二度目の美術館

 見知った美術館のエントランスを小走りする古藤の後ろを追う。

 美術館の様子は先日来た時と何も変わらない。

 静謐な雰囲気の中にひっそりと聞こえるざわめき。

 チケットを買い求める人の列。

 ゆったりと展示室に入っていく人達。

 この美術館のスタッフにまさか死が訪れたなんて。誰も思ってもみないだろう。

 美術館の落ち着いた雰囲気は”死”とはずいぶんかけ離れ、相反する存在に思われた。

 月澄洋子だって、つい一週間前には何事もない様子でここで仕事をしていたのに。

 古藤は事務所の扉を開けるなり、

「おはようございます」

 と、七十代とは思えない程、張りのある声で挨拶をする。

「おはようございます……って古藤さん?」

 女性スタッフが反射的に顔を上げた。もちろんその表情には驚きの色を浮かべている。

「谷川さん、連絡ありがとう。――あの、洋子さんのこと、本当に……? 一体、なにがあったの?」

 事務所には谷川と呼ばれた女性一人だけ。他のスタッフは展示室などの他の業務に出ているのか姿はなかった。

 谷川の年齢は四十代ぐらい。九曜と同じぐらいかそれよりすこし上と言ったぐらいだろう。多分、古藤達を管理、統括する側の人だろうと、そのてきぱきとした口調や態度からそう思った。

「私も詳しことは………………ただ、今日は月澄さんの出勤日で、いつもなら彼女、始業の三十分前ぐらいには絶対に来るのに。今日に限ってはどうしてか一向に姿が見えなくて。就業時間を過ぎても来られなくて、流石に心配になって、それで、ご自宅に連絡してみたの。そしたら、ご家族の方が出られて、彼女が亡くなったと」

「ご病気だったのでしょうか?」

 九曜が思わずと言った感じで、横から口を挟んだ。谷川は「どなた?」と訝し気な表情を見せる。

 古藤の口から、簡単に月澄との関係や九曜と雪上の説明がなされ、谷川の表情はやわらいだ。

「ほんの一週間前にお会いした時はお元気そうでしたのに」

 雪上の気落ちした発言にあたりは重い空気に包まれる。

「私も話を聞いて、……まさかと思いました。自殺だなんて」

「自殺と言うのは本当なのですか?」

 谷川の言葉に九曜はそう聞き返す。

「ご家族の方が電話口でそう仰っていたので。私もつい先日仕事で、会ったばかりなのだけれど、そんな様子は全く感じられなかったから。本当にびっくりして」

 古藤も頷き返す。

 誰もが洋子の急な死に驚きをかくせないでいる。それは雪上も同じだが、それに加えて妙な違和感が胸の中につっかえている感じが拭えない。その原因は言わずもがな。雪上たちが今、調べている事柄が関係している訳で、つまり、月澄洋子の死は本当に……偶然なのだろうかと。

「赤い文字を見たなんてことは……?」

 思わずそう口にしてしまったが、あまりにも小さい声だったので、気付いたのは九曜だけだった。九曜の表情を見て、それは今言うべき言葉ではないと言う事を悟る。雪上の方を見た、谷川はちょっとだけ首を傾げたが、雪上は何でもないという様に首を振った。谷川は、話を続ける。

「お電話をした時に、ご家族に亡くなったと聞いて、お忙しいと思いましたし、あまり根掘り葉掘り聞くのもと思いましたので、それ以上の事は。自殺だと聞いた時は、私も本当に皆さんが感じた様に、びっくりしたのと、何故? と言う疑問の方が強く湧き上がって。今でも、彼女が亡くなったなんて、本当に信じられなくって」

 古藤は小さく頷き、

「ご家族って、どなたとお話されたの? あの、別に疑っているとかそう言う訳じゃなくて。ただ、洋子さんからあまりご家族の話を聞いたことは……息子さんがいらっしゃる話はちらっと聞いたかれど、ご主人の話は聞いたことがなかったから」

「電話に出られたのは、息子さんでした。確かご主人は――すごく昔に離婚されたとかって……」

 思い出した様に谷川はそう言った。古藤は罰の悪そうな表情を浮かべる。

「別に変な意味はないの。ただ、前聞いた話だと息子さんはもう成人されているって聞いていたし。ご主人の話は全くされないのねと思ったけれど、他人の家のことだからと、深くは聞かないでいたのだけれど、そうだったのね」

 雪上から見て、わだかまりはまだそこに残っていたが、谷川は否定とも肯定ともつかない言葉で、濁した相槌を打ち、話題を切り替える様に口を開く。

「ただ、気になったのは。息子さんが亡くなった場所について教えてくださったのだけど、全く聞いたこともないマンションの名前で。そこから飛び降りを図ったと。全くもって状況がよくわからなかったのね」

「そのマンションは何という名前ですか?」

「えっと、たしか……マンション如月、だったかしら」

 何かの因果だろうか。雷が起きた様な衝撃が走る。雪上は隣にいる九曜を見たが、やはり彼も呆然とした表情を浮かべている。谷川は二人の様子を見て自分が何か間違ったことを言ってしまったのだろうかと、何かを口にしようとして、でも結局何も言わなかった。言葉が見つからない様子だった。九曜は他に洋子のことを何か言ってなかったかと聞く。

「息子さんは、『母はマンション如月から飛び降りて亡くなった。警察からの取り調べもあったが、事件性はなく自殺だろうと判断された。事件性がないとされた理由にについては、洋子さんの亡くなった時の状態と、ともかくマンションなので、争った声があれば住民の誰かが気付くだろうと。でも、誰もそんな声を聞いた様子はなかった』って。かなり気が動転したご様子でした。無理もない話だと思います。ただ、そのマンションと言うのは月澄さんが住んでいるマンションではないと。聞いたことのないマンションだったので、あれって思ったのですが、私も驚くばかりで、その時は言葉が見つからず、特に何も聞き返しませんでした」

