マンション如月

 情報交換と資料の整理を終えたところで、カフェを出る。

「古藤さんとの約束は今日の午後なんですよね?」

 今の時刻は午前十時。ここから電車を乗りついで行ったとしても、古藤の家まで行くのに十分な時間がある。

「ああ。その前に一度、動画で紹介していたマンションのある場所を見てみたいと思っていて。雪上くん、案内を頼めないか?」

「いいですよ。歩いて、ここから十分ぐらいだと思いますので」

「よろしく」

 カフェを出て、大通りへ出ると、駅とは反対側に歩いて行く。

「初めてこの辺りに来たのだが、わりと栄えているんだな」

 九曜はきょろきょろと辺りを見回していた。

 駅周辺は飲み屋街となっとており、飲食店が立ち並ぶ。ほとんどが夕方以降にオープンする店のためで、現在はシャッターが下りているところがほとんどだ。

「こっちです」

 本通りから一本中道に入る。人気がなくなり、景色が変わる。がらんとした雰囲気だ。

 つい先日、車で通った道なので、雪上は迷いなく進む。

「ここです」

 示したのは、築年数がだいぶ経つ、どこにでもあるような一棟のマンション。

『マンション如月』

 窓ガラス越しにカーテンがある部屋が多数あり、現在でも住人があることが伺える。

 九曜はふうんと言って、うろうろと周辺を歩く。

 雪上も先日来た時は車内からだったので、その時よりもじっくりとマンションを見上げた。

「特に何も見当たらないな」

 九曜の言葉に、雪上は「え?」と、振り返る。

「まさか自殺の痕跡についてですか? 富本司氏が亡くなったのは十年も前の話ですよ?」

 雪上は呆れ口調。

「そうじゃなくて、ここに処刑場があった痕跡。現在はもちろん処刑場がなくとも、石碑とかそういった目印があってもおかしくないだろう」

「ああ」

 確かにと納得する。歴史上の場所について、石碑や看板が立てられている場所は多々ある。しかし、この細い路地を含めた周辺にはその様なものは何も見あたらない。

 マンションの外壁の色はくすみ、どこか暗鬱とした空気を漂わせていた。

「観音様とかがあればわかりやすかったのだが」

 建物と建物の隙間の薄暗い箇所も確認してみたけれど、見当たらない。

 以前車で来た時には気付かなかったが、九曜はマンション如月の隣の、隣に小さな古書店の看板を見つけ、そちらへてくてくと歩いて行く。

 ちょうど、シャッターががらがらと音を立て、中から老齢の店主が顔をのぞかせた所だった。

「おはようございます」

 九曜は大きな声で、店主が店内に戻る前に、小走りにむかう。気が付いた店主は少々不思議そうな表情を浮かべながらも、「おはようございます」と、小さく会釈をした。

「すみません、お忙しいところ恐縮ですが、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか? 僕は九曜と言います。彼、雪上くんと僕とはS大の学生で、民族学を専攻していまして、その土地に伝わる民話などを調べているのですが、この辺りの事について少し伺ってもいいですか?」

