再びマンション如月

 旭は再度、車を出してくれたが、車内は始終無言だった。

 夜の八重本町駅周辺はネオンが灯り、人通りもそれなりに見られた。世界的なウイルスの流行で、一時期は閑散としていたのだろうが、現在は賑わいを取り戻している。

 九曜はちらりと窓の外に目をやるが、さして興味がないらしく、すぐに窓から目を離し、真っ直ぐに進行方向を見た。マンションのある路地に右折して入ると一気に様子が変わり、それにともない辺りも薄暗くなった。

 マンションの向こう側にパーキングの看板が光る。車はそちらに向う。先日開いていたあの古書店は年季の満ちるシャッターが閉まっている。

 車を降りると、ひんやりとした夜の空気に包み込まれた。

 処刑場の話が本当であれば、あのマンション付近に、百年以上前、人の血がしたたっていた場所があったのだろう。今見る景色からは想像もできない。そんな過去が本当にあったのだろうか。そう思うと、暗いのも相まって背筋がぞっと凍る。

 雪上の中で、人の死と言うのは、自分の生活とはかけ離れた世界で起こっている出来事でしかなくて、今、現実にそれが現れたとしたら、多分どうしていいかわからなくなるか、もしかしたら何も見なかったフリをしてそこから立ち去ってしまうかもしれない。

 旭は先頭に立って、慣れた足取りで、マンションの中に入っていく。

「司が生きていた時は、何度か来た事があったんだ」

 旭はこちらを見ずに、ポツリとそう呟いた。

 マンションは何度みても古い建物で、十一階建てエレベーターの設備はあるようだが、一基しかない。しかも動くのだろうかと思われるほど、薄暗く、年代ものだ。マンションは真ん中が吹き抜けで、【口】の字型になって廊下があり住宅の入り口が並ぶ。外から見るよりも結構な個数の部屋がある。

 旭はエレベーターではなく真直ぐに階段に向かう。ひどく古いエレベーターは稼働する時によく響き渡る音を発するので、それを敬遠したのだろうと雪上は思った。

 昼なら開放的で明るく思われるのだろうが、この時間帯にみると、ただ、がらんと空洞があいた空虚な空間にしか見えない。四人の階段を上がる靴音だけが響き渡る。階段であるのだが、コンクリート製のそれは、ところどころに劣化している。

 そう言えば、何階に行くのだろうと思いながら、幾重にも続く階段を無言でのぼる。六階にさしかかった所で、先頭を歩いていた旭は廊下へ出て、三つ目のドアの前でとまり、後ろを歩いていた九曜を振り返る。言葉はなかったが、九曜は駆け足で旭の元に向かうと、圭祐から受け取った鍵を取り出して、がちゃがちゃと音をたてながら開錠した。それから鍵を旭に一旦預け、九曜はなぜか、

「ちょっと確認したいことがあるから先に見ていてくれないか」

 と言って、廊下の向こう側に小走りに行ってしまった。

 雪上と残された二人は九曜に言葉をかける間もなく行ってしまったので、その後ろ姿を見送るだけで、吸い込まれるように部屋の中に入った。

 月澄洋子から、もともと富本がアトリエとして使用していた部屋だと聞いていたので、もっと突拍子もない部屋を予想していたのだが、とても普通のマンションの一室だった。

 むしろ中は若干埃っぽい匂いがあり、雪上はむっと顔をしかめる。

 廊下の壁にスイッチが旭がそれをつけると、廊下が明るくなると向こうに部屋の扉が見えた。旭は慣れた様子でその部屋に向かう。勝手がわからないので、雪上達もともかくそれに続く。あかりがついた部屋で見たのは壁に立てかけられた、無数のキャンバス。その多さに雪上は目を見張った。

「変わらないな」

 旭はカーテンを開け。、窓ガラスの向こう側の真っ暗な世界に目をやった。反射した窓ガラス越しに、旭の表情が映し出される。

「以前にも、この部屋に?」

 雪上の問いかけに、旭はカーテンを閉めこちらを振り向く。まるで現実に彼が戻って来た様なそんな気もした。

「ええ。来たのは数回だけ。本当にかなり昔のことですが」

「そうだったんですね」

 ゆっくりと相槌を打っていると、九曜がばたばたと部屋の中に入って来くると、何事もなかったかのように立てかけられているキャンバスを一枚一枚、熱心に調べ始める。

「九曜さん、何か探していたのですか?」

「ん? ああ」

 何をして来たのか聞いたのだが、九曜は答える気はないらしい。雪上への返事はおざなりまま、黙々と作業を続ける。その様子から、見ているというより何かを探しているという言葉の方がしっくり来た。

