もう一つの遺作

 古藤が連れ立ってきた女性と目が合って、雪上は慌てて頭を下げる。

「雪上と言います。S大に通っていまして、次の春から二回生になります。よろしくお願いします」

「同級生の九曜です。どうぞよろしくお願いいたします」

「学芸員の月澄洋子です。私もまだ勉強中の身ですが、こちらこそよろしくお願いします。それで、富本司氏にご興味があると伺いました」

 月澄洋子は年齢、五十代半ばぐらい。ショートカットのてきぱきとした感じの女性で、古藤の説明によると、一年ほど前からこの美術館に勤めて出したとのこと。古藤はさらに、元々美術系の学校に通い、若い頃は美術館で働いていた経歴もあると月澄洋子の話を続ける。

「洋子さんは昔は、国が管轄する大きな美術館でお仕事をされた経験もある方なの。知識も豊富だし、きっと勉強になると思って」

 そう言ってにっこりとほほ笑む。

「特に富本司氏については、他の学芸員の方よりは多少詳しい自信があります」

 洋子は笑顔で、「それで」と、雪上と九曜を見た。

「僕は、実を言いますと、最近富本司さんの事を知ったばかりで。図書館で画集を見たくらいの知識しか持ち合わせていないのですけれど」

 雪上に続いて九曜が口を開く。

「僕は今日初めて、彼の作品を見ました。富本司氏が一体、どんな画家だったのか簡単に教えていただいても?」

 洋子はもちろんと、頷く。

「彼、富本司は八重本町の出身で、彼の絵に関してですが、お二人は技術的な部分よりも彼の内面的な部分の方がご興味がおありかなと思いますので、絵についての専門的な説明と言うよりも富本司と言う画家について私が知りうる限り、ご説明いたします。富本司はもともと内向的な少年で、幼い頃から人とあまり馴染むことが得意ではない子供だったそうです。もちろんそれはその人その人によってパーソナリティーは違いますし、その子の個性だから仕方のない部分はありますが、人によっては幼いころは内向的でも大人になるにつれて社交的になる子もいます。ただ、富本司はそういったことはなく、大人になればなるほど、自分の殻に引きこもる性格だった様です。それに伴って、学校の同級生からの心無い一言に傷ついて悩む事もあったと。彼は常に孤独を感じていたと思います。彼の家庭環境については、幼い頃に両親が離婚して、お母様が一人で彼を育て来ました。出来たお人柄のお母様でしたし、作品の中で母親を題材にしたものはほとんどありませんが(デッサンの練習などで描いているスケッチブックは残っています)、母親と富本司の関係は非常に良好だったと言えるでしょう。恐らく、彼は母親については不満は何一つ言わなかったから、母親に対して悪い感情は抱いていなかったと思います。でもまぁ本当の所、彼が何を感じていたかはわからないけれど。ともかく、そんな彼の性格と生い立ちが強く作品に影響しているのではないかと」

 雪上は大きく頷きながら話を聞いた。彼のいくつかの作品からは冷たく、暗い印象を受ける。それは幼い頃から常に感じていた彼の孤独感が影響しているのかもしれない。ただ、気になったのは洋子の話が妙にリアルだとも感じた点。まるで、幼い頃の彼をずっと見て来たかの様に。

「彼の作品は先ほどもお伝えした様に、この美術館で見たのが初めてですから、的外れな事を言ってしまったら申し訳ございません。月澄さんの仰る通り、彼の心のうちにある孤独を描いた重苦しい雰囲気がある作品の他に、割と明るい色彩で描かれたものもあったかと記憶しているのですが」

 確かにそうだと雪上も頷く。

 彼の画集を見た時も、その点について気になっていた。割合で言えば、明るい色彩の作品と言うのはごく少数にとどまるけれど。

「そうですね――彼、精神を患っていたんです。ですから、調子がいい時は極端に明るい作品を描くのですけれど、調子が悪い時はやはり、黒を基調とした作品が多くなる傾向にあるみたいで。私も病気に症状についてはあまり詳しくないのですが、波があって、良い時と悪い時を繰り返すと。そんなことは聞いていました。彼は自身の住んでいたマンションから飛び降り自殺を図り、亡くなったのですが、その頃はだいぶ、精神状態が安定していて、体調はいいと。それから、彼の画家としての人生もこれからだとそんな時だったのですけれど」