「ええ」

 有無を言わせない九曜の様子に面食らいながらも、店主は頷く。

「昔からずっとこちらでお店を営んでいらっしゃるのですか?」

「まあ、そうだね。この店は親の代からで、かれこれ五十年くらい。店を引きついだのは、二十年前。親父が病気でね。私も定年退職だったからそれを機に」

「そうなんですね」

 雪上は素直に相槌を打った。

「その――とある資料で、昔、この辺りに処刑場があったと見たのですがご存知ありませんか?」

「処刑場?」

 店主は驚いて顔をしかめる。

「これなんですけど」

 九曜は先程雪上にも見せた資料のを店主にも差し出す。それを見た店主は先程まで疑念を浮かべていた表情が穏やかになり、「ほう」と、感嘆のため息を漏らす。

「この町に監獄があった歴史は知っているがこんな話は聞いたことがなかったな」

「そうですか。昔、例えば、町の年長者の方からこれに近しい話を聞いたことなどは?」

 店主はきっぱりと首を横に振る。

「あの、”赤い文字を読むと死に至る”と言った、怪談話はご存知ですか?」

 店主は腕を組み、首を傾げる。

「ああ、そんな迷信めいた話もあったかな。確か、本当に小さい頃、小学校の七不思議ぐらいの感覚で聞いたような気もしなくはないが」

 雪上の問いに、店主は唸り声を上げ記憶をひねりだしてそう回答しくてくれた。ただ、それは雪上が欲しかった言葉ではなかったけれど。

「実は、この辺りにかつて処刑場があったことから、この付近では亡くなる方が多いと、そんな話も合わせて聞いたのですが、なにかご存知ですか?」

 九曜は上手く話を繋げてそう問いかける。

「――確かに、あそこに見える、マンション如月は昔からあって、この辺りでは一番背の高い建物だからね、それで……時折警察やら救急車が来ていたこともあったけれど。毎年毎年って訳でもないし。ただ、一回新聞記者が来た時があったな。確か、有名な画家が飛び降り自殺をしたって」

「その画家の名前って、”富本司”と言う方ではないですか?」

「そうだ。そうだ。あんたよく知っているな」

「八重本町の郷土資料を調べていた見ていた時にそのお名前を拝見したので」

 九曜のさもありなん説明に店主はいたく納得した様子だった。

「もう十年ぐらい前の話になるか。何度かマンションを出入する姿を見掛けたことがあったよ。陰気な青年で、こちらが挨拶をしても、ちょっと会釈をするぐらいで。芸術家と呼ばれる人はあんなもんなんかね。――ああ、そう言えば、この辺りで自殺が多いかと言っていたが、画家が亡くなるちょうど一か月ぐらい前に、同じマンションから若い女性がやはり飛び降り自殺をして亡くなった。流石にあの時は死が立て続けに起こったから、奇妙に思ったね」

「若い女性ですか?」

 店主のその話を聞いた時に真っ先に思い浮かんだのが、富本司の遺作。芹の葉と共に落下する女性の姿。

「その女性もあのマンションに住んでいた方だったのですか?」

「ちょうどその頃はまだ親父が生きていて、『顔を合わせれば笑顔で挨拶をしてくれるいい子だったのに』と、ぼやいていたので恐らく」

 店主自身はその女性についてはほとんど面識がないのでわからないが、祖母と二人で暮らしていたお嬢さんだと聞いたかなと、言葉を付け加えた。

 短期間のうちに店主が話す女性と、富本と二人も人が亡くなっている。この二つの死に因果関係があるのか。赤い文字の存在もどうしても脳裏をちらりと過る。未だ明確は答えはわからない。

「ちなみに、その転落して亡くなった女性なんですが、この女性だったりします?」

 九曜は富本司の遺作をの画像を見せる。あの時、美術館で絵を写真に収めたのは、雪上だけでなく九曜もだった。

 店主はひょいと九曜の持つスマホの画面を覗き込む。

「ああ、………………そうだ、しらねゆりさんだ」

 名前を思い出したと店主は言った。

「やはりじゃあ、この女性は」

 雪上の言葉に店主は急いで、

「いや、しかしはっきりとは断言できないし、わからないよ。確か一度か二度は見たことがあったから。髪の長い女性だったことは覚えている。だけれど、この描かれた女性と同一人物かと聞かれると……まあ、年寄りの戯言だと思ってくれ。そろそろ、私は開店の準備があるので」

「すみません。お忙しところありがとうございます」

「いや、でもそう言えば最近もあったな――じゃあ仕事に戻るから」

 言いかけた言葉が気になったが、それ以上は何も聞けない雰囲気だったので、雪上と九曜は深々とお辞儀をして、店の中に戻る店主を見送った。

 


 九曜は再度マンションの方に戻り、きょろきょろと様子を伺いながら、思い立った様にマンションのエントランスの中に入っていく。外観をみるだけだと思っていたので、九曜の大胆な行動にぎょっと目を疑うも、一人そこに残されても困ってしまうので、仕方なく九曜の後に続く。