 九曜の行動の意味が雪上には理解できなかったが、聞いても無駄だろうと諦めたところ、やっと返答があった。

「月澄洋子さんはこの部屋を訪れた直後に亡くなっている。死の予兆など全く感じさせなかった人がだよ。色々思い返してみて、実は先日、美術館で富本司氏について色々と話を伺っていた時に、月澄さんの様子に違和感を感じた時が一度あったんだ」

「それは、先ほど月澄圭祐さんに『あの時、“何か月澄さんは思い当たることがあるような表情を浮かべていた”』と、話していたことですか?」

 九曜はこちらをみずにこくりと頷く。

「それが、死の予兆だったのでは?」

 旭が会話に加わる。

「いえ、そう言うのではなくって。――月澄さんがその表情を浮かべたのは、雪上くんが口にした”赤い文字”と言う言葉にだった。今までになかった、表情をしていたので印象深く思っていたのだが、覚えているか?」

 九曜に話を振られ、曖昧に頷く。その時、確かに冷静沈着な彼女が非常に不可思議だとでも言うような表情を浮かべていたのをなんとなく思い出した。

「はい。確かに”赤い文字”と言った時に、非常に驚いた表情を」

「じゃあ、もしかして、その月澄洋子さんは赤い文字を見て、それで自分の死期を悟ったということか?」

 昌也の言葉に一同がしんと静まり返る。こほんと九曜が咳払いをした。

「葬儀の場では、ああ言った発言をしたが、僕自身の考えを言わせてもらうと、超常現象は信じていない。世の中に全くないことだとまでは言わないが、基本的にはないと思っている。民話や伝承を研究している輩なのに、なぜ? と、思われるかもしれないが、研究と言うのは、事実や、現実のなかで見聞きしたことを積み上げていく作業だと思っている。だから、自分自身で本当に体験したと言うのならまだしも、見るからに本当にあったかどうかわからないことは、物語ベースで書き留めることはあっても、それが現実の出来事かどうかまでは信じていない。まあ、前置きはさておき、月澄洋子さんの件だが、雪上くんが“赤い文字”といったときに月澄さんは明らかにそのワードから何かを連想したんだ。その自分の考えが正しいことを確かめるためにこの部屋にどうしても来たかったのではないかと推理している」

「赤い文字をこの部屋のどこか見たことがあったとか、そう言ったことでしょうか?」

 雪上は恐る恐るそう聞いて見たが。九曜は微妙な表情をしてこちらを見た後、話を続ける。

「うーん、今現時点ではなんとも。ただ、月澄洋子さんが事故か第三者によって命を奪われたのではなく、自殺をしたのが間違いないというのなら、この部屋で自殺を決意したくなる様な何かを見た。もしくは何かが起こったと考えるのが筋じゃないかと、そう思う。だから、探せばもしかしたら何かが見つかるかもしれない。そう思ってね」

 九曜の言葉に反論する者はなかった。

 雪上自身も月澄洋子の自殺を聞いて、どれほど驚き、その言葉を疑ったことか。

「わかりました。自分なりに探して見ます」

 雪上はそう言って、九曜に続く様に部屋に立てかけられた、キャンバスを一枚一枚みて回った。ほとんどの絵がずっとそこに置かれたままの状態の様で、埃をかぶっていたが、描かれた色彩は鮮やかに、まるで昨日描かれたばかりのように思われた。

「ほとんどが習作の様だな」

「習作って?」

 九曜の言葉に、周りをきょろきょろと見回していた昌也がたずねる。

「つまり、練習で描いた絵と言う意味」

 その質問に答えたのは、旭であった。

 なるほどと、雪上は無言で頷きながら、作業を再開し、手掛かりになりそうなモノを探す。ひたすら見続けているのだけれど、思ったのは、やはり女性をモデルにした作品はほぼないということだ。

「雪上は、さっきスマホで見せたあの絵に何か秘密があると思っているのか?」

 後ろから昌也の声がしてはっと振り返る。

「うん。富本司氏が亡くなった後、彼の母親があの絵だけは発表せず、大切に手元に置いていたというし。それに、不思議な絵でね、女性の辺りに葉が散らされていたのを見ただろう? あれ、恐らく芹の様なんだ」

