第11話

 ぽつり、黒田はつぶやいた。そう言って、「ほら」とジャージのズボンの裾を捲ってみせた。靴下の縁から、古い傷跡がのぞいた。


「小等部の頃に、事故にあってさ……それからちょっと足が弱いんだよね」


 それから、痛みを噛みしめるような笑みを浮かべた。赤城は彼の目を真っ直ぐ見つめると、頷いた。


「お辛かったですね」


 淡々とした物言いだった。けれども、陽射しに当たる石が温かいように、彼女の言葉には、心がまどろむような温度があった。赤城はこういった不思議の性質を持っていた。

 黒田はこの声と目を受けてきた、これまでのすべての人々と同じように、彼女への親愛の情を深め、自らの傷に寄り添う表情を浮かべる。


「昔のことなのに。なんだか辛いものだな」


 今気づいたように呟く。彼自身にとっても、意外の感情であったように。


「それほどお好きなのでしょう」


 赤城は静かに言う。過度の感傷も親身さもない。ただそこにある言葉だった。黒田は、はっとして、「うん」と頷いた。


「赤城さんは変わってるな。俺、普段はこんなに話さないんだぜ」

「そうですか」

「うん。“黒田は元気でいいな”って言われる。俺もそんな自分が好きだし」

「話すのは嫌いですか」

「嫌い。だって、女々しいだろ? どうにもなんないことをグチグチ言うなんてさ」

「そうですか」


 黒田は困り顔で、悲しげに眉を下げる。そしてそれから、大きく笑ってみせた。


「だから、話さない。それより、楽しい未来のこと考える方がいいじゃん」


 黒田は前に向き直った。遠くで竹刀を振る中目木をまぶしげに見つめる。中目木のまとう気配は常と違い、立ち姿も凛と美しかった。時折不安定な気配が垣間見えるので、彼の全盛の技量の高さが窺えた。


「ツバサのこと、俺が守ってやるんだ。あいつは、俺の希望だから」

「希望、ですか」


 赤城が言葉を繰り返す。黒田はそれで、自らの発言に気づいたようで、慌てて首を振った。


「なんて、大げさだけどさ! あいつにはあいつの人生があるし」


 苦笑しながら否定したが、赤城の目を見つめると、困った顔をした。


「何で見るの。めっちゃ見るよね」

「いやですか」

「いやっていうか、じゃないけど……」


 黒田は笑いつつ、首をかいた。「なぁんか、話したくなるんだよな……」と、独りごちる。


「でも本当に、希望なんだ。俺にはあいつしか、いないから」


 それきり、黒田は黙っていた。なにかひと心地ついたような様子だった。


「赤城さん、君もやってみるか?」


 竹刀を片手に、藤川がのしのしとやってきた。汗ばんだ坊主頭が、西日に光っている。


「いえ、私は」

「またまたあ。相当できるって聞いたぜ、見せてくれよ」


 他の部員たちも、わいわいと騒ぎだす。黒田は赤城に、「行ってきたら」と促した。にっこり笑う顔に、もう先の影はなかった。


「碓井君の鞄は、俺が責任持って預かってるからさ」


 そう言って、手を差し出した。


「な、碓井君。いいだろ?」


 黒田が向こうにいる由岐治に向けて背を伸ばし、声を張った。すると周囲もくるりと由岐治に視線を集中させた。由岐治は、にこやかな笑みを浮かべ、「もちろん、いいですよ」と応えた。

 そしてまた、赤城に視線が集まる。今度は赤城に否やはなかった。「わかりました」と頷き、黒田に主の鞄を預けた。そして、体操着に着替えるべく、用具室に向かったのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る