 谷川はゆっくりと、途切れ途切れに、言葉を選んでいた。

 雪上、九曜、古藤の三人は顔を見合わせた後、頷く。次に口をひらいたのは古藤だった。

「確かに谷川さんのおっしゃる通りだと思う。多分自殺なのでしょう。月澄さんは誰かに恨まれたりするような人ではなかったし。後は事件に巻き込まれた可能性が高いと思ったけど、警察がそう判断したのならそうなのだろうと思うわ。間違っていない。間違っていないのだけれど……とても、奇妙だわ」

「奇妙? ですか?」

 谷川は不可解な表情で古藤を見る。

「今展示されている作品の富本司という画家は、ご存知ですよね?」

 回りくどい古藤の言い方に目を白黒させながらも、谷川はこくりと頷く。

「もちろん。今展示している作品は把握しているし、富本司氏については月澄さんが熱心に研究されていたのは見ていたから」

「その富本司も同じマンションから飛び降り自殺をして亡くなったことはご存知ですか?」

「まさか」

 谷川は古藤がようやく何を言わんとしているのかその意味を理解した様で、みるみる内に表情がなくなる。

「そのマンション如月と言う場所は、富本司が亡くなった場所でもあると」

 九曜の言葉に「え」と、亡霊のように谷川は九曜を見た。まるで、全てが信じられないと言わんばかり。誰かがその言葉を否定するのを待っていたのかもしれないが、誰もそうしないので、いよいよ谷川はその言葉が事実なのだと。

「じゃあ、もしかして皆さんは月澄さんが後追い自殺をしたと、そう仰るつもりなの?」

 谷川は半ば九曜を責める様な口調でそう言った。恐らく驚きや怒り、様々な感情は一気に自分の中に巻き起こり、収集がつかなくなってしまったのだろうと、そう思う。

「いいえ、そうは言っていません――しかし、話を聞いた瞬間には僕らも一瞬まさかとは思いました。でも、月澄さんはそんな方ではないと、そう思っています。ただ事実としてあるのは、月澄さんが富本司氏について興味を持った僕たちに色々と教えて下さって、彼の残された絵や、死の原因について独自にお調べになっていた事。僕たちにも富本司氏について分かったことがあれば、是非知らせて欲しいと話されました。そんな矢先のことですから、本当に関係がないのか、僕たちがそこに疑問を抱くこともご理解いただけるかと」

 九曜はナーバスになっている谷川を落ち着けようと冷静にそう言った。しかし、谷川はまさかと思われた突拍子もない話に余計に思考がショートし、興奮した様子でそれをコントロールするのは難しそうだった。

「じゃあ、富本司氏の死、もしくは富本司氏に纏わることについて疑問点があって、それを調べているうちに彼女が核心に触れることがあって、それで自死を選んだ……もしくは自殺をよそおって殺害されたとでも言うの?」

「……」

 九曜はそれについては何も答えなかった。いや、あえて答えなかったのかもしれない。谷川が”殺害された”と言った時に、部屋の温度が十度ぐらい下がった様な気がして、冷や汗が流れた。

 二人のやり取りを交互に見ていた古藤が、谷川の方に近寄り、なだめる。

「ともかく、それについて今議論しても答えは出ないわ。そのマンションで亡くなった事について、向こうのご家族さんはなにか心辺りがあるとか、そんな話は何も言っていなかったのかしら?」

 古藤の言葉に冷静になった、雪上は最後に月澄洋子が話していたのを思い出す。確か、


 ――それで、あの部屋は今はうちの息子がその部屋を継続して持っています――


「ごめんなさい。私も何がなんだかわからなくなってしまって。言い過ぎたことお詫びします。――マンションの事についてはご家族からは何も。私もあまり色々と聞くのはなんとなく躊躇われて。ただ、私があまりにも驚いて絶句した時、『よく自殺者がある場所』だと警察の方に言われたと、言い訳のようにそんな言葉を言っていたような」

 谷川の話を聞いていると、警察は完全に自殺ど断定しているようだった。

「警察が自殺だと判断したなにか大きな要因が他にもあるのでしょうか?」

 雪上は思わずそう聞いた。

「『死ぬべきだ』と赤い文字で書かれた紙が彼女の家のゴミ箱から見つかったそうで、警察はそれを遺書だと判断したのだと」

 赤。その単語を聞いて雪上はドキリとする。

「それは月澄さんのご自宅の?」

 九曜の問いに、谷川はこくりと頷いた。

「月澄さんの部屋のゴミ箱で書いた後、破って捨てられた状態のものが見つかったとか。私からすると、それが遺書といえるほどのものなのかどうかちょっとわからないけれど、警察はそれが遺書なのだろうと判断したそうよ。まさかそんな言葉を書いていたなんて聞いて逆に驚いてしまって、頭がショートして……」

「別に責めている訳じゃないの。洋子さんの死は直接谷川さんと関わってるわけじゃないし、谷川さんのせいではないのだから」

「ごめんなさい。なるべく冷静に努めるようにしているのだけれど」

 急にそんな話を聞けば誰だって動揺する。深い森のしじまにいる様に、事務所の中は外の喧騒反して静かだった。

 雪上の脳裏に、描かれた女性が落下していく様が浮かんで、赤いインクで塗りつぶされ消える。

「同じ場所でまた自殺者が……何の意味があるのか」

 つぶやいた九曜の言葉に答える声はない。

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