「芹?」

 その話題にくらいついたのは、旭の方だった。

 雪上はスマホを取り出して、もう一度、その絵の写真を表示させる。

「はい。この女性を包む様に描かれた、緑の植物。葉っぱの様子から芹だと思うんです」

 昌也と旭は兄弟そろって、雪上のスマホを覗き込む。

「ああ、君が言っているのはこの緑の」

 旭が芹の部分の指で示す。

「そうです」

「フーン。俺には芸術がよくわからないから、ただ、草が散らされた様にしか見えないな」

 昌也の発言は彼の兄にたしなめられていた。それについては、昌也の言う事も内心わからなくないと思う雪上であったので、

「僕のこの植物も何かわからなくて、最初は雑草? とも思ったんですけれどね――」

 雪上は昌也をフォローしながらも、古藤の家で見つけた、富本が残した資料、山家集の本で見つけた芹の逸話を話した。二人はこくりこくりと何度も頷く。

「“芹を摘む”か、なるほどね。察するに、やはり富本さんには意中の女性がいたのでは?」

 昌也は隣の兄を仰ぎ見たが、旭はわずかに首を傾げただけだった。富本は描いた女性、白根ゆりに密に懸想していたのではと、雪上はそう思っているが、なんとも事情が複雑である。彼女は圭祐の恋人だったというし。旭としても簡単に結論をつけるべきではないと思ったのだろう。雪上は、スマホをしまうと、かがみこんでキャンバスと向き合い直した。

「その絵の下書きでもなんでも、残っていればと思って見ていたのですが、なさそうですね」

 足音がしてそちらを見ると、九曜が首をひねりながらこちらに来た所だった。

「他の部屋に富本氏について残されたものはありませんかね? 作品のヒントになりそうなものですとか、遺留品とか。あと、九曜さんが言っているように、その赤い文字にまつわるものですとか」

 旭に向かってそう聞いていた。

「うーん、俺も彼が亡くなってここに来るのは初めてなんで……でも、圭祐が九曜さんに鍵を預けたのですから、他の部屋も見てみましょう。問題ないと思います」

 圭祐に対して九曜は富本司の遺留品を探したいからではなく、赤い文字についての民話の調査をしたいという理由で鍵を預かったのではと、雪上は思ったが、特に何も言わず、

「そうですね」

 と言って、旭の了承を得たことにほっとしたのか、軽い足取りで別の部屋に向かう九曜を後に、雪上も自身の手を止めて続いた。ここでは雪上が求めている情報は手に入らない。そう感じたから。

 リビングの他に部屋は二つ。

 あと、洗面とバスルーム。トイレがある。

 余裕を持った間取りなので、それなりに広い。月澄圭祐と富本司が二人でこの家に住んでいたということだが、十分な広さだと感じる。

「なぜ、月澄圭祐さんと富本司氏、二人はこのマンションにシェアして住むきっかけはなんだったのでしょう。先ほど、富本氏が駆け出しの画家で、という話は聞きました。富本司氏は故人でありお会いしたことはありませんが、なんとなく、私の勝手な想像とイメージだとお二人はタイプが違うといいますか、全く異なる人生を送って来たのではないかと思うのですけれど」

 歩きながら、九曜はそう口にした。

「ああ、それなら、もともと母親同士が仲が良かったから、詳しい事情はよく知らないけれど、どうも遠縁の親戚らしい。そんな話をちらりと聞いたことがある。ただ、その話を圭祐にすると、嫌がられるのでね。それ以上のことは聞いたことがないのでわからない」

 後ろから言った、旭の言葉に九曜は振り返る。旭はふうと息を吐いて、話を続けた。

「司は、確かに変わった奴だという認識はあった。無口だし何を考えているのか全くわからないやつで。でもアイツの描く世界にいつも圧倒されていた。何と言うか、世界を敵にまわしても必死でそこに立ちつくす、そんな司の姿に心惹かれるものを感じて、尊敬していた。特に繊細で、アイツが見ている世界は一体どんなものなのだろうといつも思っていた。話が脱線したが、何が言いたかったかと言うと、俺は、司のことは友人として好ましく思っていたが、圭祐に対しては、どちらかと言うとあまり得意なタイプではなかった。しかし、どうしても司といると、圭祐が付随してくるようになってね。でも司が亡くなって、圭祐とは疎遠になって」

