第10話

「坊ちゃん」


 庭園に出ると、奥で小さくなっていた背が、さらに丸まった。赤城は近づくと、地面にひざを突き、そっと由岐治の背中に触れた。


「冷えてますね」

「白々しい。お前のせいだろ」

「何故です」

「主をほったらかして、だらだらと。この愚図。馬鹿、浮かれ女」


 赤城は首を傾げた。それから、浮かんだとおりの疑問を述べた。


「ひとりになりたいのではなかったのですか」

「そんなわけないだろ冷血女!」


 由岐治は、かっとなって振り返った。にらみつける目の、下まつげが濡れていた。それは夜露であるとか、そういったものではない。赤城は、腕に手を添えた。すると大きく払いのけられる。


「おためごかしはうんざりだ! もうどっかに行け!」

「それはなりません」

「うるさい! 僕は誰にでもこびる犬はいらないって言ったろ!」

「坊ちゃん」

「消えろ、馬鹿! あいつはこんな真似しなかったぞ!」


 由岐治は顔を真っ赤にして怒鳴った。そして、それから、自らの発言に気づいたらしい。愕然とした様子で、黙り込んだ。そうすれば、言葉が巻き戻ると言うように。赤城は膝の上に手を置いて黙っていた。秋のしじまが、二人の間に満ちる。由岐治は、赤城が今の言葉を忘れないかと思った。


真紘まひろお嬢様が恋しいですか」


 しかし、赤城は必ず赤城であり、けっして逃れられないのである。まっすぐに飛んできた問いに、由岐治は羞恥と憤怒でもって、迎え撃つこととなる。


「そんなわけないだろ! あんな裏切り者!」


 由岐治の濡れた目に、恨みの色が燃えていた。赤城はそれをまっすぐに受け止めて、「坊ちゃん」と続けた。


「お嬢様は坊ちゃんを裏切ってませんよ」

「うるさい、馬鹿の一つ覚えみたいに! このコウモリ女!」

「私は、お嬢様と坊ちゃんのお二人にお仕えしていますので」

「黙れ! ならどこかへ消えろ! あんな偽善者をかばう使用人なんていらない!」


 空気を切るように腕を振り回して、由岐治は怒る。それはいっそ、狂乱に近かった。こうなると由岐治自身、止められないのだ。由岐治は怒りながら、そんな風に暴れる自分のつむじを眺めている気がしてならない。けれど、肉体は暴れ、由岐治は突進していく。

 ――お前、よくやるね――声が、頭の奥にわき起こってくる。その衝撃は反射的に、怒りとして現れるのだ。こんなみっともない真似をしていてはいけない、だが止まらない――


「坊っちゃん」

 

 赤城が、由岐治を呼んだ。平素どおりに、まったく落ち着いた声だった。そして、両手をすっと伸ばすと、由岐治の暴れ回る腕を、やすやすと受け止めた。


「離せ!」


 赤城は由岐治の体を痛めないように、腕を完全に押さえてきた。赤城の手の中で、由岐治の腕は微動だにできない。そうなると由岐治もむきになり、万力の力でその手から逃れようとする。しかし、赤城の腕はびくともしないのだった。

 由岐治は立ち上がり、蹴りを食らわそうとする。しかしそれより速く、赤城の足払いがきた。由岐治の体が宙を舞い、地面に縫いつけられたのは、一瞬間の早業だった。どうやったものか、腕も拘束されなおしている。


「くそ、くそ!」

「少し落ち着きなさい」

「うるさい! くそ、ゴリラ女! 馬鹿にしやがって!」

「馬鹿にしていませんよ」

「うるさい、くそ使用人! 主に手を出しやがって! ぶっ殺してやるからな!」

「なんとでも」


 由岐治は悔しさで一杯になる。自分より小さな赤城に、為すすべもない。何度この目に合っただろう、半ば呆然と由岐治の理性が由岐治に問うてくる。知らない、確かに自分も学習しないが、何と言ったってこの女は冷血の野蛮人だ――

 何故、赤城はこうも頑是ないのか。冷たいのか? どうして、こんなに苦しいのに、こんな無碍な扱いを受けなくてはいけないのか。自分はそんなに悪いことをしたというのか? あいつならちゃんと僕の話を聞いた、いやあいつは裏切り者だ、やっぱりこの女は冷たい――由岐治の中で感情が暴れ回る。しかしそんな煩悶や怒りも全部、赤城という壁が押さえるので、砕かれて由岐治の中へ戻るのみだった。

 由岐治が息をついたのは、それから数分後のことだった。

 疲労困憊し、嵐のような狂乱は去っていた。頭の中は平素の流れを取り戻していた。夜も涼しい秋なのに、由岐治は汗にまみれていた。


「落ち着きましたか」


 けろりとした調子で、赤城は由岐治の上からどいた。汗一つかいていなかった。


「落ち着きましたかじゃないだろ。この馬鹿女」

「そうですか」

「お前のせいでスーツがぐしゃぐしゃだ。どうしてくれる」


 由岐治は、自分がいつも通り話せることに気づく。そしてそのことに、安堵した。服装は無惨だが、あの精神状態で、会場に戻るよりは恐ろしくなかった。むろんそれは、赤城の前でけして認めはしなかった。


