第23話


 いろとりどりのお菓子、たくさんの玩具。

 すべて自分に、用意されたものだった。


「あなたのために用意したのよ」


 皆が自分にそう言った。そう言って全部差し出してくれた。

 けどほんとは、どこかでわかってた。

 一緒にそれを、受け取る権利があるひとがいることを。


「お前、すごいね」


 由岐治を見下ろして、男は言った。

 呆れと言うには酷薄で、侮蔑と言うには軽薄な笑みだった。失望、と言う言葉はいっそ優しいのだと知った。だってまず、自分への期待があるのだから。

 男は由岐治とそっくりの顔を笑みの形に歪めて、息をもらした。一瞬、横目を流す。


「自分だけ、そんな座り込んで、平気でケーキ食べてさ。お姉ちゃんはそこで、下働き同然の扱いされてるってのに」


 よくやれるよ。

 そう言って、背を向けて去っていった。由岐治は、男を、ただ見送った。声をかけられた時、見上げた笑顔のままで。


 眠りながらに、由岐治は悲鳴を上げた。涙が、すでに頬には幾筋も伝っていた。浅くなった呼吸で、必死に肺を膨らませる。体をまるめ、布団の中に身を隠した。

 焼け付くような羞恥が、由岐治の全身を焼いていた。もがいて、シーツをかく。苦しくて仕方がなかった。


 由岐治は、いつの間にかベッドに眠っていた。寝間着に着替えさせられている。ああ、あいつ勝手に。風呂にも入らずに、汚い、あの無能――頭のどこかで、由岐治はこのやりようを非難したが、それを今、認識することはできなかった。

 あの時のことは、はっきり思い出せない。いや、違う。本当は覚えているが、しいて思い出したくはないというのが正しかった。

 必死になって怒鳴り負かされ、かばった当人から不要にされた。あげくパニックになり……成果も達成感もなく、ただ余計なことをして、とんでもない醜態をさらした事実だけが残った。喉がそっくり返るような声をあげた。みっともない、みっともない、みっともない! 全て消し去ってしまいたい!

 由岐治は、追いかけてくる羞恥から、逃げることに必死だった。ううとうなり声をあげる。頭の中に降る、光景や声を振り払うために。


 お前、すごいね――追い打ちをかけるように、夢の声が、生々しく被さってくるのだ。助けてくれ、由岐治は、もがいた。けれども、目を開けても閉じてもそれは襲ってくる。

 夢は目が覚めた瞬間、いつも忘れてくれない。陰みたいに、起きたあとまで苦しめてくる。本当に辛い言葉は忘れても、その痛みだけは覚えているみたいに。由岐治は、喉をおさえた。喉からは、犬のように、短い呼気が断続的に、吐き出されていた。


 どうして今、こんな夢を? 由岐治は茫洋とした闇に問う。どうしてこんな時にまで、またこんな夢を見て、どうしてこんなに僕を惨めにする? あんな犬を見るような目を、僕にもう一度向けさせるんですか。どうしてですか、神様。


 答えはない。当然だ。神様なんていやしない。ここにいるのは、僕ただひとりなのだから。誰も、いやしないのだ。前髪をわしづかみ、引っ張った。ぐいぐいと頭皮のゆれる感触で、冷静さを取り戻そうとする。

 今とは状況が違う。あいつらは僕を嫌いで言ったけど、あの人は違うんだ。

 男はきっと、そこにいる蚊でも叩くように、また開いたドアを閉めるように――自分に声をかけたにすぎない。ただ不快なものを、その時の気分で叩いただけなのだ。

 ――ねえ、そうでしょう、お父様。

 言いながら、由岐治はむなしさに襲われていた。本当のところ、何か違うのか、わからなかったからだ。だって同じじゃないか。全く僕の話なんて聞く気がなくって、僕に興味なんてないというところは――

 何も興味なんてなかった。無関心に自分を打ちすえたのだ。だから、だからだ。

 由岐治は、低くうなり声をあげ、顔に爪を立てる。男――父にそっくりの顔を。

 この顔に生まれた為に、由岐治は多大なる恩恵を受けた。そして、母にそっくりの顔に生まれた為に――あいつは多大なる迫害を受けたのだ。


 いろとりどりのお菓子、たくさんの玩具。

 すべて自分に、用意されたものだった。


「あなたのために用意したのよ」


 皆が自分にそう言った。そう言って全部差し出してくれた。

 けどほんとは、どこかでわかってた。

 一緒にそれを、受け取る権利があるひとがいることを。


 由岐治の脳裏に、双子の姉の後ろ姿がよぎる。喉が自身に傷をつくるように、ひーっと鳴る。いつだって、自分がはなやいだ場にいる裏で、陰のようにひっそりたたずんでいた姉を――