 ひやひやしながら、引き留めるために声をかけようかと思ったのだが、妙に靴音が響く空間だったので、どうも話しかけるのが憚られた。

 エントランスの通路を抜けると、中庭が吹き抜けになっており、十階建ての建物は口の字型に廊下が張り巡らされ、等間隔に家の玄関が並ぶ。

「ほう」

 あまりみたことのないマンションの造りだからか、九曜は声を上げた。

 一画に、エレベーターホールがあり、その横に掲示板がある。ゴミ出しについてのルールや簡単なお知らせが貼ってあった。

 今、雪上と九曜がいる空間を中庭と言っていいのかどうか。それ以上の適切な表現が思い浮かばないので中庭とするが、そこは庭とは言い難く、一面コンクリートで覆われ、天井がないため上を見上げると鈍色の空が見える。

「あ、こんにちは」

 やけに響く九曜の声にそちらを見ると、ちょうどエントランスの方からやってきた高齢女性に話かけているのである。

 大胆と言うか何と言うか。雪上なら絶対に選ばない行動をするのだから、時折驚きを越えて感心する。

 この状況下でなぜ、そんな明るい声で話かけられるのか、不思議でたまらない。雪上なら、目を合わせない様にどうにか退散することを考えると思うのだが。

 ともかく九曜にそう声をかけられた女性はびっくりして、一瞬目を大きく見開いた後、

「こんにちは」

 丁寧にお辞儀をした。

「こちらにお住まいの方ですか?」

「ええ」

 女性は正直な方らしく、自身の住んでいる部屋がある方を指した。

「僕らは、S大で民俗学を専攻している学生です。その時に伝わる民話の調査をしておりまして。もしよろしければ少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 ”S大”と言う固有名詞を出した時点で女性は警戒心が薄れた様で、

「いいですよ。お若いお二人がわざわざ声をかけてくれたんですから。立ち話もなんですから、あの椅子に」

 女性が指した先には飲料の自動販売機と公園にある様な三人掛けぐらいのベンチが二脚。

「荷物、お持ちしますか?」

 女性はからからと引くタイプのバックを下げている。どこかに買い物に行ってきたのだろう。

 元気な笑顔を見せて、ゆっくりと歩き出す。雪上もの後ろに続き、ベンチに座る。

 女性はどっかりと座ると、手提げのバックをがさがさとまさぐって、小銭入れを探し当て、こちらに差し出す。

「お二人さん。これで何か飲みなさい」

 九曜と雪上は一度は断ったが、

「遠慮なさらずに」

 小銭入れをこちらにむかって突き出す手を緩めないため、二人は顔を見合わせ、「じゃあ」と、自動販売機で一番安いコーヒーをいただいた。女性は自分はいらないと首を振った。

「お言葉に甘えてさせてもらいました。ありがとうございます。いただきます」

 九曜は缶コーヒーに口をつけた後、女性に向きなおる。

「それで、奥様はこちらは長く住まわれていらっしゃるのですか?」

 女性はふふっと笑う。

「奥様なんて言われたのはいつぶりかね」

 見た目は、八十、下手すると九十歳代かといった所。少し耳が遠いのかなと思う節はところどころ感じるものの、受け答えはしっかりとしているし、足腰もまだ大丈夫なようだ。頬を染めて笑うと、若々しくみえる。女性はふうと息を吐いて、笑うのをやめると、

「そうね、ここにはもう半世紀ぐらいになるかしら。主人が退職してからこの場所に。ちょうど主人が仕事の関係でここに長く勤めていたこともあって、私もここが住み心地がよくなっちゃって。それにちょうどいいタイミングでこのマンションが売りに出されてたから」

 女性の夫は八重本町にある現在の刑務所で公務員として働いていたのだという。

「仕事のことは、なあんにも。全く話す人ではなかったから、今となっては主人が現役のころどんな仕事をしていたかって、聞かれてもわからないの」

 その声には昔を懐かしむ感情もこもっていた。

「この辺りで、いわくとか伝説とかそんな話を聞いたことはありませんか? ――その、悪く言うつもりは全く無いのですが、今ある刑務所の前身とも言える、監獄がこの辺りにあったと、そんな歴史背景があることも存じております。それは……その、明るい背景であるとは必ずしも言えないかもしれませんが」

