥すると、勝ち誇ったように笑った。


「そちらはアウストル様からの贈り物で?」

「い、いえ……ピュリム子爵様からいただいたものです」


 ロワディナの値踏みするような視線が突き刺さる。


「なんていうか、ずいぶん地味ね? ああ、気にしなくていいのよ。あなたには、そのくらい地味なほうがお似合いだから」


 メルフェリーゼは恥ずかしさから視線を落とし、足元を見つめた。子爵には悪いが、メルフェリーゼの着ているドレスはロワディナのものと比べるとかなり見劣りする。深い緑の生地に、ほんの少しの金糸刺繍とフリル。贅をこらしたものとは言い難い。

 それでも、アウストルからドレスや宝飾品の贈り物がないメルフェリーゼにとっては、たった七着しかないドレスのうちの、大切な一着である。


「ロワディナ様は、いつもお綺麗ですよね」

「当たり前でしょ? このドレスも、指輪も、すべてマーリンドが手配してくれた職人に作らせたものなのよ」


 ロワディナはきっと、夫に愛される自分を自慢しにきたのだ。夫に愛されていないメルフェリーゼの心を折り、男児を産むことを諦めさせ、王位継承の舞台から引きずり下ろすために。

 引きずり下ろすもなにも、メルフェリーゼはまだ舞台に立ってすらいない。アウストルに触れられたことなど、一度もない。そしてこれからも、その瞬間は永遠に訪れないだろう。

 花の盛りのような美しい時期を城の中で飼い殺され、周囲に疎まれながら、女としての価値が死に絶えるのを待つだけの日々。

 死に際に思うはずだ。あのまま貧民窟で死ぬよりマシだった、と。


「そういえばあたくし、近頃、月のものがきていないのよ」


 ふと、思い出したようにロワディナが言った。目にたっぷりの自信と、誇りを込めて。メルフェリーゼの心を折りにくる。


「分かるのよ、あたくし。この子は、男の子だって」

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