 雪上は画集にも同じような説明が書かれていたのを思い出した。洋子自身も彼の死について納得できないような何か疑問を抱いているのだろうか。それについてを質問してみようかと口を開いた時、洋子は、

「ちょっと待っていてください」

 と言って、古藤に目配せすると、お見せしたいものがあるからと言ってもう一度、二人で部屋を出て行った。

 残された九曜と雪上。二人の空間に妙な空気が残る。

「月澄さん。妙に富本司氏について詳しいな」

 九曜はぼそりとそう言った。

 雪上はその言葉に対してなんと答えていいかわらかなかったので、

「九曜さんはアンケートにはどの作品について書いたんです?」

 雪上はそう聞きながら、ちらりと九曜が書いたアンケート用紙を覗き込む。”富本司”と、明瞭な文字で書いてある。

「もちろん、他の作家さんや作品にも目を見張るものがあった。しかし、妙に惹きつけられる。そんな感想を一番持ったのは彼の作品だった。雪上くんの先ほどの話や、今の話を聞いて、月澄さん自身も、彼自身の事についてなにか疑念がある様な。そういった印象を受けたよ。それで先ほどの話に戻るが、もしかして、雪上くんは富本司が自殺を図ったというマンションが八重本町のどこにあるのか。すでに目星をつけているのだね?」

 あまりにも雪上の行動をピンポイントで当ててくるものだからどきりとする。心の底を見透かされるようなこう言った九曜の発言に舌を巻くばかり。

 ここには九曜と雪上しかないない。ちらりと一応辺りを見回し、大丈夫だろうと判断して口を開く。

「さっきも言いましたが、たまたまレコメンドされた動画だったのですが、何気なしに映像を見て、八重本町見たことのある景色だったので、興味をそそられたのです。何度か見たことのある場所だったので、マンションの場所はすぐにわかりました。実際、動画はモザイクで加工され、特定がされないようにしてはいたんですけど、ああ言う映像で、見れる人が見ればわかると言うか」

「それで? 実際そのマンションはどのあたりに?」

「動画では特定の地名は出していませんが、八重本町の駅前の通りから一本逸れた道筋沿いにあるマンションだと」

「なるほど。それで実際にさっき話していた監獄や処刑場があった事を調べたけれど、八重本町に処刑場があった記述は見当たらなかったと」

「そうです。さっきも言いましたが監獄があった事はわかったのですが」

「監獄ねえ、うーん。そう言った施設があったのであれば、近くに処刑場があったとしてもまあ不思議ではないかもしれないが」

 九曜はそう言って腕を組んだ。

「雪上くんはやけに処刑場にこだわっている気もするが、何かほかに理由が?」

 そうなのかと、雪上は自分でも気が付かなかった。

「いえ、別にそんなことはないですが、なんとなくですね。その“処刑場”と言う言葉に非常に”陰”の雰囲気を感じたというか。生きようと思っていた人が急に死を決めるとしたなら、逆にそういった人の力では及ばない何かがあったのかとも思ったりしまして」

 九曜は更にうーんと何度か唸った。

 少しだけ、それは気にしてみないと気づかない程度の違和感。精神を病んでいるからと言ってみんながみんな自殺をする訳でもないだろうし。

「なんとなく気になって、ひっかかりを感じた」

「そうです。もしかしたら、第六感がすぐれている方で、感じやすい体質とかで、その土地に住む何かに影響を受けたとか。そんな可能性はあるかなって思ったぐらいですけど」

 雪上はそう言葉を濁した。非現実的な考えだと分かっていたが言葉にするの尚更そう思う。だけど、あの絵を見ると――。

 部屋から出て行った月澄と古藤が二人がかりで、一枚の絵画を抱えて帰って来た。

 九曜は、「大丈夫ですか」そう言って手を差し伸べようと立ち上がるも二人は大丈夫と言って、ゆっくりと、机の上に絵を置いた。

 縦二メートル、横は一メートルちょっとぐらいの大きさだろうか。丁寧に梱包されている。するするとそれをほどくと一枚の絵が現れた。

「未完成?」

「富本司氏の絵ですか?」

 色などはまだ途中でどう見ても描きかけのものだ。

 女性が真っ逆さまに落下する様子が描かれており、その絵の持つ雰囲気から富本司が描いたものだ思ったが、彼らしくない。それが絵を見て最初に思った感想だった。

「これは、一体?」

「お二人が仰る通り、富本司の絵です。彼の遺作とでも言いましょうか」

 月澄はきっぱりとそう言ったが、その言葉に真っ先に雪上は、

「でも、展示室で彼の遺作とされた絵が展示されていましたが?」

 二人はきつねにつままれた様に顔を見合わせる。

「実はお二人を見込んで、お見せしているのですけれど、彼が亡くなった時、アトリエには二つの絵が残されていたのです。一つは、展示室に飾った絵。それともう一つがこの絵なのです」

