赤い文字

【中学校の時の嫌な思い出】

 体育の授業がめっぽう嫌いだった。

 小学校から中学校に上がると、部活動が始まり、顕著にクラスの中でも背の高低や体つきに差が出てくる。スポーツをやっている生徒なんかは特にだ。

 体が弱く外にもほとんど出ない僕は体育の授業がきらいできらいでたまらなかった。

 たくましい彼らの体つきを見せらるたびに自分の無力さを思い知らされるような気がしていた。

 

 

 最初のページを開くとそんな言葉が綴られている。日記なのかと思ったが、文章が書かれたのは彼が大人になってから書かれており、日記というよりも富本司が思い立った時に言葉を書き殴ったノートと言う表現が正しい。次のページをめくると、当時見たと思われる映画の感想が書かれている。

「富本氏は映画が好きだったんですかね?」

 雪上は思わずそう聞いたが、誰からも返事は返って来ない。旭は特に無言である。振り返って皆の顔を見ると、それぞれがむさぼる様な目でそのノートを見ているのだ。

 雪上は自分以外の三人が見ていることも考慮し、ゆっくりとページをめくっていく。

 数ページにわたって、富本が鑑賞したと思われる、映画の感想が書かれており、映画の名前は聞いたことがあるものと、そうでないものもあった。

 『トップガン』について書かれたページもあった。確かアクション系の映画ではなかったかと記憶しており、富本司がこう言った類の映画も見ていたのだと思うとちょっとだけ意外だった。しかし、雪上もタイトルを聞いたことがあるだけで、実際に見たことはない。確かなことは言えないけれど。

 映画について、あのシーンはどうだったとか、俳優はどうだとか、彼の独特な解釈と意見、持論が展開されている。

 雪上は自分が読み終わっても少し待ってからページをめくるくらいのゆっくりとしたペースでページをめくった。もちろんそれは後ろにいる三人への配慮である。

 数十ページ進んだところぐらいから、二ページのうちの一ページは体調について書かれるようになった。やはり精神が参っていたのだなと思う。時には筆跡が乱れ、ところどころ判別がつかない文字で、書き殴られているページもあった。

 そんなページがあったかと思えば、次のページには自身の手をデッサンした落書きが描かれていたりする。

 人の心の、本来であれば普段は見ることを出来ない部分を見ている背徳感と、富本司と言う不思議な人柄と魅力にとりつかれ、のめり込む様に日記を読み進める。

 半分を過ぎたころ、明らかに今までとは毛色の異なる文に突き当たる。

 

【あの人を今日もみた】


 それはたった一文だけあったが、雪上が感じとった感情を他の三人も同じ様に感じた様子で、九曜がふと顔を上げ、

「さっきも聞きましたが、富本司氏に恋人がいたという話は本当にないのでしょうか? 山内さんが知っている高校生の頃なども含めて」

 旭は日記の文字に視線をやりながら首を傾げた。

「高校生の時は彼にそう言った女性はなかったですし、司とは……浮ついた話をしたこともありませんでした。どちらかというと、興味がないのかと思っていたぐらいです。社会人になってからのことはわかりませんが、居ても不思議ではないかと」

「山内さんが知る限りそう言った方はご存知ないと、そう言うことですね?」

 九曜が念を押す言葉に、旭はようやく顔を上げた。

「そうですね。社会人になってからは、先程もちらっと話しましたが、忙しさもあって、お互いに会って話す機会もそうそう無くなりました。異性関係で言えば、これが司ではなく圭祐ならそうではないのでしょうけど」

 話題が変わると同時に、旭の口調も皮肉めいたものになる。

「よっぽど女性関係が派手なのですか?」

「あの見た目ですから――高校生のころからひと悶着もふた悶着もやってましたよ。先程も本人から付き合っていた女性が自殺して亡くなったという話もありましたし――まあ、彼のことだから、どこまで嘘で真実かはあまりわかりませんが」