 違う、由岐治は思い直す。違う、違う。僕のせいじゃない。あいつが悪いんだ。

 ベッドを激しく叩いた。どんどん、弾力を持って拳はしなり跳ね返る。物理的な行動で、頭の中の記憶を黒く塗りつぶそうとする。しかし、それは塗る端から、じわりと浮かびあがってきた。


 あの日だって、そうだった。あの日、由岐治たちは別荘に呼ばれていて、一族が集まっていた。


「よく来たね、由岐治ちゃん」

「皆、待っていたんだよ」


 皆が、自分を歓待してくれた。料理やお菓子に遊戯、手を尽くして自分を喜ばせようとしてくれた。由岐治は、それをすべて、笑顔で受け取った。使用人と一緒に、こき使われる姉のことは、視界のすみから追いやった。

 父に声をかけられたのは、おやつにメロンのケーキを差し出された時だった。


「おいしい、おいしい!」

「まあまあ、由岐治ちゃんたら」

「そんなにはしゃぐと、のどにつまらせちゃうよ」


 大はしゃぎする自分に、皆が頬をゆるめた。ただ、父だけは違った。ずっと、くだらなさそうに、遠くのソファで足を組んでいた。由岐治は、それを見ると不安になって、いっそう、はしゃいだ。

 くしくも二人きりとなったとき、父はすぐに立ち上がり、部屋から出て行こうとした。

 由岐治は、それにひどく焦った。ふだん全く交渉のない父。彼を父と呼ぶのは、血縁上の父という以外になかった。それでも由岐治には、彼が自分の父というだけで、特別な存在だった。

 彼に愛されたい、大事にされたい、彼に愛される自分でいたいという欲求が、強迫観念のように、いつもしみついていた。

 だからすれ違いざまに、こちらを見てくれたとき、由岐治は舞い上がった。顔を上げ、「お父様!」と笑顔を浮かべた。お父様も、ケーキを食べますか。そう言おうとした。

 それより早く、父は、口を開いた――


「違う!」


 嗚咽に、背を跳ね上げさせた。


「あいつが悪いんだ。僕のせいじゃない!」


 激流からのがれようと、必死につかんだ石は頼りなかった。あの時の燃え上がるような羞恥は、今なお、自分を飲み込んでいる。


「くそったれ、」


 誰に向けたものであるか、わからない。おそらく全てにだ。背筋から蟻が這うように、悔しさが襲ってきた。どうしてなんだ。

 どうして、こんなに自分は苦しいのに。こんなに苦しんでいるのに。

 皆、平気で生きていけるんだ。自分の恥を知らずに、知ろうともせずに、笑って生きていける――自分を善人だと、信じ込んでいけるんだ?


「ずるい」


 ずるい、ずるい、ずるい――そんなの、ずるいじゃないか。許せない。


 由岐治は歯を食いしばった。夜の闇はまだ、深まりだしたばかりだった。夜が明けるまで、ずっと時間がある。それまでずっと、これに耐えなければならない。そして、夜が明けたからと言って、覚める夢でもない。黒くずっと尾を引くだろう。そうして、また夜がくるのだ。由岐治は、頼りなく、情けなく――怒りに身を震わせた。

