第8話


 感傷的になるほど、いい光景だ。素直に由岐治は思った。同時にうずくように胸が痛くなった。幸せな光景ってものは、なんでこんなに、自分に恥と痛みを思い起こさせるだろう?

 ケーキを受け取りに、赤城がテーブルに歩いていった。皆いちように華やいだ気持ちで、綺麗にカットされたケーキを手にしている。今これを手にしたくない、そんな必死の抵抗が由岐治の中に生まれるが、しかし自分の足はどうしてもその場に縫いつけられて、離れることができないのだった。それならば、痛みを耐えて、受け取らなければならない。どうせ受け取るのだ。その方が皆、快いだろう?


「はい、碓井君。赤城さん」

「ありがとうございます」

「綺麗だな。美味しそうですね」


 由岐治は受け取りながら、ケーキに賛辞の言葉を送る。

 その瞬間、理紗の周囲の笑顔が制止した、気がした。一瞬にも満たない、ほんのわずかの硬直だった。由岐治は、それを肌で感じ取り、硬直が伝染した。


「ありがとう。皆が考えてくれたんです」


 理紗がにっこりと微笑んだ。すると、また時はあたたかに流れ出す。


「気に入っていただけると嬉しいわ」

「そうなんですか、ケーキお好きなんですね」


 先の硬直がなかったように、皆、由岐治に笑いかけた。由岐治はそれに、激しく安堵していた。間違っていなかったのだと思い、言葉を続けた。彼女たちの顔の奥にある感情を、敏感に探りながら。


「ええ。私たち、ケーキに目がないんですの」

「だからはりきってしまって。ぜひ感想聞かせてくださいね」


 何かがおかしい気がする。間違っていないはずなのに。由岐治は焦った。

 不安で仕方なくなり、今ここで必死に食べて見せ、感想を伝えたい心地にかられる。しかし、由岐治の冷静な部分が、それを必死に押しとどめていた。


「坊ちゃん、飲み物もとりにいきましょう」


 赤城が、うきうきと由岐治を促した。皆が、微笑ましげに、自分たちを見つめているのがわかる。由岐治はなにも答えず、ただ赤城の言葉に手を引かれるようにしてついて行った。大丈夫だ、皆笑ってるじゃないか。そう、動揺する自分の心を慰めていた。


「お姉さま!」


 背後から、声が聞こえた。甲高い甘い声。そっとかえりみれば、相羽とやってきた江那が、理紗に声をかけている。顔中を笑顔にして、嬉しそうな目は、しっかりと理紗の目をとらえていた。「江那」と呼ばれ、目の前で一口、ケーキを食べて見せた。幸せそうに目がとろける。理紗はそんな江那を、やけにじっと見つめている。


「このケーキ、すごく美味しい!」


 その言葉に、理紗の顔がほころんだ。安堵したと、言うに等しい。


「よかったわ。皆でたくさん考えたのよ」

「ありがとうございます」


 江那は理紗にじゃれついた。そして理紗からうかがうように、はにかんで目線を下げ皆にお礼を言っている。「さすがリサだな」と、相羽が甘い目で江那を見つめながら、笑った。


 ――ありがとう?

 ぼんやりとした脳に、やけにそのやりとりがひっかかり、思わず立ち止まる。すると、その由岐治の視線に気づいたのか、近くにいた滝口が、由岐治にささやく。


「江那ちゃんは、アレルギーがあるんだ。それで、安全で美味しく食べれるようにレシピ考えたんだよ」


 由岐治は見上げる。滝口は、理沙たちを見つめ、それから由岐治の目を見た。


「いいお姉さんだろ」


 その言葉に、どう返したか、笑みを浮かべられたか、由岐治はわからなかった。ただ、白く明るい会場が、立ちくらんだみたいに暗く。長くのびた感じがした。

 美味しそうにケーキを頬張る赤城をよそに、由岐治はどこかずっと鈍重な感覚でいた。

 

「坊ちゃん。食べないんですか」


 赤城の言葉に返事もできず、由岐治はフォークを手に取った。他人の料理だという警戒も持てなかった。いつもの神経質さはどこかへ行き、ただ何かに引かれるようにケーキを口に入れた。

 後で感想を言いに行かなくてはならない、味を分析しなくてはならない。

 赤城は、由岐治をじっと見ていた。やめろ、僕を見るな。由岐治の機械的な咀嚼と吟味の中、考えるのはそれだけだった。

 どうして、こうも頭がぼんやりするだろう。そうでなければ、自分を見てしまうからだ。

 どうして、こうも胸がしめつけられるだろう。全部、この光景のせいだ。さっきまでの下世話な話のせいだ。この中心にいる、理紗が、――江那にすりかわり、自分に重なる。

 由岐治は、心のインクでもって、その顔を塗りつぶした。赤城の隣で、顔をおおって、叫び出したいのを必死にこらえていた。


 ◇◇

 

 ケーキを食べ終わり、赤城が飲み物を取って帰ってきた。


「ケーキも食べましたし、お話にうかがいますか?」


 紅茶を飲みながら、赤城が由岐治に尋ねる。全くその気にはなれなかったが、抵抗する気さえ起きなかった。汗がにじんでいて、ひどく疲れていた。


「そうだな」


 赤城は、じっと由岐治を見て、それから少し黙り込んだ。赤城は口数の多い方ではない。けれど意図した沈黙かは、由岐治はとっくに理解していた。


「坊ちゃん」

「行くしかないんだろ、僕には」


 別段、言いたいわけでもない言葉を上顎にすりつけたような声で吐き出していた。赤城は、伏したいつもの目で、首をこてんと傾けた。


「坊ちゃん。行かなくてもいいんですよ」

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