 旭の話を聞いて思い出した、白根ゆりのこと。彼女はどうして、自殺をしたのか。赤い文字なんて迷信だと信じるなら、彼女には死を決意した何か理由があると思うのだが。

 雪上は二人の話がひと段落した所で、ページを更にめくる。

 

【今日、あの人が家に来た。なぜと思いながらも、驚きと嬉しさの感情が入り混じる。彼女は友人の恋人だ】


 その一文を見て、雪上は愕然とする。他の三人も同じだったろう。背後から痛いほどの視線を感じた。“あの人”と富本が呼ぶのは女性だったのだ。“友人の恋人”つまり、月澄圭佑の恋人だと、そう捉えるのが自然な意味になるのだろう。

 ゆっくりと更に次のページを開く。

 

【あの男は君が思う以上に誠実ではない】


 この一文とともに、芹の絵が描かれている。

 雪上は後ろにいる旭の方にすっと視線を送ると、彼は困った表情をしていた。

「確かに、圭祐は昔から女性関係には色々とだらしなかった。先ほども言った通り、それは高校生の頃から。でもそのころは誰もが彼はそう言うキャラクターだと認識していたから、何かあっても”やっぱり圭祐か””圭祐だったら仕方ないな”みたいな暗黙の認識があって、若気の至りとでもいうのだろうね。そう言うのも年齢を重ねて行くにつれて落ち着いてくるものだと思っていたけど。彼が社会人になってからどう過ごしていたのかはわからないというのが正直な所だ。友人ならばもっと……」

 そう言かけて口をつぐんでしまった。友人ならば、そうならない様に諭すべきだったとでも言いたかったのだろうか。しかし、話を聞く限り、それほど仲が良い訳ではないと旭自身が言っていたのだから、そこは彼自身のせいではないと雪上は思う。

「月澄さんと富本氏は知れば知る程正反対の生活をしていらっしゃると思うのですが、この家で二人、一緒に生活していて、上手くやっていけていたのでしょうか?」

「圭祐と司と言うよりも、二人の母親同士が非常に親密な関係だったというべきかなと。だから、上手くいくも行かないも無かったんじゃないかな。特に司は絵に集中している時はほとんど、自分の世界にのめり込んでしまうから、自分から他者と距離を置いていたし」

「なるほど」

 雪上の九曜の相槌に賛同しながら、次のページをめくった。

 富本司自身の精神状態や、未来について不安を抱えているという趣旨の文言が各所に見られる。

 日付がまちまちだが、その文面の所々には、彼の身近な人物についてかかれてあったりもして、

「これ兄さんのことじゃない?」

 昌也がはっとし、書かれた文面を指で示した。

 

【久しぶりの高校時代の友人。

 彼は変わらない。

 少しだけほっとすると同時に淋しいと思うのは、その頃がもう遠い過去だと思うからだろうか。

 旭へ】

 

 “旭”と名前が書かれいていたため 間違いないだろう。

 後ろで、息をのんで旭がその文章を読んでいるのが、空気で伝わってくる。


【そういえば有名になった暁には彼に絵を送る約束をしていたことを思い出す。いつかその約束を果たすことが出来ればいいと思うのだけれど】



 その文面からは、富本が旭に対して、抱く変わらない友情が感じられた。

「そう言えば、そうだったかもしれない。司がもし有名になったあかつきには是非、サイン入りの絵を送って欲しいと。家宝にするからと言って、高校の時に冗談まじりでそんなことを話していた。俺が忘れてしまっていたことも、アイツは覚えてくれていたんだな」

 果たされなかった約束を名残惜しそうに。そんな声色だったので、次のページをめるのを多少ためらったが、雪上は予感がしていた。それがこの土地にいるからなのか――霊感や怨念を真正面から信じている訳ではないが、第六感とも呼べる何かが。次のページになにかがあると言っている。

 息を吐いてページをめくる。

 

【見てはいけなかった】


 真っ白なページに書かれているのはその言葉だけだった。

 さらにページをめくる。

 

【友人に僕はなんと言ったらいいのかわからない。言葉が見つからない。いや、何も言うべきではないのか。それすらもわからない】

 

