第22話
ホールの扉をくぐる直前。
最後尾を歩いていた赤城は、くるりと振りかえった。
「滝口先輩」
そして、滝口に問いかける。遠くからの声かけだと言うのに、よく通り、かつ静かな響きだった。
「何故こんなことをなさったんです」
赤城の問いに、皆が身構えた。せっかく収まった場を、また荒らされることへの危惧だった。
「あなたは、理紗さんのことがお好きだったんでしょう」
友人たちが、滝口を背にかばう。しかし、赤城の様子はどこまでも穏やかで、そこに糾弾の気配はなかった。
「このようなことをすれば理紗さんが傷つくこと、あなたにはわかったでしょう」
滝口は、うつむいた。言葉を吐き出す。それは、ことのほか――滝口自身も予想外だっただろう――静かで、疲れた声音だった。
「わかってたよ。でも、どうしても許せなかった。理紗の気持ちを思うと……」
だからこそ、その言葉は悲しく皆の耳に届いた。皆、やりきれないように、顔を伏せる。赤城はひとり、じっとその顔を見ていた。
「そうですか」
静かな声が頷いた。湖面に葉が落ちるような、慈悲深い声だった。皆、疲れ切っていた。どこかその声に、癒されている自分たちを感じていた――
「理紗さんを理由にしてはなりません」
皆が、顔を上げる。唐突にやさしくとられたはずの手を放され、戸惑いの声をあげる。彼らもそうだったのか、意図をはかりかねた顔で、赤城を見た。
「あなたはあなたの為に、今回のことを起こしたのです。自分の気持ちを取り違えてはなりません」
赤城の声は、どこまでも平素だった。穏やかな空気のふるえのような声が、脳に入り込んでくる。
「でなければ、次にあなたが怒りを向けるのは、理紗さんになるでしょう」
それだけ言うと、赤城は礼をとり、彼らに背を向けた。ゆったりとした歩調で、相羽が開き待つ、扉をくぐる。
扉が閉まる音があたりに響く。滝口たちは、しばし立ち尽くし、扉を見つめていた。
◇◇
「ありがとう。二人とも」
寮の外で、相羽は由岐治と赤城に礼を言った。その顔に疲れはにじんでいたが、彼自身の活気はうちに満ちてきているのがわかった。
「君たちのおかげで俺は、自尊心を失わずにすんだ」
そう言って、大きく笑った。夜の気配の中、月の光が相羽のえくぼを映し出す。由岐治は、うつむき「いいえ」とうつむいた。赤城は静かに頷く。
「また、改めて礼をするよ」
「はい」
「俺はこれから、病院に行ってくる」
由岐治は、はじかれたように顔を上げた。相羽は静かな表情で、頷いて見せた。
「俺の事情で、エナとリサ、そしてご家族を悲しめ、苦しい思いをさせた。謝ってくる」
「先輩……」
「それじゃ、また」
相羽は片手をあげて、ふたりに背を向けた。月と星の光を背負い、相羽はどこまでも、堂々とし、背筋をただして歩いていった。
赤城がその姿に、礼をとった。由岐治はその背を、どこかぼんやりと見送っていた。
「坊ちゃん」
相羽の姿が見えなくなった頃、赤城が由岐治を促した。
由岐治は、足が、縫いつけられたようにその場から動けなかった。赤城が、そっと由岐治の背に手を添える。
そこで、赤城は由岐治の体がふるえているのに気づいた。
「坊ちゃん」
「う、」
赤城に声をかけられ、由岐治もそこで、ようやく気づいた。膝の裏から、冷たい熱のような――大きなふるえが走ってくる。そして、由岐治の頭の芯までしびれさせていた。
制御ができない。由岐治は不可解な顔のまま、自分の口元に手をやった。その手が、がたがたとふるえているのを見て――由岐治は、叫んだ。
病んだ犬のような声が、あたりにこだました。
「坊ちゃん」
赤城が、由岐治を抱き抱えた。由岐治は体をふるわせ、上下前後にゆすり、叫び続けた。
「くそったれ! くそったれ! くそったれ!」
吠え声が、音として形を持つと、ひたすら、由岐治はそう叫び続けていた。木々のざわめきが、より由岐治の神経を障らせた。
わあああ……――何事かと、カーテンのあく気配がする。赤城は頑健に、由岐治を抱きしめると、ひたすら支えていた。
「坊ちゃん」
「みんな、皆、くそったれだ! 死んじまえ! 皆、死んじまえ……!」
ぼたぼたと、由岐治の顔中から、水が落ちた。由岐治は、叫んで、うなり声をあげる。頭をがんがんと振った。頭をかきむしろうとし、腕が抑えられているのを、必死にふりほどこうとする。
「はなせ! はなせ!」
「いいえ」
「はなせ!」
頭を、殴らなければ、はやくかきむしらなければ。このままでは自分は狂ってしまう――本能的な恐怖で、由岐治は泣きわめいた。赤城は、じっと体を押さえていたが、おさまらぬと見て、由岐治の体を抱え直した。由岐治の頭を抱え、自分の肩に預けた。
「大丈夫です」
由岐治は叫び、暴れた。いくばくか自由になった手足が、赤城に当たる。赤城は目を閉じて、由岐治の背を叩いた。強くあたたかな振動が、由岐治の体に伝わる。由岐治はうなった。うなって、赤城の体をかきむしった。赤城は微動だにしなかった。
ゆきちゃん、ゆきちゃん。だいじょうぶだよ――
やさしい声が、光のように由岐治の煮えた頭に降りてきた。目を見開き、それから、固く閉じた。
「だまれ!」
由岐治は叫ぶ。先の声を振り払うように。
「裏切り者! 全部、全部お前のせいだ!」
由岐治は、拳をふるう。赤城の体のどこかにめりこんだ。赤城は動じない。
「はなせよ! くそったれ!」
「いやです」
「はなせ!」
赤城は聞かなかった。「くそったれ、」由岐治は赤城の服を噛んだ。
◇◇
由岐治の声が途切れ、しだいにしゃくりあげが入ってくる。赤城の手つきも、穏やかなものに変わってくる。
由岐治は顔中濡れ、疲れ切りぼんやりした目で、赤城の肩にもたれていた。赤城は、主が峠を越えたと見て、由岐治の体を抱き抱えた。由岐治はもう抵抗する気力もなく、赤城に運ばれていった。
ただ、冷たい胸の痛みのまま、静かに泣き続けていた――
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