 九曜は珍しく、言葉途切れ途切れにそう言った。

 つまり、この土地に五十年近く住んでいる人に対して、”良くない土地に住んでいますね”などと、直接的に言っているもの同義なので、そう伝わらない様に彼なりに気遣っているのだろう。

 女性は九曜の言葉にこくりこくり頷き、からからと声を立てて笑う。

「そんな、言いにくそうにしなくとも。はっきりと言ってくれていいんだよ。この歳になれば、そうそう驚くことなんてないんだから。でも、確かに仰る通りで、昔々。当時は監獄と言われていた施設がこの地にあったことは事実だからね」

「当時のことで、何か聞いたことがあることなどはありませんか?」

 雪上は九曜の言葉よりも早くそう聞いた。

 女性はそんな雪上を微笑ましそうに見ながら、

「そうね」

 首を傾げ、思案している。少しその問いに対しての回答を待ってみたが、やはり考えこんでいる様で、色よい返事は返ってこないと思っていた矢先、

「お二人がこの地域に伝わる、民話を調べていると最初に言っていたので、そう言った話があったかなと思って、考えてみたのだけど、ちょっと思い浮かばないかな。そもそもここって、監獄があったから栄えた様な場所で。昔は、本当に山と森しかない場所だったそうよ」

「なるほど」

 女性はそうだそうだと思い出した様に話を続ける。

「私は当時のことはわからないし、この現代ではもう聞いたことも無い様なことだけれど、当時は脱獄者と言うのが時々あったみたい。そうなるとこのあたりも戦々恐々とした雰囲気になって、脱獄囚を追って死人が出たという話も珍しくなかったみたいね」

 雪上は思い切って、

「監獄に処刑場があったなどと言う話は聞いたことはありません? もしかしたら監獄があった時代よりももっと昔のことかもしれませんが、実はとある資料でこの辺りにあったと地元の方の証言はあるのですが、どの資料を探しても、処刑場があったという公式の書類はなかなか見つからなかったので」

 そう聞いてみた。

「処刑場ね、私は聞いたことがないけれど、この辺りには監獄とちょっと離れた場所だけれど、裁判所があったという話も聞いたことがあるの。ただ、戦前の話ですからね。今となってはその裁判所もどこにあったのか。多分畑か雑木林になっているわね」

「じゃあ、その裁判所があったということは、裁判所で裁かれた人が処刑される場が裁判所の近くにあっても不思議ではないと?」

 九曜の言葉に女性はこくりと頷く。

「ええ。おかしくはないと思うの」

 女性の話を聞いて、この土地は人が住み始めてからの歴史はそれほど長くはなさそうだが、人が集落をつくって住み始めた経緯など、この八重本町には相当深い闇みたいなものが横たわっている気がした。

「その、裁判所の当時の資料はないのでしょうか?」

 女性は首を横に振る。

 資料どころか先ほどの話ぶりからするに、建物も残っていないのだろう。建物が残っていれば、今で言う歴史的建造物として紹介されるだろうが、この辺りでそんな観光地は耳にしたことはない。

「亡くなった主人からちらっと聞いた話だけれど、大戦で建物も資料もほとんど消失してしまったらしいわ。それが偶発的な出来事なのか、人為的なものなのかはわからないけど」

「全ては闇の中という訳ですね」

 九曜はぽつり、言葉をこぼしコーヒーに口を含む。

「風評被害は生みたくないから、あんまり大きい声では言えないけれど、このマンションで自殺を図る人が多いのよ。実は最近もあってね」

 実は一番聞きたかったその部分に、どう話を斬り込もうかと考えていた所、女性の方がからそう話を振ってくれたので、雪上としてはありがたく思い、九曜と二人、相槌を打つ。最近と言うのがいつのことなのか聞きたかったが女性はそのまま話を続ける。