 うう、ううと唸って、ベッドの上をのたうち回った。どんなに苦しくとも……浅く苦しい呼吸も、背を跳ね上げるような痛みも、結局自分ひとりのものなのだ。

 どうして、こんな理不尽が起きるのだろう。もがいても、夜の帳の中、由岐治の身じろぎさえ、誰も見てはいないのだ。

 役立たず。由岐治は心に吐き捨てる。なんで僕をひとりにするんだよ。皆、皆、役立たずだ――


 ◇◇◇


 由岐治の泣き声を、赤城は静かに聞いていた。ベッドの脇にひざまずいて、ことさら静かに、月明かりさえ受けないほどに。

 由岐治の声は、不規則に、苦しげな呼吸を繰り返している。赤城は立ち上がる。


「坊ちゃん」


 その背に手をやった。由岐治は、赤城を肩越しに振り返る。赤城は、その背をとんとんと叩いた。


「いっ、い、いたのか」

「いますとも」


 不安定で、おぼれそうな声に、赤城は返す。主は涙に沈んだ目を見張り、そしてゆがめた。しかし何も言わず、背を丸めて泣き出した。


「坊ちゃん」


 背中がばねのように、赤城を拒絶している。しゃくりあげるのを、必死におさえようとしているようで、苦しげに身を跳ねさせている。赤城は、なだめるように、その背を叩いた


「泣きたいときは泣いたらいいです」

「う、うる、さい」


 途切れ途切れに、つむがれる言葉を、赤城はゆっくりと受け止めた。喉から出るのが嗚咽だけになったのがわかると、静かに口を開く。


「でも、自分をいじめるのはよしなさい」


 赤城は、一定のリズムでたたき続ける。由岐治は、押し黙り、そして顔を覆った。長く、細く、何度も息をつく。赤城はじっとそれを聞いていた。

 夜が深くなる。由岐治の嗚咽が、静かなものへと変わる。そして、泣き疲れ――由岐治は再び眠りに落ちていった。

 赤城は由岐治の顔を見る。涙に濡れ、しかし顔はあどけなく、穏やかなものに変わっていた。張り付く前髪を、そっとはがしてやる。濡れた顔を、優しくぬぐった。


 由岐治の規則的な寝息を聞きながら、赤城はかつてに思いを馳せる。

 それは、いつの日だったか――別荘だった。赤城たち、使用人も多く帯同しての盛大な休暇だった。

 来る大人たちは皆、主のことを構った。料理にお菓子に遊戯、プレゼント――与えられるすべてのものに、主は、ひとつひとつ感動していた。その無邪気な様子に、大人たちは頬をほころばせる。


「由岐治ちゃんの為に、趣向をこらしたのよ」


 主の叔母様が、いろとりどりの料理をずらり、テーブルに並べた。


「わあ、おいしそう!」


 主は大喜びで、それらを平らげた。どの料理にも新鮮な反応を見せ、感想を言った、それでいて、けっして無邪気な子供の域を出ない範囲で。

 そんなに食べて大丈夫かい、と若様を除いて、皆が笑みを浮かべていた。


「ひばなさん、由岐治坊ちゃまを知らない?」


 それからしばらくして、使用人のひとりが赤城に尋ねた。伯母様がケーキを用意したから、主を探していたのだと言う。主は、にこにこと「探検に行く」と行って、まだ帰ってきていなかった。

 主を探しに行くと、別荘の裏の林の奥、大きな木の根本で、主はうずくまっていた。お腹を抱え丸くなり、顔には、びっしりと脂汗が浮かんでいた。赤城が近寄ると、泣きそうな顔で、「誰にも言うな」と言った。


「言ったら、殺してやる」

「坊ちゃん」


 涙声で言い募る主を、赤城はそっと抱き抱えた。頭を膝の上にのせ、お腹にそっと手を添える。主は怒らず、されるがままだった。心細かったのだろう、静かに泣き出した。よほどお腹が苦しいのか、嗚咽もしづらい様子だった。


「坊ちゃん、食べられないって言っていいんですよ」


 赤城は主の額から、髪をどけてやる。主はかたく目を閉じたまま、かすかな声で返した。


「言える訳ないだろ」

「何故です」

「そしたら、皆がっかりする。がっかりして……僕のことなんて、二度とかまってくれなくなる」


 弱々しい、細い泣き声が、木々のざわめきに溶けていった。

 赤城は黙っていた。静かに、主を守るように、じっとお腹に手を添えていた。


 ◇◇


「無理なさるんですから。あなたも、お嬢様も」


 ――ひばなさん、ゆきちゃんは、元気にしていますか――

 やわらかな、澄んだ声が、赤城の耳によみがえる。赤城のもう一人の主――


「うう、」


 由岐治が身じろいだ。寝返りを打ち、そして何かを探るように手を伸ばす。

 赤城はその手をとった。そして、ベッドに頬杖をつくと、静かに目を閉じたのだった。

 

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