 言葉が抽象的すぎて富本司が何を言わんとしているのか、その文章だけでは全くわからない。行き急ぐ気持ちを抑えられず、少々早いペースでページをめくる。


【目を閉じる。あの時の光景が浮かぶ。僕は一体どうすべきなのか――

 考えてもわからない。それでも、唯一言えることは僕は画家の端くれである。

 だから一枚の絵に残そうかと思っている。それで僕の気持ちがおさまればいいのだが】

 

「なんだか、話がもつれているね。状況は良くわからないが、司さんはよっぽどなにか見てはいけない何かを見たと。そんな感じだろうか」

 昌也が頭を掻きむしりながらそう言った。

「うーん」

 雪上も半ば昌也の意見に同意するようにそいう答える。

 この情報だけでは、一体何が起こったのかがわからない。次のページに手をかける。


【絵を描き進めている。普段は描かないタイプの絵を描いているので、なんとなくむず痒い。しかし、今回のこの絵はデフォルメせずなるべく記憶の通りに、描きたいと思っている。しかし、どこまで忠実に真実を描くべきか。とても困ってる】


【彼女の顔を描くのだが、これが真実の顔だっただろうかと思う。僕の記憶にある彼女の顔はもうおぼろげで、なんとも記憶が曖昧になっている。今描いているのは僕の心に残ってる彼女の姿に他ならない。実像の彼女を想っていた? それとも僕の中に心に秘めた空想上の彼女を想っていたのか――僕が心の師と仰ぐあの画家もこんな気持ちで絵を描いていたのだろうか――どちらにしろ、今はそれを議論するべき時ではない。何よりも絵を完成させること。後もう少し、もう少しなのだから】


 絵の完成に近づくにあたって、富本司の心の揺らぎが文面から感じられる。

「この文章に書かれている彼女というのが、おそらく“白根ゆり”で、富本氏が彼女に対して、ある種の特別な想いを抱いていたことは間違いないだろう。そして、“彼女は友人の恋人”と書いてもあったから」

「白根ゆりが、圭佑の恋人だった」

 旭の声には重苦しさがある。

「さっき、あの人は自分が交際していて、そして、その女性の名前が白根ゆりだと」

 普段はあっけらかんとした軽い話し方をする昌也もこの時ばかりは、緊迫感を秘めていた。

「……」

 雪上は困惑、動揺、色々な感情が混ざり合って、何も言えなかった。

「雪上くん。ページをすすめてみてくれないか?」

 九曜の冷静な声に、自分を取り戻すと、少し慌てながらページをめくるべく、急ぎ手を出す。


【絵を描けば、心のモヤも少しは晴れるかと思ったが、そうもいかない。絵が完成に近づけば、近づくほど、迷いが生じている。僕はこの絵を世間に発表することが、彼女に対して僕ができる鎮魂であると信じて疑わなかったのだが、本当にそうなのだろうか。絵を描くことだけではそれは果たせないのではないかと、そんな気持ちに襲われる。しかし、初めてしまったことは誰にも止められない。何が正しくと何が正義なのか、ちっぽけな僕にはわからない。

 ただ、一つ言えることは絶対に描けないと思っていた女性の人物画を思っていた以上にすんなりと描けていることだ。だからあの人が描いていた天女のモデルとなった女性も、もしかしてと。思ったりする】


【最近、友人がやたらと僕にどんな絵を描いているのか聞いてくる。今まで、僕が描く絵なんて微塵も興味を示さなかった彼なのに。最初の頃はまだ構想中だと答えて、煙に巻いていたのだが、こう何度も聞かれるとその回答だけでは、流石に難しくなってくる。それで、この絵とは別に新たな絵を制作することにした。ちょうど良い機会だったのかもしれない。そう思いながら、新しい絵の構図などを勘げて描くのだが、僕の心は新しい絵ではなくこの絵にある。だから、なかなか気持ちが乗ってこない。それなら、一層のことタイトルを“空虚”としては描き上げてはどうかと思いつく。色は普段真面目に描く時には使わない色を使って描いたらどうだろう】


