第3話

 赤城を無視している間に、武道場に来ていた。昇降口のところで、ジャージ姿の黒田が待ち構えている。


「よく来てくれたね! さ、こっちだよ!」

「いえ」


 憮然とした表情を意にも介さず、黒田はにっこにこの笑顔で由岐治を促した。その際に、思い切り由岐治の両腕を抱えるように掴んできたので、由岐治は逃れるために、さりげなく一回転しなければならなかった。


「赤城さんもありがとう! まさかこんなにすぐに来てくれるなんて……」

「いえ、坊っちゃんが剣道をなさると聞いたので」

「あはっは! 君も好きだね!」


 顔を笑顔いっぱいにして、黒田は赤城を肘で小突いた。その調子には、普段女子にはこういったスキンシップはしないのだろうという、横暴な気負いが見えた。なんだそれ、それが許される相手だと、赤城には思ったと言うのだろうか。

 汚い手で触るなよ、くさってもこの僕の使用人だぞ――

 『いける』と思われたのは、碓井由岐治への侮りと見え、由岐治は大変不機嫌となった。汗に濡れた赤ら顔を、睨まれているとはつゆしらす、黒田は武道場の扉をくぐった。


「お疲れ様です!」

「おっと」


 赤城が小さく声を上げた。そこには先客がいたのだ。こちらに背を向ける格好で、床に正座している。びしっと着られた道着姿は、一分の乱れもなかった。

 こいつ、できるな。

 由岐治は思った。どこの漫画だと思うかもしれないが、できる人間というものは、いずまいが違うものだ。眼の前のこの先客から、研ぎ澄まされたものが、ぴんと道場に透明な糸をはるようだった。


「お疲れ様です」


 黒田が再度、頭を下げる。先よりも人を意識した声かけだった。返事はなかった。黒田もそれをわかっているのだろう。静かに、と、由岐治と赤城を手で促しながら、そおっと道場の端を歩き出した。由岐治と赤城はそれに続きつつ、通り過ぎざまにそっと先客の彼を見た。伸ばされた上体に、天から吊られたように頭がのっている。目は伏せられ、意識はこちらのことなど感じていないようであった。


「こっち」


 用具室に扉の向こうから黒田に呼ばれるまで、由岐治は思わず見入っていた。赤城もそうだったのか、自分と同じように顔を黒田の方へ向けているところだった。


「サムライですね」


 赤城がぽんと呟く。

 アホの感想に、軽蔑の念がわいたが、まあ言いたいことは解る。彼は侍だ。由岐治の中に、むくむくと負けず嫌いの血が、騒ぎ出したのがわかった。


「わるかったね。久能くのうはいつも早いんだ」

「そうなんですか」


 用具室の中に入ると、やにわに黒田がひそひそと話し始めた。


「うん、いつも一番乗り、それで一番最後に帰るんだ」

「熱心ですね」

「そうなんだ。マネージャーとしては大変でさ……」


 言いながら、黒田は道着をあさりだした。黒田のその様子に、眉をひそめた。何となく、黒田の言葉の端々に感じる非難めいたものに、由岐治の心までがささくれるのを感じる。

 せっかくやる気になっていたのに、あっという間に気が削がれてしまっていた。由岐治は、床の汚れ具合を確かめ、ぽいと鞄を置いた。


「さ、道着に着替えて」


 当人は切り替えたのか、由岐治に笑顔で道着を差し出してきた。由岐治は形式的に「ありがとう」をし、それを受け取った。ちゃんと洗ってんだろうな、くそ。


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