第13話
ホールは全体、重苦しい空気に満ちていた。
滝口は相羽を、厳しい顔で見下ろしていた。
「亮丞、お前どう落とし前つけるつもりだよ」
冷たい声が降る。相羽は答えない。応えられない、がふさわしかった。口元にチョコレートがついている。何故かそんなものが、緊迫しているとよく目についた。
「滝口先輩」
「滝口」
理紗の友人や、少年たち――滝口と相羽の友人であろう――が、滝口に声をかける。言葉は滝口をなだめるものでありながら、声音には、相羽への困惑、疑念、そして失望――いろんな感情がせめぎ合っていた。
他の、彼らと深い関わりのある者たちもそうだった。皆、相羽を見ては、耐えきれないように、目をそらす。
事態を飲み込めていない。いや、飲み込みたくないのだ。由岐治は思った。
失望をこらえ、信じる気持ちを、なんとか保とうとしている――しかし、どうしても、天秤は重い方に傾きそうになる。皆、先の衝撃が頭から離れず、やすきに流れようとしているのだ。
「どういうこと?」
「相羽先輩がナッツバーを」
「えっ、やめていたのでは?」
「こっそり食べてらしたって……」
彼らに深く関与しないものたちは、残忍な野次馬となった。あちらこちらから、事態を把握しようと、話し声があがる。当人がそこにいるというのに、まったく噂話の風情である。
「静かにしろ!」
少年のうちの一人が、きつく声をあげる。それで皆、口をつぐんだが、話すことをやめたわけではなかった。目線や表情で、互いに意志疎通をはかっていた。
そこまでして話したいかよ、簡単に品性を売り飛ばしやがって――由岐治は彼らに反吐がでる思いだった。指先が冷たい。
義憤、困惑、好奇心――どのような動機であれ、ここにいる者たちのほとんどが、この場が終わって欲しいが、この場から去りたくはない。この一件の終息を望んでいた。
ただ赤城だけが、落ち着いていた。平素の通りの顔で、皆を見て、ホールを見渡している。
「こんなことしでかして、どうするつもりだって言ってるんだよ!」
滝口が、手にしていたピーナッツバーを床にたたきつける。手の中で、チョコが柔らかくなっていたのだろう、バーは思うより跳ねなかった。しかし、あまりの勢いに負け、床を滑り飛んでいった。滝口の剣幕に、理紗の友人が小さく悲鳴をあげた。滝口の怒りは止まらず、相羽の胸ぐらをつかんだ。そこかしこであがった悲鳴は、いっそ高揚のようにも聞こえた。
「何とか言えよ! お前のせいで、こんなことになってるんだぞ!」
やはり、相羽は応えられない。目を伏せたままうなだれ、滝口に揺さぶられるままになっている。相羽の首が、がくんがくんと玩具のように揺れた。
「気楽にかまえやがって! どうするんだよ、江那ちゃんに、もしものことがあったら――」
「先輩!」
「滝口やめろ!」
少年たちが滝口を押さえ、引きはがした。理紗の友人たちは泣いていた。「お願いですから、やめてください」と滝口に懇願する。
その悲しい有様に、野次馬根性たくましかった者たちも、さすがに気が萎えたらしい。あたりは水を打ったように静まりかえっていた。
それほど皆にとって、いつもひょうひょうと相羽のサポート役をこなす滝口の剣幕は衝撃的だったのだ。由岐治もまた、その一人だった。自分が怒られた訳でもないのに、決まり悪く、落ち着かない。
赤城が、ひょいと前に歩みでた。あわてず騒がず、ピーナッツバーのもとへ向かう。
――こいつ!
由岐治は、その頭をつかみ引き戻したくなった。しかし、この緊張感の中で、指一本動かせず、うろうろと頭を揺らすのみだった。
意外なことに、滝口たちの気には留まらなかったようだ。滝口はすでに、次の言葉を吐きだし始めていたからだ。
「お前、二度と理紗と江那ちゃんに関わるな」
そこで初めて、相羽が顔を上げた。反射的に顔を上げた、そんな表情だった。そして、また同じく反射的に、首を振った。
「いやだ」
滝口が瞠目する。これには、滝口を止めていた理紗の友人や少年たちも困惑の表情を浮かべた。固い糸がはられたように、あたりの空気が張りつめる。
ちょうどその時、赤城がピーナッツバーを手にした。バカ野郎、早く戻れ――由岐治の願いむなしく、赤城はその場で観察を始める。由岐治は胃が縮みあがる思いだった。おろおろと、赤城と滝口たちを見やる。
「なんだって?」
滝口の声が、にわかに柔らかくなった。危険信号だ。すぐに、皆は察した。静かに見えて、水面下で激しく感情が煮立っている、そんな声だった。滝口をおさえる少年たちの顔にも、緊張が走る。
由岐治は耳奥で、血が激しく脈打つのを感じていた。ひどく焦っている。
あいつを止めなければ。止めなければ、僕まで怒られる。僕まで――あいつ、とは赤城のことであり、また相羽のことでもあった。
もうやめてくれ。皆が相羽に祈った。
「いやだ。エナと別れたくない」
しかし相羽は、必死の眼で、言葉を吐きだした。
その言葉が、最後まで発音されたとき、二人に近しいものは、滝口をおさえにかかり、無関心の周囲は、いちように顔をそむけた。しかし双方に共通しているものはあった。それは、諦念である。その後ろ向きな選択は、この後くる展開への、精神の備えであった。滝口が大きく息を吸った――
「ふざけるな――」
「待ってください」
滝口の怒号を、さえぎる声がひとつ。平坦で――あまりに穏やかな声だった。その声音は周囲に日常を思い出させ、彼らの中の緊張を慰撫した。
赤城が相羽と滝口、二人のあいだに腕を広げ、立ちふさがっていた。その右手には、ピーナッツバーがしかと握られている。
あいつ、いつのまに……!
由岐治は青ざめ、前に飛び出した。由岐治が赤城の腕をつかむと、「馬鹿!」とささやいた。由岐治は自分のため、そうしなければならなかった。
「お二人とも、お待ちください」
赤城は動ぜず、先の言葉を繰り返したのだった。
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