1章(4)

 男は羊肉の癖のある味に少々苦戦していたものの、メルフェリーゼの介助であっという間に食事を平らげた。フルーツがあまり好きではないという男に、メルフェリーゼはいくつか切り分けたフルーツを分けてもらい、ようやく腹が満たされる。

 空になった食器を片づけながら、メルフェリーゼはふと思い出した。


「そういえば、まだお名前を聞いていませんでした」


 食後の薬湯を飲んでいた男が、顔を上げる。


「俺はカイリエンという。隣のツリシャで、近衛兵をやっている」

「カイリエン様は、ユルハに来たのははじめてですか?」

「カイでいい、周りもそう呼ぶから」


 薬湯を入れた器が空になっていることに気づき、メルフェリーゼはカイリエンの手から器を取り上げる。本当に、侍女さながらの働きをしているようだとメルフェリーゼは思った。身の丈に合わない王子妃という立場にしがみついているよりは、いっそ侍女として扱われたほうが楽ではないか。

 カイリエンが短く礼を言い、話を続ける。


「ユルハには何度か、王子の外遊に同行する形で来たことがある。しかし、油断したな……」


 カイリエンは頭痛をこらえるように、両手で頭を抱えた。


「冬越し前の狼が、あんなに凶暴だとは思わなかった」


 カイリエンの呻きに、メルフェリーゼは心を痛めた。

 冬越しを前に蓄えを求める狼や、雪解けの頃の飢えた狼は人里に近づきやすく、人間が襲われる数が増えるのもこの時期である。

 王族が狩りに使う森はそれほど深くなく、狼の生息数も少ない。まさかこんなところに狼が出るわけがないと信じ込み、狩りを続けたのだろう。その結果が、カイリエンの大怪我というわけだ。


「傷の治りは、どうなんですか……?」

「左目は、だめらしい。牙が左目に入って、眼球ごと食われたんだ。そのほかは問題ないと、医師は言っていたな」


 メルフェリーゼは震える指先で、カイリエンの目元を覆う包帯に触れた。永遠に失われた、カイリエンの左目。命が助かっただけ良かったと思えばいいのか。

 メルフェリーゼの父は片脚を失ったことで、猟師の仕事を奪われた。カイリエンも、左の視野が欠けてしまっては、近衛兵の仕事を続けられないのではないか。

 カイリエンがそっと、メルフェリーゼの指先を手のひらで包み込む。


「俺は君の顔も名前も知らないけれど、優しい人なんだろうと思う」


 包帯の奥のカイリエンの誠実な瞳が、透けて見えるようだった。それほどまでに、彼の声は真摯にメルフェリーゼの胸を打つ。

 カイリエンはメルフェリーゼの指を優しく包帯から引き離すと、半身を枕に預けた。


「すまない、久しぶりに人と話したものだから……」


 慌ててカイリエンの身体を支え、胸元までシーツを引き上げる。


「ごめんなさい、長居してしまって」

「いや、いいんだ。ちょっと疲れただけで――」

「あら、ご歓談中だったかしら?」


 背筋から震えが這い上がるような、艶のある声がメルフェリーゼに問いかける。

 ベッドから身を離して入り口を見ると、そこには鮮やかな青色のドレスを身にまとったロワディナが立っていた。カイリエンも新たな人物がやってきたことを察し、沈めかけていた半身を起こす。

 ロワディナはずかずかと室内に乗り込むと、いきなりベッドへと――カイリエンの上へと乗り上がった。カイリエンは起こしていた上半身をしたたかにベッドに打ちつけ、痛みに呻く。


「ロワディナ様! なにを……!」


 制止に入ったメルフェリーゼの手をはねのけ、ロワディナはカイリエンが身につけていたシャツのボタンをひとつずつ外していく。


「夫の種は役立たずなんですもの。凛々しい男を産みたいのなら、若い男の種のほうが良いに決まっているでしょう?」


 ロワディナの物言いに、カイリエンが状況も飲み込めないまま牙を剥く。


「人を馬のように扱うな!」


 彼女はカイリエンの言葉など、少しも気にする様子がない。


「誰に向かって口を聞いているの? ユルハ王国第一王子の妻に、しがない近衛兵ごときが指図できると思って?」


 カイリエンは第一王子の言葉を聞くなり、抵抗していた手をぴたりと止めた。ただの近衛兵が、王子の妻に手を上げたら、どうなるか分かったものではない。ロワディナの頼みを断れば、その話はたちまち第一王子であるマーリンドの耳に入るだろう。

 抵抗を止めたカイリエンに、ロワディナはすっかり気を良くし、ボタンをすべて外した。シャツの前がはだけ、鍛え上げられた腹筋や厚い胸板が覗く。ロワディナは頬を紅潮させ、うっとりと呟いた。


「黙ってあたくしに、全部注ぎ込んでちょうだい」


 ロワディナの言葉の意味が分からぬほど、メルフェリーゼも子どもではない。二人を見ていられずに、メルフェリーゼは唇を噛んでうつむく。一刻も早くこの場を去りたいのに、足は床に縫い止められたかのように少しも動いてくれない。

 茶会の時、ロワディナは月のものが来ていないと言っていたが、ここでカイリエンに迫っているということは、子は授からなかったらしい。

 カイリエンが手探りでロワディナの腕を掴む。


「旦那にバレたら、どうするつもりなんだ」

「そんなことを気にしていたの?」


 ロワディナが艶やかに微笑み、するするとコルセットの紐を解く。


「産まれるのが男なら、あの人だってなにも言わないわよ」

「女なら?」


 ロワディナが一瞬、宙に視線をさまよわせてくすくすと笑う。


「そうねぇ、親の顔も分からないうちにどこかへ養子に出そうかしら」


 カイリエンはなにか言いたげに口を開いたが、自分の立場を思い出したようにぐっと言葉を飲み込んだ。

 ロワディナの細い肩から、ドレスが落ちる。毎晩、侍女に手入れさせているという背中は傷ひとつなく、白くなめらかで美しい。ドレスから零れ落ちそうになっている豊満な胸を、ロワディナはぴったりとカイリエンの顔に押し当てる。

 カイリエンが、すべてを諦めたように息を吐く音で、メルフェリーゼは弾かれたように顔を上げた。


「……やめてください、ロワディナ様」


 カイリエンのベルトに手をかけていたロワディナが振り返り、まだいたのかと言いたげな目つきでメルフェリーゼを見る。


「あたくしの邪魔をしないでもらえる?」

「その方はまだ、ロワディナ様のお相手をできるほど傷が治っておりません」


 カイリエンが、はっと息を飲む音が聞こえた。


「だめだ、王子妃に向かってそんなことを言っては……!」


 カイリエンはまだメルフェリーゼを、ただの侍女だと思い込んでいる。自分を庇ったことで、メルフェリーゼがロワディナやマーリンドから責められることを憂いている。

 できればこのまま、正体を明かさずにカイリエンと語らいたかった。彼の包帯が解かれ、この城を去る時にはじめて、本当の自分を見せたいと思っていた。

 けれど、その願いはどうやら叶わないらしい。


「お気遣いありがとうございます、カイリエン様。でも……大丈夫です」


 カイリエンが身じろいで、メルフェリーゼの声がしたほうを振り仰ぐ。


「君は、一体……」


 ロワディナが、すべてを察したようにほくそ笑んだ。ここで負けてはいけない。

 メルフェリーゼははじめて、彼にその名を名乗った。


「私は、メルフェリーゼ――ユルハ王国第二王子アウストルの、妻です」

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