 旭の圭祐に対しての物言いに嘘はなさそうだ。あまり好意を抱いていない様子がありありと伝わった。そう感じたのは雪上だけではなかったらしく、昌也は、

「そう言えば、司さんって人は昔、家に来たことがあったのをなんとなく覚えているけど、圭祐さんって人は、さっき斎場でもあったけど、全く見覚えがないなって思った」

「まあ、話をすることはあった。しかし、他に友人もあったし、圭祐と直接仲がよかったというよりは、さっきも言ったけど司といると、圭祐がいるって感じで」

「月澄さんのどういった部分があまり得意ではなかったのですか?」

 九曜はそう聞いた。旭は一瞬目を反らして、その後、大きなため息とともに目を閉じた。

「そうだな。何がと言うよりは、感覚的なもので。なんとなくこれと言って理由があるわけではないのだが昔から、得意ではなかった。彼と話していると、明確にいつもそう思うんだ」

「先ほどお会いしただけですが、つかみどころがないというか、不思議な人ですね」

 雪上の言葉に頷きながら、

「確かにそうかもな。何を考えているのかわからない様なところがあって。そういった所は司に似ていたかもしれない。ただ、司の場合は、俺と立っている次元が違うから、見えている世界自体がちがって、それで何を考えているかわからないと思っていたが、圭祐の場合は……何というか、彼は、小手先だけで物事を喋っていて、本当の意味で圭祐が何を考えているのかってことは明かさなかった。常に腹に一物抱えている様な感じと言うか」

 そう言って言葉を濁し、目を開ける。

 見た目よりも圭祐と旭の関係は込み入った事情があるのだと雪上は思い、それ以上のことは何も聞かずにいた。九曜は歩みを再開し、部屋の扉を開け、ずかずかと進んで行く。

「なにもありませんね」

 最初に入った部屋の電気をぱちりとつけた。雪上は部屋の様子を句ようの後ろから見てつぶやく。

「ここは確か、圭祐が使っていた部屋だ。家具なんかは彼がほとんど運び出してしまったのではないだろうか」

 旭は部屋の中に入ることなく、廊下の方からそう声をかけた。

 雪上は旭の言葉に従い、何もないなら次の部屋にと思ったのだが、逆に九曜は部屋の中に入ると、くまなくなにか見落としでもないかと部屋を探し始める。

 部屋は八畳ぐらいのフローリングで、机と椅子があるだけでそれ以外の家具は何もない。カーテンだけがかかっている。奥にクローゼットがあり、九曜はそのクローゼットに手をかけた。雪上がいる位置からはよく見えなかったので、九曜の近くに寄った。

 何もないと思いきや、クローゼットの中にはごちゃっとモノがつまっている。

 何が押し込まれているのだろうと思ってよくよく見ると、三脚や、照明、……一見撮影スタジオかと思われるほどの機材が押し込まれ、その機材に埋まった隅の方に挟まっていたメモ紙に気付いた九曜はそれを抜いて中を読むと、人知れずポケットに仕舞っていた。

 雪上は言うべきか迷ったが何も言わないでいた。

「もしかしたら、月澄さんはここを物置代わりに使っていたのかもしれまんせんね。でも、せっかく鍵を預けてくれた方に対してとやかく言うのはちょっと流儀に反するから」

 九曜がそう言って扉をしめようとした所、後ろから旭の手が伸びる。

「これなら」

 そう言って手に取ったのは卒業アルバム。旭は自分も同じ物を持っているから、自分が見せたことと変わらないと言い、ぱらぱらとページをめくる。富本司と、旭自身と、月澄圭祐の三人の写真を見せてくれた。九曜は興味深そうに頷きながらみている。

 そう言えば、昌也はどうしたのかと部屋を出てリビングを見ると、一人そこに残って、立てかけらたキャンバスをひとつひとつていねいに眺めていた。

 声をかける雰囲気ではなかったので雪上は何も言わず部屋を出ると、まだ見ていないもう一つの部屋の扉に手をかけた。

 電気をつける。

 この部屋には比較的、家具などが残っている。

 イーゼルと、油彩絵具。

 棚には本やスケッチブックが突き刺さる様に押し込まれている。

 雪上はその中の一つのスケッチ部区を手に取った。クロッキーで書かれたスケッチ画だ。

 花器、果物などの静物画がある。

 人物に描写もあった。それは、あの遺作で描かれた女性のと言うよりも、道行く人をランダムにスケッチしていると言う印象だった。

 今更ながら、富本司もこういった基本的な絵を描いていたのだなと思う。

 美術学校に通っていたのだともいうし、当たり前の事なのだろう。ぱらぱらとページをめくって、次のスケッチブックを手に取る植物の絵が描かれ、どれも同じようなものなのだろうかと思いながら、次をめくると毛色の異なる絵が現れる。