「二つあったのですか?」

「ええ。ただ、こちらの絵については彼のお母様が公にはせず、彼の死後も手元に残しておきたいと仰られて。私はこの絵に彼が自殺を図った理由が隠されているのではないかと思っているのです」

 天から真っ逆さまに女性が落ちて行く、画の右上にはその彼女を突き落と思われる手がだけがにょきりと描かれている。ごつごつとしたその感じから男性のものかと雪上は思った。

 それから不思議なのは、女性の周囲を取り囲む様に緑の葉が描かれる。なんの植物だろう――もしや芹? 葉の形がその特徴を捉えていた。何より雪上は昨夜の夕食で芹おおひたしを食べたばかりだったからよくわかった。でも、なぜこんなに芹を描いたのか、その理由は全くもってわからない。

「富本司氏のお母様は現在もご存命なのですか?」

 九曜の言葉に月澄は力なく首を振る。

「それが、亡くなってしまって――それまではこの絵もお母様が所有していらっしゃったのですけれど。『自分が亡くなった時には、美術館に寄贈する。でも表には出さないで欲しい』と遺言を残されて」

 月澄のその話からやはり、富本家とは生前面識がある、割と近しい間柄だったのだと強く感じた。でも、それはまだ雪上の直感でしかないけれど。

「絵を公にしないことに、何か理由があったのでしょうか?」

「それについては何も。詳しくはわかりません」

 途方に暮れた様に、月澄は首を傾げる。

「なるほど――私は絵画については全く素人ですが、この作品に関して言うと、”富本司”らしからぬ印象がありますね」

「僕もそう思いました」

 雪上は九曜の意見に同意する。

 他の作品の印象と違うために、母親は表に出さない様にしたのか。いや、そんなことはないだろう。作風が変わることはあることだろうし。そうなると、別の理由があるのか。

「確かにそうです。私も、この作品を初めて見た時は彼らしくない作品だなと思ました。本当に富本司が描いた絵なのか? そう疑問を抱いたのも事実です。ですが、このキャンバスの隅に彼のサインが入っていて、彼の絵で間違いありません」

 洋子が指したあたりに、確かに展示されていた絵画に入っていたのを同じ筆跡で、富本司の名前が入っている。

「なるほど。でも、例えば、絵は全く第三者のもので作品のサインだけを富本司氏が書き加えた可能性はあるでしょうか?」

 九曜は絵に近づき、隅々までよく目を凝らして見た。

「その可能性は低いでしょうね。そもそもそんなことを彼がする理由が思いつきませんし。それに、我々の調査からもこの絵は本人の絵だと断定しております。なによりお母様が本人が描いたものだとお認めになっておりますから。今まで公にせずお母様の近くに手元に置いていた訳です。ご自身の息子さんではなく第三者が描いたものだとするならば、お母様がわざわざ大切に持っているはずもないでしょうし」

「まあ。でも、あと疑問なのは、なぜ、描きかけの絵にサインをしたのでしょうか。私はそれほど詳しくはないのですが、サインと言うのは完成した絵に入れるものなのではないのでしょうか? もしくは、この作品はこれで完成なのでしょうか?」

 九曜の鋭い質問に、困った表情で月澄は首を横に振る。

「わかりません。なぜ、富本司が急にもともとの幻想的な画風を打ち破って、これほど人物がリアルに描写された作品を描いたのか。塗りかけの色彩になにが意味はあるのか、今となってはもう」

「なぜこの作品を見せて下さったのです?」

 月澄は視線を彷徨わせ、古藤と目を合わせると、二人は頷きあった。

「お二人が古藤さんからとても信頼できる、頭の良い方々だと伺いまして。私自身、実は彼の死やこの残された作品についてわだかまりと言いますか、疑問を感じているのです。私なりに色々調べてはみたのですが、一向に解決の兆しは見えない状況で。一人の力では解決するのは難しいと思い、皆さまのご意見を伺えればと思ったのです。お二人の専門は民族学とも古藤さんから伺いました。専門とは異なる部分があるのは重々承知ではあるのですけれど。もし、彼の作品を見て何かを感じて下さったとしたのなら」

