神園直宮と山家集

 雪上と九曜は取り囲む石塀の門前から向こうにそびえる屋敷を見つめた。

 何度見ても立派な屋敷だと思う。そう言えば、以前に来た時、門から玄関までのアプローチ部分の手入れがあまり行き届いておらず、ぱっと見た時にまさか空き家ではないかと見間違えたのだが、現在はすっきりと手入れが行き届いており見違える程だった。

 古藤はこの屋敷に一人きりではなく、自分の親戚と金銭的に余裕のない美術学校の生徒の受け入れを住まわせて生活をしていると以前聞いたときに聞いていたので、恐らくその彼らの手を借り、手入れを行ったのだろうと思う。

 アプローチを進み、玄関扉の前でインターフォンを押す。

「はい」

 明るい声が扉の向こうから響き、顔をのぞかせたのは古藤圭子、本人だった。

「こんにちは。先日は色々とありがとうございました。今朝、ご連絡をいただいた件で伺いました」

 九曜が丁重に礼をするので、雪上もそれに習う。

「とんでもない、こちらこそ急に連絡を差し上げてごめんなさい。でも、善は急げと言うでしょう? こう言うことは早くした方がいいと思ったの。それに、皆さんのご都合もあるし、もうちょっと早く連絡をしていたら来れたのにとなっては嫌ですしね。急なのに来ていただけてよかったわ」

「今日はちょうど、僕達も、富本氏について調査をしようと約束をしていた日だったので、ちょうどよかったのです」

 九曜の言葉に古藤はにこりとほほ笑む。

「こんなところで何ですから、どうぞ入って」

 大きく開いた扉に誘われる様に、中に入る。

「ご家族の方や、皆さん外出されているのですか?」

 九曜の問いに古藤はすっと表情を消す。以前、雪上達が古藤家を訪れた際に、迎え入れてくれたのは、古藤の孫であった。その時の様子から、古藤は自分の生活の全て(金銭管理も含めて)を孫や親族に任せている様な印象を受けたので、当然のことながら今回もいるものだと思っていたのだが。

「皆、今は学校に行ったりとしているので。……それから、以前は家族と住まいを一緒にしていたのだけど、あまり構いすぎてもよくないと思って、それぞれ自立するように促したの。今この屋敷にいるのは、私と近くの美術学校に通う二人の学生だけ」

 古藤は以前は学生の受け入れについても、無償で見ていたが、最近はお金を無理のない範囲でとることにしたのだと話す。なかなかお金を払うことが難しい場合は、掃除や庭の手入れなど、学生生活に無理のない範囲で家の仕事をしてもらっているのだとか。

「私一人ではこの大きな家を管理するのはとっても骨が折れるから、孫も含めて”雇用”してこの屋敷を管理することにしたの。夕方になると授業終えた学生さんたちが帰って来るから、夕飯の支度だとか細々とした買い物をお願いしたものを届けに来てくれる予定だけど。大抵今の時間は一人でいるのよ」

 雪上は九曜と頷きながらその話を聞いた。何が一番良いとか悪いとか、雪上にはわからないが、古藤と屋敷の様子を見ると今の状態がベストなのではないかと思う。もちろん、古藤が大きく体調を崩したり、状況が変わるようであればそれはその時なのだろう。

「それで、富本司氏の遺品がこちらにあると」

 九曜は話題を切り替える。

「そうなの。昨日、上の部屋を片付いていてね、ちょうど見つけたの。案内するわ」

 古藤は玄関の正面にから二階に続く、階段にツカツカと進んでいくので、九曜と雪上もそれに続いた。

 本当に家と言うよりも屋敷と言うことばがぴったりと当てはまる。

 二階は廊下がまっすぐと伸びて、その両脇に扉が並ぶ。床は臙脂色を基調としたカーペット敷かれ、歩いても足音があまりしない。割と新しいものと思われ、他者との共同生活にあたって、新調したのだろうと、古藤に続く急ぎ足の傍らでそんなことを考えていた。

 古藤は年齢の割にしっかりとした足取りで、二人の先頭を切っている。

 開けたのは右手の階段から数えて二番目の扉。

「ごめんね。ちょっと片付いていないけれど」

 そう言うが、それほど散らかっている様には見えない。六畳くらいの大きさの部屋で、棚が並び、様々な書籍が生前と並んでいる。机とベッド。クローゼットがあり、大きめの窓がある。本来であれば、学士絵を受け入れるために用意された部屋なのだろうが、現在はその役割を果たしていない。