 富本司は丁寧な文字でそう書いていた。

 彼はこれを書いて、妙案だと作品に取り掛かったのだろうと、当時の様子を思うのは容易なことだった。だが、次のページに進と、文字は大変乱れ、一見、何が書かれているのかわからないほどの字体で殴り書きされている。その中でも読める文字を拾うと、


【なぜ…………彼女は死ななければ…………あいつが彼女を……………………………………………………死んでほしくなかった】


 最後の“死んでほしくなかった”という部分だけはしっかりとした文字で書かれている。

「話には聞いていたけれど、富本氏はかなり精神的に参っているところがあって、浮き沈みもかなり激しかったと見える」

 九曜はそう言った。しかし、雪上は疑問に思った。

「でも、白根ゆりという女性は、月澄さんの恋人だったのに、富本さんはそんなになぜ、想っていたのでしょうか?」

「確かに。友人の恋人に懸想していたってことだもんな」

 雪上の言葉に頷いたのは昌也である。

「彼は、よくも悪くも奥ゆかしいところがあるから」

 旭はそう言って、富本のフォローに回る。

「富本氏と白根ゆりという女性との間柄は、顔見知り程度だったのかそれ以上の関係だったのかはわからない。それに“想い”と一口に言っても様々な感情がある。恋情、慕情の類の感情、もしくは、彼女に対して無念や後悔をする気持ち。ほら、幽霊が成仏できないのは現世に未練があるからだと言うだろう? その未練という感情を一口にとっても様々な考えができるという意味だ。話がそれたが、ともかく富本氏は彼女に対して強い感情を持っていた。その感情を解き放つように絵を描いたのだから、あの遺作の絵には彼の並々ならぬ思いがこめられた。それは間違いないだろう。だからこそ、この絵を描いている最中にに彼は死を考えることはなかったのだろうと。そう思うよ」

 九曜は話をそうまとめた。しかし、その九曜の言葉とは真逆の事態になり、富本は死を選んだ。

 恐る恐る次のページをめくる。

 今更ながら、このノートには黒か濃い青(ほぼ一見黒に見える)ペンで文字が書かかれている。


【今さら、僕がこんな風に書いた所で、誰も信じてくれないかもしれない。しかし、なぜ僕がこの文章を書いているのか。もしかしたら、僕の死後、何年も月日が経って、この書き残しを見つける人があったら、その人に僕がみた真実を伝えられたらと思う。

 僕は常に良心の呵責に悩まされ続けていた。

 どうしてあの時、一歩踏み出してこのことを話すことができなかったのか。ここにそれを記すのは僕自身の贖罪である。

 なぜ、どうしてあの時にきちんと証言できなかったのか。それについて理由を聞かれても上手く答えられない。言えるとしたら、あの時目の前で起こったことが現実なのかどうか僕自身がそれを受け止めるのに時間がかかった。

 それに、警察にそれを話した所で精神的に不安定な部分がある僕の証言をどこまで信じてもらえるのかわからなかった。

 どちらにしろ、証言できなかった。それが事実であり、僕自身の責任である。――ともかく、ここに書き記す。僕がここに書き記したからと言って、気持ちが晴れたかと言われると全くそんなことはない。

 どうして、あの時本当のことを言えなかったのか。言い淀んでしまったのか。今でも悔やんでも悔やみきれないばかりである。その事について神なる声ともいうべき存在の声に僕の心はさいなまれている。

 順を追って話す。

 二人は僕の目から見て似合いの二人であった。だが、実際にはそうとも言えない部分があったらしい。それ以上の事を彼――圭祐に聞いたことはないので、詳しくはわからない】

 

 数ページ空白があった。

 

【これが僕の最期の手記になるだろう。色々な人の手助けがあって、今まで、ここまで絵を描いてくることが出来た。しかし、これ以上絵を描いて生きていく自信を無くしてしまった。

 生まれ変わりがあるのなら、自身に対しても他者に対しても、もっと誠実に生きていける人でありたいとそう願う。

 