 天女。

 何処かで見たことのある構図だった。記憶の糸を辿り、古藤に見せてもらった、富本司が使っていたという彼の部屋に残された画集にあった、あの絵だと思い出す。

 名前は確か、……神園直宮と言ったか。本当に実在したのか、彼が結局どんな最期を迎えたのか、全て歴史の渦に飲み込まれた謎多き画家。残されたのは絵だけである。

 彼の画集にあったうちの一枚だ。

 特に雪上が気になって目についた美人画。

 朧気な月夜に漂う、唐織の着物に身を包んだ一人の女性。

 他にもいくつかのスケッチブックをぱらぱらと見たが、ほとんどが作品制作に向けてのスケッチやクロッキーばかりであった。

 旭と九曜が雪上が今居る部屋に入って来たのが足音でわかった。

「なにか分かったことはありそうか?」

 九曜の声に振り向くと首を横に振る。

「そうか」

 九曜はそう言ってイーゼルに立てかけられていた油彩画を見ていると、旭は、

「その作品には見覚えがあるな。確か、高校生の頃に授業で彼が描いたものだ」

「授業で油彩画を?」

「ああ、当時の美術の先生がちょっとトリッキーな感じの先生で、授業らしい授業はなくって、ただ、何でもいい。自作でも有名画家の模写でもいいから、一枚絵を完成させろって。その時に司が描き上げたのが、その絵だった。それを見て、ああ、俺たちとこいつはちょっと違うと思った。ちなみに何の絵の模写だと思う? 正確に言うと彼は多少自分なりにアレンジして描いた自作の絵だと言っていたが」

 九曜は考え込む様に腕を組んだ。

「名前を聞けば、わりと誰もが知っているほどの有名な絵だ」

 旭は笑みを交えて、そう言葉を付け足した。

 絵の中では星空の下で何かが抱き合っている。

 何かと雪上が表現したのは、何かが何かを抱きすくめている様に見えるのだが人ではないい。腕として描かれている部分は、機械か、何かの物体か。それともそう言う生物なのか。

 旭は九曜と雪上を見て、

「あまりここに考え込むことではないから、正解を言うと、グズタフ・クリムトの『接吻』だそうだ。当時、本人に聞いたから間違いない」

 九曜は「なるほどね」と言い、絵をまじまじと見ながら頷く。

「なるほど。ダリの絵かなとも思ったが、どの作品かと言うところまではわからなくって。――確かに、クリムトの絵なら見覚えがある。言われていみると同じ構図だ」

 グズタフ・クリムトの接吻は、紫、青、黄色の花が咲く崖の上で、二人の男女が抱き合う、金色の色彩が印象的な絵画である。

「まあ、言われないとわからないかも。俺もあいつに言われて、ああ、と思ったぐらいですから。クリムトの接吻はもっと華やかな色彩だったかと。でも、司の描くこの絵は真逆だ。雰囲気でいうと、クラシックバレエのシルフィードからロマンチックチュチュ(衣装)とポアントを取り除いた様なかんじですかね」

 シルフィードと言うのはバレエの演目で空気の妖精と言うものらしい。白いふんわりとした衣装にポワントで踊ることでダンサーは妖精に見えるのだとか。しかし、ダンサーからその二つを取り去ったとしたら、ただの人になる。

 旭は話の流れから、舞台関係の仕事をしているのだと教えてくれた。

「なるほどですね。富本司氏の絵は何というか、もっと人の奥底に眠っている。普通の人なら見ようともしない奥底を描いているのだと。だから、この作品はこれでいいのだと思いますね」

 九曜の言葉に会話が途切れたので、雪上は先程見ていた天女が描かれたスケッチブックを持って行き、

「この絵については、富本氏からなにか聞いたことはありませんか?」

 旭にそうたずねてみた。九曜もその質問に興味を惹かれたらしく、雪上が持つスケッチブックを覗き込み、

「これはあの画集の?」

 旭が答えるよりも先にそう聞いた。

「僕もそう思ったんです。あの、神園直宮と言う人の」

 雪上がその名前を出すと、旭は思い出したと顔を上げる。

「神園直宮――司が幼い頃に絵を書こうと思ったきっかけになった画家だと聞いたな。日本画で言うと、巨匠と呼ばれる横山大観や上村松園の様に華々しい活躍を遂げた画家ではないそうで、むしろ画業の人生は別荘で……その、塀の向こうで過ごした際に」