「人によっては色々と、理由をつけて考えているみたいだけど、私は、その理由について、この辺りで昔はこのマンションが一番高い建物だったから。それに、このマンションの構造が、ちょっと変わっているでしょう? 普通、こんな風に廊下が回廊の様になっているマンションなんて見ないもの。どういう経緯でのこの形になったのかまでは、私はわからないけれど、飛び降りやすいでしょう? まあ、そう言うことだわね」

「自殺を図るとしたらどんな方法が最適か――その観点で考えたことは無かったですね」

 雪上は思わずそう言葉を返した。

「お若い方は、生きていれば色々あると思うけれど、自殺はしてはいけないわ。私はこの年齢まで生きてきて、そりゃ何回か”死ぬかもしれない”と、そう思ったことは幾度となくあったけれど、”死にたい”と思ったことは不思議とないの。私はあんまり神経質な性質じゃなくって、のらりくらりしているからかもしれないね」

 女性はそう言ってからからと笑う。

「この辺りで、死のうと思ったら、あとどんな方法がありますかね?」

 どんな質問だよと、雪上は九曜のその言葉に対してツッコミを入れる。ただ、彼は至極真面目に聞いているのだ。

「そうねぇ。線路に飛び込むとか」

 女性は笑顔でそんな風に話すのだから、少しだけこの女性の生きて来た半生がか今見えた様な気がした。

「人の”死”は、思った以上に身近にあるものなのですね」

 雪上はため息をつく様にそう言った。

「昔は……私も戦争を乗り越えて来た身だから、人の死については現代の人よりは見て来たかもしれない。いつかは人は死ぬものだから、それが数年先なのか、もしくはたまたま明日だったのか、ただそれだけの話だと思うの」

 女性いとも簡単に言ったが、その言葉にひそむ、闇みたいなものも感じる。

「このマンションにかつて有名な画家の方が住んでいらっしゃったと話に聞いたことがあるのですが」

 九曜は絶妙なタイミングでそう話を振った。

「ああ、いたわね。若い男性の。確か名前は……」

「富本司」

 雪上の言葉に女性は何度も頷く。

「そうそう。そんな名前の男の方だった。若いのに、物静かで。真面目とでも言うのかしら。自室のアトリエに引きこもってずっと絵を描いていると。だから私達も、有名な画家さんがいるって言う話は聞いていたけれど、ほとんど部屋から出ていらっしゃらないから、顔も見たこと無かったのよ」

「彼が自殺して亡くなったと。そう言った話を聞いたことがあるのですが、当時のことはご存じですか?」

 女性はゆっくりと頷く。

「あの時は――とても残念だなと思ったね。才能のある若い方が、あっけなく亡くなってしまって。彼のお母さん。どうもシングルマザーでずっと息子さんのことを支えて来たって話を聞いて。非常に気落ちしてらした。なんだか見て居られなかったね」

 女性は声のトーンがしぼむ。

「今先程、すぐそこの古書店のご主人からも少し話を聞いたのですが、富本氏が亡くなる少し前に、しらねゆりさんと言う女性も亡くなられたと」

 雪上は話のついでだとでも言う様に、そう話を振ると、女性はむっと表情が硬くなる。なにか不味いことを聞いてしまったらしい。

「……さあ、申し訳ないけれど、そろそろ家に帰って色々とやらなければいけないことがあるので」

 女性はゆっくりと立ち上がる。

「すみません、お引止めして。色々とお話を伺えて助かりました。ありがとうございます」

「いえ。お二人も気をつけて」

 含みのあるその言い方が気になったがそれ以上は何も聞かずただ、女性がよろよろとかばんを転がして、エレベーターの乗り場の前にいく向かい、ボタンを押す。だいぶ年季が入っているもののようで、エレベーターが降りてくる機械音が大きく響いた。一階に到着した、エレベーターに乗り込む女性を見送る。顔が見えなくなるところで、女性は一寸こちらを見て、小さく会釈する。

 九曜は、深々と頭を下げた。エレベーターが遠ざかり、女性が自分の部屋に戻っていくまで真面目な表情で見守っていた。

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