 先日の手記が中途半場に終わっていたので、続きをここに記す。

 二人は、僕の目からみると似合いの二人に見えた。しかし、どうやらそんなことはなかったらしいと言うところまで書いた。

 圭祐とは一緒に住んでいる。

 彼は仕事の関係上、家にいることは多くない。そのため、時々、彼女が部屋に訪れるのだ。決まって、

「圭祐さんは、帰っている?」

 と、聞いて。

 いつも僕からの返答は、

「残念ながら」

 そう言うと彼女は微笑みながら少し淋しそうな表情を見せて帰って行くのだが、ある日の夕方は違った。

「少し、彼のお部屋に見ていいかしら。忘れ物をしたの」

 そう言う。僕は断る理由もないので、彼女を家に上げ、圭祐の部屋に案内した。

 黙って、そのまま帰すのもと思ったので、キッチンに向い、お湯を沸かすとインスタントの珈琲を入れた。これを部屋に届け、用事が終わったら、そのまま何も言わず帰っていいからと。そう伝えようと思ったのだ。

 キッチンから廊下に向かった所、ちょうど彼女が圭祐の部屋から出てきて、ぱたんと扉を閉めた所だった。

 その表情は、言葉にするのは難しい。苦悶と痛みと淋しさと、一見ふわふわとした彼女からは想像しがたいそんな感情が漂っていた。

 どう、声をかけていいのかわからなくて、その場に佇んでいると、彼女の方から気が付いてくれた。

 探し物は見つかったのかと聞くと、うんともいいえとも言わず、ただ曖昧に微笑んだだけだった。そのまま玄関へ回れ右をするのかと思ったがそうはならず、帰る場所を失った様に視線をふわふわと彷徨わせていた。

 時間があれば、珈琲でも飲んでいくかと尋ねると、彼女は嬉しそうに笑って、礼を言った。

 自分は作業があるので、飲んだらカップは適当に置いて、帰ってくれて構わないと伝えた。僕は、自分のアトリエに戻って、絵の完成を急いでいた所、控え目なノック音とともに、彼女が顔を覗かせた。見ても良いかと聞くので、構わないと伝えた。

 部屋には、失敗作を含め様々な絵を置いていた。

 面白くも無いだろうに、彼女はその一つ一つを丁寧に、真剣なまなざしで見つめるので、恥ずかしさを感じた。

「これは全て貴方が描いたの?」

 僕はそうだと答える。

「どうして、こんなに画面を黒く塗りつぶすような描き方をするの? もっときれいな色彩で描こうと思ったことはないの?」

 それはよく他の人からも、学校に通っている時に教授からも言われた言葉だった。彼女も他の人と同じなのだとうんざりした声で、僕自身がおかしいとは思っていないが、他の人と見ている世界がどうも違うのだと、昔から感じていたこと。どう説明しても、他の人には見えない世界だったから、僕は僕が見ている世界を描いて、その上から色を塗りつぶしているのだと説明した。つまり、僕にとってはどの絵も美しい絵を描いているのだと。ただ、他の人には見えていない世界なのだと言った。

 そう説明した所で彼女は頷いて、もう一度、絵に目をやった。

「私にはね、おかしな話かもしれないけれど、きれいな絵だと思ったの。この暗闇の向こうに、木々と小鳥と柔らかな音楽だけが存在するそんな世界が見えると思ったの」

 本当に彼女にそんな世界が見えているのか。僕は驚いてもう一度聞き返した。

「見えるわ。この絵の中に美しい世界が」

 そう言って微笑んでくれた。

 それだけで、僕には十分だった。

 

 それから、彼女がたずねてくるのは苦ではなくなった。

 圭祐がいない時は、新しく描いている絵を何度か見てもらった事もあった。

 途中、彼女が僕に血迷ったこともあったが、彼女の中では些細なことだったらしく、数日経てば何事もなかったかのように僕と彼女の関係に支障はきたさなかった。

 いつまでもそんな穏やかな時が続いて行くのかと思ったがそうではなかった。

 あの事件が起きたのだ。

 その日は、別にどうってことのない一日だった。

 僕は朝起きてから顔を洗って、食事をして、ひたすら絵を描いていた。

 先日開いた個展の評判がよく、絵の注文が舞い込んだ。それに、最近は精神の状態も安定している。ただ、いつまたひどく落ち込むことがあるかわからないので、描ける時に書いておかなければ。僕はそう思っていた。