「塀の向こう?」

 雪上は意味がわからず、そう聞き返したが、九曜はその言葉だけで意味を理解したらしく、低い声で「ああ」と言った。旭は頭を掻いて、

「つまり……今風に言うと務所で過ごしたということか」

「刑務所ですか?」

「まあ、昔の人だから当時で言う監獄と言うやつだね」

「はあ」

「まあ、これも司から聞いた話なんだが、神園直宮は冤罪だったにもかかわらず、懲役判決を裁判でくだされた経緯があるそうなんだ。だから、一部の神園直宮の信者からは、彼の経歴について本来はあるはずのない監獄収監をせめて本の経歴にはのせたくないと、そういった力が働いていたらしい」

「なるほど」

 雪上は神園直宮の経歴は資料でみたのでさらっと知っていた。だが、旭から説明を聞いたことで、富本司が実際に神園直宮についてどう思っていたのか、その一端を知れた気がした。

「しかし、富本司ともあろう画家がどうして囚人画家に対してそこまで尊敬の念を抱いていたのでしょうかね?」

 九曜の言葉に、確かにとその疑問に同意した。

「昔チラッと聞いたことがあって、彼のその境遇に何か相通じるものを感じたらしい。もちろん司は収監されたことなんて無かったよ。彼は全うな人間だったからね。それにあまり体も強い方ではなかったから。無理が出来るタイプだったし。神園直宮は監獄と言う一見画業には相反する世界であっても、黙々と絵を書いていく。そんな彼の姿勢に、司自身も色々と感じる部分があったのだと」

「そもそも監獄内で絵を描く事ができるものなのでしょうか?」

 雪上は大前提としてその部分に疑問が浮かぶ。

「一般的に考えればなぜと思うけど、彼は出来たのだろうね。現に彼が描いたとされる絵が現代に残っている訳だから。監獄内の規定がどうなっていたのかはよくわからない。そもそも、戦前の話だし」

「そうですよね」

「監獄の規則などについてはは正直詳しくないが恐らく、普通に考えれば無理な話だろう。囚人に絵筆を渡すなんて一般的には考えにくいだろうし。ただ、それをやっていたということは、看守の間でも神園直宮が無罪、冤罪であることを表立っては言えなくとも、どこか暗黙の了解みたいな認識していた可能性があるのでは?」

 九曜はふと思いついたとでも言う言い方だったが、彼の意見は最もだと思い、成程と雪上は頷く。

「僕も神園直宮と言う画家は富本司氏を調べているうちに知ったんです。普通に生活をしていれば、あまり知ることは無いと思うのですが、富本氏はどうやって神園直宮を知ったのでしょう?」

 雪上の問いに、旭は腕を組んだ。

「確か、幼い頃、博物館で見たとか。そうだ、八重本町に博物館があって、さっき、圭祐も言っていた博物館。そこに監獄の歴史や当時の囚人が作ったものだとかが展示されていて、その一角にあるのだと。確かそう言っていたかな。ただ、十年以上前の話なので、今でもそれがあるかどうかはわからないけど」

「美術館ではなく、博物館なのですか?」

 九曜の言葉に旭はうーんと唸る。

「確か、博物館だと。その話を聞いた時に、俺も美術館ではなくて博物館なんだと思った記憶があるので。随分前の事なので曖昧な部分もあるかもしれませんが」

 雪上としては美術館でも博物館でもどちらでもいいのではと思ってしまうのだが、九曜にとってはなにか重要なことらしく、なぜかそこにこだわっていた。

 雪上は手に取ったスケッチブックを棚に戻し、現実世界に富本司が残していたモノたちを丁寧に見ている。

 ようやく諦めがついた九曜は旭を振り返ると、

「もしご存知であれば――月澄圭祐さんのお仕事は何かご存知でしょうか?」

「いくつか仕事を転々としていたと、そんな話は聞いていましたが、今はわかりません。あいつの性格なのか性分なのか、あまり続かないと言って。ですから……」

「そうですか。先ほどの部屋、クローゼットの中に写真などの撮影機材が多くあったので、動画作成とか写真家などのお仕事をされているのかと思ったのですが」

 九曜はその機材が割と最新の型だったとも付け加える。

「いえ、逆にそうだとしたら初耳です」

「趣味で撮影をしているということは?」

 雪上は思わずそう聞いた。

「いや、全く知らないな」

 旭は少し考えた様子だったが、すぐに首を横に振った。

「月澄圭祐さんに会うのは、お久しぶりだったのですよね?」

「ええ。色々とそれなりに忙しくしていたので」

「それに兄貴、結婚したしな」

 リビングでの絵を見終えたのか、昌也が部屋の扉の所からひょっこりと顔をのぞかせた。

「おめでとうございます」

 先ほどの会食でも言ったが、御祝い事は何度でも言っても構わないだろうと思い、雪上が恭しく小さく礼をしてそう言うと、ぱっと笑顔を作った九曜もお祝いの言葉述べたのと同時に、こんな夜遅くまでつき合わせて申し訳ないと言葉を添える。