「ここがかつて、司君が使用していた部屋でね」

「そうなんですか?」

 雪上は思わず間髪入れずにそう聞き返した。古藤はレースのカーテンを開ける。先ほどよりも部屋の中が色づいた気がする。

「そうよ。彼が学生の頃、この部屋を使っていて、その後……確か一人くらい別の学生さんが使っていたかな? それから誰も入っていないわ。この棚の資料は歴代この部屋を使った学生が、卒業すると同時に使わなくなった資料を残していって。たまに、スケッチブックなんかも入っているみたい。大抵、名前とかサインが入っているから、見たら誰が置いていったかはわかると思う。まあ、皆さん、乱雑に詰め込んでいくもんだからね。一応整理して、人ごとに分けてみて、意外と司君が残したものを多くありそうだったから、参考になるかと思って連絡をしたの」

 九曜は棚の方に向かい、

「ありがとうございます。では、みさせていただいても?」

「もちろん。そのために呼んだんですから。私も整理して、司君のはこの辺りにまとめたわ。もちろん、他の資料も見てもらって構わない。私の方でちゃんと整理で来てなかったという可能性もあるからね」

 古藤はそう言ってふふっとほほ笑む。

 礼を言って、雪上と九曜はさっそく作業に取り掛かる。

 古藤は他にも家のことでやることがあるから、何かあれば一階にいるから声をかけてと部屋を出て行った。

 棚には日本画、洋画、彫刻などの作品をはじめとした様々なジャンルの画集が並ぶ。その中からランダムに手に取ったのは画集だった。


【神園直宮】


 聞いたことも見たこともない名前だ。

 ぱらぱらとページをめくると、極彩色もしくは墨汁をにじませた日本画が目に飛び込んでくる。

 中には画と漢文が合わさって一つの作品となっているものがあるが、その漢文は雪上には判別不可能でなにが書かれているのか理解するは難しかった。

 なんとか解読しようと頑張ってみたが、漢字は読めるものと読めないものがあり、絵も同じような構図のものが続いたり(雪上にとっては)。とくに何も手掛かりにはなりそうもないと判断し、本を閉じようと思いながら、最後の一ページと、ページをめくったところで幽玄な世界の一枚があった。

 タイトルは『天女――胡蝶之夢』。その故事は確か、人生の栄華を極めるも、それは全て夢だったとか、そんな内容だったと思う。なんとなく内容は知っていたので、漢文でかかれていてもすぐにわかった。

 朧気な月の下に一人の女性が浮かぶ。その背景には、匂い立つ美しい花。

 女性は唐織の着物と、人ではない妖しさを身にまとう。

 画面の中で風が吹いているおり、なびいた着物の裾の辺りに視線をやっている。

 その女性に作品に、見えない引力を感じた。

 心を奪われる前に本を閉じると、一枚の紙が挟まっていたのに気がつく。

 何だろうと紙を抜き取って見ると、今雪上が見ていた絵を模写したものだった。

 富本司の名前が書かれおり、彼が描いたものだろう。

「富本司氏はもともとこういったタッチの絵に興味があったのでしょうかね?」

 他の資料を見てた九曜に、富本司の名前が書かれた辺りを指でなぞりながら、絵を見せた。

「多分そうなんだろうな」

 九曜はそう頷いた。

「女性をモデルとした絵はほとんどみたことのない方ですが、全く描いたことが無いという訳ではないようですね」

 雪上が手にもつ一枚は、スケッチのラフな一枚だが、まごうことなく女性の美人画である。

「リアルな女性と言うよりも空想の中でしか生きられない女性と言った感じだけれど。もちろん美しいし素晴らしい一枚だと思う。だけれど、女性の血が通っていない様に見えるというか、まるで幽霊でも見ている様な気分になるな」