 申し訳なさそうに月澄はそう言うが、その話は雪上にとっては願ってもいないことだった。雪上が口を開くよりも先に九曜の方が先に話を始める。

「調べると言うのは一体どういった? ちなみに、月澄さんが抱く疑問と言うのは具体的にどんなことなのでしょうか?」

 月澄は逡巡した後に硬い表情を見せる。

「何か言いにくいことがあるのでしょうか?」

 雪上は思わずそう聞いた。月澄はこわばった表情をといて、ふうと息を吐いた。

「いえ。お話しないというのはやはりよくないと思うので、お二人を信じてお話させていただくのですが。――実は、生前、富本司のお母様は個人的に色々と親交がありまして。司くん、彼自身のこともかねてから色々と聞いておりました」

 やはりと雪上は頷き、

「では、実際に富本司氏、ご本人に会われたこともあるのですか?」

 九曜を押しのけてたずねる。

「幼い頃から、ほんの数えるくらいだけれど。私も司君と同じ年齢の息子がいて、一緒に遊ばせたりしていたのです。でも、会う約束はしていても、司君はあんまり体が丈夫なタイプではなかったから、体調が良くなくて寝込んでしまい、約束が反故になってしまったこともありました。もちろんそれは仕方のないことだけれど。司君は蒼白い顔をした、人見知りの少年だったのを今でも覚えています。とても繊細で、私が話かけてもすぐにお母様の後ろに隠れてしまう様な。でも自分の中に光るものをもっていて、それを作品として昇華していたのでしょう」

 そう言えば、展示された作品の中に彼の自画像があったことをふと思い出す。他の作品の印象が強かったので、展示室で見た時は、そのまま素通りしてしまったが。不思議そうな表情で鑑賞者を覗き込む、ぼんやりとした瞳。

 その目が印象的だった。

 傷ついた様に、それでいてどこかこちらを興味深くみる若い男の表情。

「何点か彼の展示されている作品を見ましたが、他者の人物像をこれほど明確に書いている作品はとても珍しいですね。自画像があったのを覚えていますが、それ以外の作品はどこか空想じみていて、人らしい人物が描かれているものもありましたが、写実的とは違いましたし」

 九曜は簡単に改めて作品の感想を述べた。その言葉に謎の糸口がありそうな気がしたが、雪上にはそれがなんであるのかはまだわからない。

「それで――具体的に、疑問に思われることとはどういった?」

 九曜は話を促す。

「彼は、司君は先程も言った様に、昔から繊細な部分があって。お母様はこの子は他の子供とは違うと感じることが多々あった様です。でもそれを否定するのではなく、なるべく彼の個性として受け入れて、彼の良い部分を伸ばす様に努力をされていらっしゃいました。つまり、何がいいたいのかと申し上げますと、富本司の作品の一番の理解者はお母様であると私は常々思っておりました。そして、そのお母様は人見知りである司君と、彼の作品は社会との唯一の接点であると考えていらっしゃって、なるべく多くの人に作品を見ていただける様に尽力されていました。司君が亡くなった後もお母様がほとんどの作品を管理されていて――もちろん、個人所有となっている作品もありますので、それは除いての話です。お母様が亡くなられた後、ほとんどの作品はこの美術館に寄贈されました。もちろんそれはお母様が生前、社会と富本司を繋ぐものが絵だと、そういったご意向を示されていたからです。しかし、この作品だけは『世間様には出さない様に』と、何度も強く仰られて」

「その理由については何か?」

 月澄はゆるゆると首を横に振る。

「一度、聞いてみたことはありました。だけど、顔色を青くするばかりで何も教えては下さいませんでした。なにかこの作品を表に出したくない理由があるのか――それと司君の死についても」

「富本司氏の死について思う所が?」

 九曜の音は硬質で、するどいナイフの様だった。月澄はびくりと体を震わせたので、流石に思うところがあったのか、九曜はすみませんと慌てて謝った。

「いえ、ちょっと驚いただけですから。――その警察も、自殺だと断定したと言われたので間違いないはず。いえ、間違いないわ。ただ、彼の遺書はいくら探しても見当たらなかった。お母様もどこかに遺書があるものだと探していただけれど、見つからず。しばらく探していたけれど、ある時からピタりと探さなくなって」