「ただいま」

 玄関から聞きなれた声がして、時計を見ると午後二時。

 僕は絵筆を置いて、部屋の扉を開けると、圭祐が靴を脱いでいる所だった。

 珍しいなと声をかける。

 彼は仕事で朝から晩まで家にいることがない。

 休みの日だって、誰かと出かけると言って、家で過ごすことなど稀だ。

 彼にこの家が必要なものなのかどうか、少々疑問に思っていた。

「ああ、仕事が早く終わったのと、……まあちょっと」

 そそくとさと自身の部屋に入って行く後ろ姿を目で追った。

 彼が言葉をにごした理由はなんとなくわかっていた――彼女のことだろう。

 最近、とうとう彼女との歯車が噛み合わなくなり、苦い表情をしている彼を何度か見かけた。

 よくこの家に圭祐をたずねて来た彼女は、いつからか圭祐のことを聞かなくなった。

 息を吐いて、アトリエに戻り、絵筆を持ったところで、廊下の向こうドアが開き、廊下を玄関に向かってあるく足音、それから、玄関のドアがパタリと閉まる音が聞こえた。

 なんとなく、彼女の部屋に向かうのだろうということは、勘だったが外れていないと思った。

 それから、妙に嫌な予感がした。

 アトリエから玄関に向かうと、一枚の紙が落ちていた。

 折りたたまれていたので、開くと

 ”死”と赤い文字で書かれている。

 僕は驚きのあまりそれを声にして読んでしまった。

 どうして言葉にしてしまったのか、後悔しても全てが遅い。

 今までは死ではなく別の言い方で……

 ともかく、不味いと思って、急いで部屋を出た。

 玄関を勢いよく開けて外に出た瞬間、ちょうど反対側の廊下、僕が住んでいる部屋より二階上(白根ゆりが住んでいる部屋のあたり)に女性が手すりの所に立っている。

 危ない。

 しかし、彼女の後ろにいる人物を見て納得した。圭祐だ。

 恐らく、別れ話かをして、彼女が死ぬと言い張って、ああなったのかもしれないと思った。

 先ほどあの文字を見た直後だ。

 何かが起こる、そんな予感しかなかったが、この状況下で僕がなにが出来るだろう。

 のこのこととあの場に行って、二人のやり取りを制止した方が良いのだろうか。

 僕が一人で悶々と考えていると、事態が急転した。

 女性が、ふっと空中に浮いて落下したのだ。

 しかも、背中越しにいた男性が彼女腰を押したのを見た。

「え」と、言った僕の声なんて霞んでしまい、スローモーションに彼女が落下していくのが見えた。

 どさっと大きな音がした。

 一瞬の事だった。

 下の様子を見た方が良いのだろう。でも出来なかった、僕はそのまま根が生えた様にそこにいたが、しばらくして、外から帰って来たのだろう、住民の女性の叫び声が聞こえてはっとした。上を見るともう圭祐の姿は見えなかった。

 僕はひっそりと自室に戻った。

 

 

 

 あれから僕は自分自身のしてしまった行いについて、常に自問自答してきた。

 これが僕自身の罪に対しての最善の策であると信じている。

 僕自身の死によって、誰かがこれに気が付いて、明らかにしてくれることを願っている】

 

 

 これが彼の手記の最後だった。

 なんとなしに、その後は白紙だとわかっていてもペラペラと紙をめくる。

「あ」

 手紙が挟まっていたので、それの抜いて折りたたまれた用紙を開く。


 【お前がちゃんと証言しないから彼女は死んだ】

 

 赤いインキでそう書かれていた。

 その紙の後ろに、

 

 【わかっています。月澄洋子】

 

 それはボールペンで最近、書かれた文字だった。

 言葉を発するものは誰もいなかった。

 


 

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