「大丈夫ですよ。何とでもなります」


 赤城は由岐治のスーツから、汚れを払った。そしてぴしっと、しわを伸ばす。ハンカチを取り出して、由岐治の頬を拭った。


「あとは顔を洗えばいいかと」


 首もとまで拭われたところで、さすがにハンカチをひったくった。ふんと顔をそらした。


「洗面所に行く。人がこないよう見張ってろよ」

「はい」

「お前のせいでたいそう疲れた。どうしてくれるんだ」

「はい」

「お前みたいなの使ってあげるの、僕くらいだぞ。ダメ使用人め」


 言いながら、今度は先の狂乱を誰かに見られていないか、由岐治は気になってきた。見られていても、もうどうしようもないのだが、恥以外の何ものでもない。ううと呻きたくなるのをこらえた。これ以上、醜態をさらしている場合ではない。


「坊ちゃん」

「何だ。謝罪以外受け付けないからな」

「おかえりなさい」


 とんと投げられた言葉に、由岐治は「ふん!」と激しく鼻を鳴らした。


 庭園を出て、洗面所で身支度を整えると、由岐治と赤城はホールに戻った。すると、相羽が待ちかまえていたように振り返り、大きな笑みで手を振った。


「碓井君! 待ってたぜ」


 見れば、相羽や滝口に理紗と江那、理紗の友人も勢ぞろいで、自分を待っていたらしい。


「ありがとう、赤城さん」


 理紗の言葉を聞いて、由岐治はぐるんと赤城を見た。

 こいつ、頼まれてきたんだ。僕を点数取りにつかったんだな。失望に似た怒りが、ちらちらとうなじへと上った。しかし不思議と、もう先のように爆発するものでもなかった。


「碓井君、お加減いかがですか?」

「大丈夫です。ご心配おかけしてすみません」


 由岐治はつとめて朗らかに笑みを浮かべた。それが先より、ずっと容易にできていることには、由岐治自身気づかなかった。


 ◇◇


「まあ、すごいことを聞いてしまったわ」

「こんなことがあるなんて……」


 由岐治が、星雲館の事件を話し終わった頃、江那が「ケーキ、もう一ついただいてもいい?」と理紗に尋ねた。


「頭を使ったから、甘いものが欲しくて」

「あら」


 理紗が困ったように笑うと、「いいわよ」と答えた。


「いいの?」

「皆さん召し上がったと思うし。でも、食べ過ぎないようにね」

「ありがとう、お姉さま!」


 江那は嬉しそうに両手を組み合わせた。そして、相羽と連れだって、ケーキを取りに行った。


「すみません、碓井君」

「いえ、ケーキお好きなんですね」

「ええ。姉妹そろってそうですの」


 そう言えば、そんなことを言っていたな、そう由岐治は思い出した。そこで由岐治はようやく、自分の頭が冷静になってきていることに、気づいた。理紗の友人たちは楽しげに言葉をついだ。


「私たちの友情も、ケーキからですものね」

「そうなんですか?」

「ええ。一年の四月に、皆でケーキを食べたんですの」

「それから恒例となって」


 なつかしむような、あたたかな気配に、由岐治は安堵する。隣では赤城が、いつものとおり、とんとした顔で聞いている。


「――私はチョコ、理紗はピスタチオに目がなくて」

「新作が出るたび目を輝かせていましたね」

「そうなんですか?」


 それについては少し、由岐治も意外に思った。理紗は、常に落ち着いた様子で微笑んでいるものだから、そんなに無邪気な一面があるとは。それが表情に出ていたらしい。理紗は、はにかんで笑った。


「ええ。でも、もう一生分食べてしまって、今は卒業していますの」

「理紗は凝り性だもんな」

「ほめてらっしゃいます?」

 

 滝口のからかいに、理紗が少し怒ってみせる。友人たちも、はなやかに笑う。

 由岐治は、滝口や友人のリアクションに違和感を覚えた。理紗の言葉に、何か引っかかるものがあったのだろうか?


「滝口先輩こそ、コーヒーばかり飲んでらっしゃいますよね」

「まあ、甘いものはてんで駄目だから」

「それなのに、いつも顔を見せてくださいますよね」


 理紗の友人のからかうような物言いに、滝口が小さく咳払いをした。一同は笑った。由岐治も合わせて笑う。

 先のことへの疑問は覚えたが、違和感は一瞬のことで、話は流れていく。だから由岐治は、ただそれを意識の片隅に残すにとどめた。談笑の中、遠くに相羽たちが楽しげにケーキを食べさせ合ってるのをやけにクリアに映った。


 ◇◇


「じゃあ、皆そろそろ行くか!」


 相羽が高らかに叫んだのは、江那がケーキを食べ終わり、理紗が自分のケーキを取りに行って間もなくだった。


「タキ!」

「はいはい」


 指を鳴らす勢いで、滝口に声をかける。滝口が手招きすると、数人の男子生徒が後に続いた。


「何が始まるの?」

「始まってのお楽しみだぜ」

「楽しみにしててね、お姉さま」


 理紗が尋ねるのに、相羽は目配せした。江那はどこか訳知り顔で、にこにこと姉の顔を見ている。


「お姉さま、ケーキ食べ終わってなかったの?」

「もったいなくって。お行儀わるいかしら」

「いいなあ。私も残しておけばよかった」


 江那がぴったりと理紗にくっついてじゃれている。そうしている間に、滝口が戻ってきた。顔の横で、柏手を打つ。


「皆さん、注目! これからサプライズイベントが始まります!」


 わあ、と歓声とどよめきがあがる。


「えっ? サプライズって、碓井君と赤城さんのことじゃ……」

「おいおい、他人のふんどしだけで満足する俺じゃないぜ。ちゃんとリサを俺自身が祝わなくっちゃな!」

「こっちへ!」


 楽しげに笑うと、相羽たちは、皆を誘導した。

 

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