「いえ、私の友人の事ですし、気にしないでください。正直、今日お二人から色々と話を伺い、情報をもらってなんだか――それより、九曜さんは圭祐が写真家に転職したと思われるのですか?」

「写真家と一口に言っても、プロとして活動できるのはごく一部の人でしょう。ただ、趣味にしては、ずいぶん高価なものだと思ったので」

 趣味でも凝る人はかなりお金をかけると聞いたことがある。しかし、九曜がわざわざこう言うのは、よっぽどのことだのだろうと。そう思うとある考えに至る。

「動画配信者とか」

 雪上がぼそりとつぶやいた一言に反応したのは旭の方だった。

「ありえるな――アイツ、かなり目立ちたがり屋だから」

 腕を組み、納得した様に頷く。

「そういった動画の配信を始めたという話は聞いた事がありましたか?」

 九曜の問いに唸り声とたっぷりの間があったが、

「いや、聞いたことはないな」

 と、呟く。

「しかし、人に言わずともやる可能性はあるだろうし」

 九曜は圭祐が、動画配信を行っているのだと一人で結論づけている感じだった。またしても、雪上はどちらでもいいじゃないかと思うのだが、九曜にとってはそうではないらしい。九曜のぶつぶつと言う小言を横目に見ながら、他になにか目ぼしい資料はないかと棚んいある、スケッチブックを片っ端から手に取った。どれも同じような絵が描かれているばかり。

 九曜は『月澄さんが亡くなる直前にここに来たのは間違いない。死を考えている人ではなかった。少なくとも我々から見て、月澄洋子と言う人物を知っている人は皆そう思っていた。だから、この部屋に彼女を死に駆り立てた何かがあるのだろう』そう言っていた。月澄洋子が見た、もしくは発見したものは一体何だったのだろうかと考える。

 ぐるりと部屋の中を見渡す。家具や棚、置かれた本などは、ほとんど確認している。(雪上が見た以外のスケッチブック以外の資料は、他の三人が見てくれていた)雪上達が見た様い、月澄洋子もすでに確認しているだろう。――そうなると、普通なら見ようと思わない場所。そこで何かを発見したのだろうか。

 雪上はいきなり、床ぺたぺたと手を当て、部屋の中くまなくその動きをしてみせた。それは必然的な動きだったと雪上は思う。

「一体、どうした?」

 見上げると、昌也が戸惑った表情を浮かべ、ぶつぶつとなにやら唱えていた九曜は言葉を忘れてしまった様にぽかんとし、旭も可哀そうなものを見る目で雪上を見る。

 雪上はそんなことは気にせずに、立ち上がって、先ほど思い浮かんだ考えを示すと、三人の表情は曇ったままではあったが、とにかく理解を示してくれた。

「この部屋に隠し部屋とかは、まさかありませんよね?」

 ついでにと思って雪上は旭にそう尋ねた。

 彼は今まで見せたことのない、彼の雰囲気からは想像も出来ない様な、不思議そうな表情見せた。雪上も多少はおかしな動きをしたという自覚はあったが、否定する方がよくないと思ったので、真直ぐに真面目な表情で旭を見返した。自分の意見を貫き通すという意味を込めて。

「いや、そう言った話は聞いたことが無かったと思うが」

 雪上の奇行に圧倒されたのか、旭はしどろもどろになってそう答えた。

 そこでようやく自分の考えにはいささか無理があったのだということに気が付いた。隠し通路なんて、古民家を回想して自宅にしたとか、趣向を持って作られた家ではない限り、普通は無いだろう。ましてや、こおはありふれたどこにでもある様なただのマンションの一室で、そんな遊び心のありそうな建物では全くないということ。旭はその空気を払拭すべく、話題を戻した。

「だが、彼は神園直宮と言う画家に憧れて、その画家はわかる通り、そこまで有名ではなかった。彼の半生は大々的に公表できるようはものでもなかったし」

「富本司氏はそこに惹かれたのでしょうね」

 九曜は頷く。

「恐らく。司はそれに傾倒していって、獄中作品と言いますか、刑務所に収監された方々が製作した家具なんかをときおり販売してたりするでしょう? 司は自分の身のまわりのモノなんかはそう言った物を選んで使っていました。そこになんとなく強いこだわりを持っていた様です」