 九曜の意見は雪上自身も感じていた事と全く一緒であった。

 雪上は九曜に、元の絵があると先ほどみていた、ページを開いて九曜に示した。

「へえ」

 九曜は本を受け取ると、じっとその絵を見た後、ぱらぱらと他のページもめくってみている。

 観音像などの宗教的な絵もいくつか見られた。

 最後のページに作者について簡単に履歴が描いていあるのを見つける。

 明治時代に生きた人の様だ。趣味の一つとして、絵を描く様になったと。

 源氏物語をはじめとした古今東西の物語を読みふけり、そこからインスピレーションを受け、絵の題材にしたとある。日本画なのにあのファンタスティックな感じはそういった理由からなのだろうか。

 ただ、晩年は、服役をしていたと書かれている。

 一体、彼の身に何があったのか。

 齢四十の頃に彼は亡くなったともあったが、死因については書かれていない。

 体の理由から早く亡くなってしまったのか、それともなんからの理由で俗世を離れなければならなかったのか。

――冤罪。

 そこには、事件の犯人に仕立てあげられ、服役させられたため、世俗から姿を消した。経歴にはそう書かれていたが、それだけでは真偽のほどは定かではない。

 この資料を作成した人たちは、彼が冤罪で収監されたと、彼の死後も信じて疑っていないのだろう。今となってはもう、わからない。

 彼の経歴の記述はそこで終わっていた。

 もう一ページめくった時、どきりとした。

 一面に漢文が書かれていているのだが、朱の文字で全て書かれている。なんと書いてあるのかはわからない。だが、その文字からは生と死の境目にいるような緊迫した雰囲気を感じた。怖いと思って、それ以上に見られなくなり、ぱたりと冊子を閉じて、棚に本を戻す。

 九曜は何を見ているのかと、横目で見ると、なぜか『西行』と書かれた本を手に取っている。

「え、九曜さん?」

 場にそぐわない本のジャンルに思わず、そうツッコミを入れずにはいらいらない。多分、棚にあったのだろうけれど、なぜその本を手に取ろうと思ったのだろう。

「これ? ああ、この本棚の中で一番年季が入っている様に見えたんだ。多分富本氏が一番手に取っていたのではないかと思ってね」

「はあ」

 九曜の言葉に賛同しながらもイマイチ、ピンとこなかった。富本司のあの絵と西行は雪上の中で相反するものに思われたから。

「西行法師と言う人物は知っているだろう?」

「ええ、もちろん。その名前は知っています」

 学校の授業で幾度となく聞いた名前。確か西行はもともとそれなりに身分のある人だったが、出家した人だ。

「この本にはその西行が出家し、旅をしながら隠者として生きて亡くなったと書かれている。たくさんの和歌を残していて、坊さんなのに恋の和歌が多いらしい。かなり女性からモテたようだね」

「九曜さん詳しいですね?」

 九曜の見た目は坊主頭で、大学には好んで作務衣などを着てくる。総じて、そういったモノに興味がやはりあるのだろうか。もしくは、民話に対して探求心が強い人だから、歴史にも造詣が深いのかと思ったが、

「いや、この本に書いてあった」

 あっけらかんとそう答える。

「そうなんですね」

「しかし、興味深い箇所があって」

 九曜が開いていたページの一文に目が行く。

 

 ねがはくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの望月の頃

 

「西行法師の和歌ですか?」

 九曜はそうだとこくり頷く。

「”花のした”の花と言うのは桜をさすのでしょうか?」

 昔は”花”と言えば梅を指したと何かえ聞いたことがあった。しかし、歌の情景はどう考えても桜だと思う。

 九曜はページを遡る。

「ああ、ここだ。西行は吉野山の桜を詠んだ和歌をわりと残しているらしい。だから、桜の可能性が高いのではないか」

 吉野山は現在も桜の名所として有名だ。時期になれば一目桜を見ようと多くの観光客でにぎわうという。誰かが満開の様を見るのも綺麗だが、山全体が花吹雪となるもの見ごたえがあって美しいと言っていたのを聞いた。

 西行の生きていた平安時代も山を埋め尽くすような桜が咲いていたのだろうか。

 特に彼が生きた平安末期は平家物語にも描かれている様に時代が変革した時でもある。そんな戦乱のさなかに、ひとり吉野山の桜を見て西行は何を思ったのだろうか。そんな風に思いをはせてみると、雪上の意識も時代の渦に巻き込まれそうになる。

「この和歌がなにか?」

「そっちじゃなくて、気になったのはここだ」

 九曜はページの反対側を指す。

 

 なにとなく 芹ときくこそあはれなれ 摘みけん人の心 知られて

 