 旭はそう言って木製の本棚に手をやる。その本棚もそうやって、富本司がこだわって選んだ家具の一つなのだと。

「自分自身が芸術家だからでしょうかね。ブランドにこだわるということはないのですが、大量生産されたものよりは、職人さんが手作業で一点一点作ったものに惹かれるみたいでした」

 九曜はそう言って腕を組んだが、雪上が思いついたのは全く別のことだった。

「もしかしたら……」

 真っ先に雪上は本棚に向かった。本棚に並べられた本ではなく、本棚自体を上から下から、側面から。手で触り、目で見て何かを探してみる。九曜は雪上がどうしてそんなことをするのか、感じるものがあったようで、雪上の動きに呼応するように部屋にあった他の家具を同じ様に見て回った。

 この二人の動きに対しして、山内兄弟はぽかんとしているが、雪上は気にせず作業を続ける。

 九曜はベッドから手で触り、一つ一つ確認している。

「一体、二人は何を始めたんだ?」

 昌也は呆れた声を出す。雪上は手を止めず、口だけ開いた。

「この部屋にある家具が、一つ一つ職人が作ったものだというのなら、もしかしたらですけど、隠し引き出しみたいなのがあってもおかしくないのかもと思ったんです。もしそれが見つかれば、そこに富本司氏の今まで知られていなかった秘密がある。そう思いませんか?」

 旭と昌也は目の色を変えた。二人とも何もい言わず、雪上と九曜に続き、まだ調べていない家具にとりかかる。

 一通り、四人で探してみたが、映画や漫画でみる様なストーリーの展開の様にがらりと大きく変わる様な何かを見つけることは出来なかった。四人は口にはしなかったが、雪上が提案したそんな都合のいい隠し場所なんてないのでは、無言のそんな雰囲気が流れている。

 しかし、雪上は自分が考えた物事の流れは間違っていないと。理由はないが、確信を持っていた。

 ふっと、もう一度本棚に視線を戻す。

 今見たばかりだ。そして今、九曜はもう一度見ている。雪上がまた再度見た所で、どうどう巡りになるだけだろうと思ったがどうしても何となく気になる。

 本棚はみた。

 本棚に並べられたスケッチブックもサラリと目を通した。

 本棚に並ぶ、資料の冊子も雪上と他の三人でさっと見ていた。

 わかってはいたのだが、上から並べられた、本の背表紙を目で追って、一番下の棚まで言った時に、

「ん?」

 と、思わず雪上は声を上げた。

 大きな木彫りのブックエンド。

 モチーフはフクロウ。

 首を傾げる様子が可愛らしい。

 ちょっと変わっているのが、フクロウの体に赤いインキで“梟”と書かれていること。

 だが、この本棚の中でこれだけが明らかに異質だと思うと同時に、赤い文字だとその考えが先行した。

 まさか、富本司は彫刻をやっていた? ――ふとそう思って、旭にそれを聞いてみようかと思ったが、そんなことよりも体が先に動く動いた。

 雪上はしゃがんで、ブックエンドを両手で持ち上げる。

 取った瞬間に「あれ」っと思わず声をあげた。

 思ったよりも重かった。

 コンクリートブロックを持ち上げている様な気分だった。

 台座の人目につかない部分に赤い文字で”本”と書かれている。赤い文字が目の前にで発光しているように感じた。気持ちが揺らめき、まさか、あのいわくなのかと思って、違うと、そう思い直した。

 雪上の発見に、他の三人も手をとめ周囲に集まってくる。

 フクロウのブックエンドにきょろきょろと目をやり、フクロウの後ろの羽根の部分に金属性の留め金を見つけた。その留め金を外すと、フクロウはぱかりと二つに割れる。中から現れたのは小さなノート。

 ノートと言っても、ショップで売られている、一般的な学習帳の様なものではなく、大きさはA六サイズで、ノートの切れ端をパンチで穴をあけ紐でくくっている。何枚も何枚も綴られているので、辞典ほどの厚さになっている。

 富本司と言う人物は自分がこだわりを持つ者以外に対しては、あまり物に対して頓着しない人だったのかもしれない。

 雪上は振り返り、旭を見た。

「開いてもいいですか?」

 彼は神妙な面持ちでこくりと頷いたのを確認し、表紙の厚紙をめくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る