 西行の歌集である山家集にも収められた一首だそうだ。

 本の空白のところに小さい文字で書き込みと、和歌は二重線が引かれている。富本司はとりわけこの和歌に心惹かれたのだろうか。

「なにか気がつかないか?」

 九曜の言葉に首を傾げながら、和歌を声にだして唱えた所はっとした。

「”芹”ですね?」

 九曜はしたり顔で頷く。

「あの絵で芹が描かれていたのは、この和歌によるものなのでしょうか」

「現時点ではなんとも。しかし、この和歌の影響をうけていたことは間違いないだろうな」

 古語の勉強は高校までは授業でやっていたが、すっかりもう覚えていない。ただ、この和歌を目で追って、もの悲しい気持ちが浮かんできた。

 スマホを取り出して、検索する。

「芹を摘む。と言うことわざがあるみたいですね」

 九曜はふと雪上のスマホを覗き込む。かいつまむと以下の様な説明があった。

 

 昔々。

 とあるお屋敷で、高貴な女性が食事をしていた。

 風で御簾がめくれ、身分の低い男性が女性のその姿を見て、恋におちた。

 もう一度、顔をみることはできないかと、考え、ちょうどその女性が芹を口含んでいる所だったので、芹がお好きなのだろうと考える。

 男は芹を摘んでは屋敷の隅の並べてみたが、その女性を目にすることは叶わず、心を患って死んでしまった。

 

 

 身分が異なり、報われない恋というのはそれほど身を引き裂く様な気持ちになるのだろうか。現代社会に生きる雪上には、あまり実感がわかないが。

 九曜はそれを見て唸った後、

「富本司があの絵に芹を描いていたのは報われない恋をしていたからではないだろうか」

「なるほど」

 雪上は頷いた。

 確かにそうなのかもしれない。

 芹を摘むという言葉に秘められた意味を知った今、絵に散りばめられた芹は彼の心情を表していたのかもしれないと。

 そうなると、

「描かれていたあの女性は一体誰なのでしょう?」

 再度、その疑問が湧き上がる。

 描かれた女性は空想で描かれた人ではなく、実在する誰かである可能性が高いと考えられた。

「それと富本司氏の母はどうしてあの遺作の絵を自身で保管し続け、人目につかない様にしたのか」

 九曜の言葉と同時に大きく扉が開かれた。

 驚いて扉の方を見ると、古藤が慌てた様子だ。どうしたのかとこちらから聞く前に、

「月澄さんが亡くなったって………………今、連絡があったの」

「え?」

 あの日、丁寧に説明してくれた月澄の姿が目の前に浮かび上がる。

 病気を抱えているとか体調が悪そうな様子は見られなかったと思う。ほんの一週間前の出来事だ。

 それと同時にまさかと思い浮かんだのは、赤い文字のこと。

「一体何があったのです?」

 九曜は一呼吸置いてそう聞いた。その声はつとめて冷静。いや、もしかしたら冷静にしようとしているのかもしれない。

「勤め先の、その美術館の別のスタッフの方から今連絡があって。急なことなのだけど、月澄さんのお通夜が明日あるからって」

「なぜ、亡くなったのですか?」

「それが……飛び降り自殺を図ったと」

 古藤も全く予想もしていなかった事なのだろう。心ここにあらずといった感じでふわふわと視線が彷徨っていた。

 雪上も古藤の言葉の、単語の意味わかっている。理解しているのだけど。

「古藤さん。もしこれから、職場に立ち寄られるならばご一緒してもいいですか? そもそも富本司のことを調べ始めたのは、月澄さんの言葉があったからですし、乗りかかった船です。なのに、どうして……なぜこんなことになってしまったのか」

 珍しく、九曜の声が震えていた。

 古藤を見ると先ほどの動揺した様子は少し治まり、しっかりとした瞳で九曜を見つめている。彼女の死を聞いて、お人好しな古藤なら泣き崩れるだろうと雪上は思っていたが、そうならない強さは年の功なのか。

「行ってみましょう。このまま家で悶々としていても、今夜は眠れそうにないし。ちょっと待ていて。今、車を呼ぶから」

 古藤に後に続いて、九曜はカーテンを閉めて部屋を出る。

 それに雪上も続くのだが、ふっと後ろを振り返り、それから扉を閉めた。

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