「それはお母様がもしかして遺書を見つけたからなのではないでしょうか?」

 黙って話を聞いていた古藤がおもむろにそう聞いた。古藤は少し離れた所(と、言っても同じ部屋の中)にある椅子に座っている。

「私もそうだと思ったのだけど。聞いてみると、見つかってないと仰って。ただ、そのころから体調があまりおもわしくないみたいでしたので、それ以上は流石に聞けなかったの。ただ、それからなんとなくこの絵が彼の遺書でもあったのではないかと、ふとそ思ったの。確信は何もないけれど」

  九曜は言葉を咀嚼するように何度か頷く。

  雪上はその話を聞いて、背中のあたりばぞわりとざわついた。

「ご子息の死について当時、お母様はなにか?」

「非常に気落ちしておりました。それは当たり前ですが。でも気丈な方なので、葬儀の時もしゃんとしていて。私の息子の方がどうしようもないくらいがっくりと落ち込んでいました。あの子も、司君と昔から交流があって、仲良くさせてもらっていたから色々と思う部分があったのだと思いました。ごめんなさい。ちょっと話がそれてしまったけれど、ともかく彼が自殺してしまったのどうしようもないことだったのかもしれません。でも、今でも何かが心の中で引っかかっていて。遺書が見つからなかったことについてもお母様も昔は色々と仰っていましたし」

「どんな事を?」

「つまり、司君は精神的にもろい部分があったので、お母様もいつかは彼が自殺を考える時があるのではないかと覚悟していた部分もあったみたいでした。だけど何も言わずに逝ってしまうのは、さすがいに辛いとぽつり言葉にされていました。そんな時は、少しでも気持ちがやわらげばいいと。そう思って、よく話し相手になって話を聞く様にしていたのですが、いつからかその話も口にしなくなって、近年世界的なウイルスの蔓延で会わない期間があって………………亡くなられました」

「富本司氏のお母様はどうして亡くなられたのですか?」

「マンションから飛び降り自殺を」

 九曜と雪上はどう答えていいのか言葉につまる。洋子の表情が暗くし、一呼吸置いて話を続ける。

「自殺を図ったのは、ご子息が亡くなられたのと同じマンションからでした。揃えられた靴と共に、しっかりとした筆跡で書かれた遺書がありました」

「まさか」

 悲鳴の様な音が漏れる。雪上は、自分が見たあの動画の映像が眼前にちらつく。

「もし、差し支えなければ、遺書にはなんと?」

 九曜はそう聞いた。雪上なら、そんな心象を抉るような質問はできない。だが、九曜の言葉の節には、相手をいたわる気持ちも感じられた。多分、雪上にはそんな言い方はできないだろう。

 洋子は顔色をなくしながらも、

「もう疲れたと。そんなことを」

「……亡くなる直前、自殺を図りそうな兆候は見られなかったのですか?」

「わかりません。社会的にもなかなか会う機会がままならなかったのですが、気づいていたらもちろん。その時の私が出来る限りのことをしていたと思います。それに、最後に連絡をした時は割と明るい印象で……亡くなった司君のことについて“息子にも誰かを守ってあげたいとそう思うことができたのだと”とか、そんなことを言ってた。何についてそう仰っていたのか疑問に思ったのですが、私はその時、ちょっと時間がなかったこともあって、頷いて話を流してしまったのだけど」

「もしかして、赤い文字をみた、なんてことは……」

 雪上は何も考えずにそう口走ったが、後の三人はぽかんとした表情で雪上を見るので、やってしまったとばかりに「なんでもないです」と言った。

「亡くなられたのはいつ頃です? 富本氏が住まわれていたマンションには現在、別の方が住まわれているのですか?」

 九曜がそう言って話を切り替える。

「マンションの部屋は、司君が生前アトリエ兼住居として使用していたのを片付けや整理をしながらお母様が引き継がれて、そのお母様が亡くなった時の遺書に、アトリエや彼の作品の事について意向についてかかれていました。マンションはもし出来ることなら、私にその後の管理を任せたいとあったからその通りにしました。……亡くなったのは一年ほど前のことです」

 洋子はそういって口をつぐんだ。四人の間に横たわる重苦しい沈黙を破ったのは神妙は表情を浮かべる古藤だった。

「私も彼とは満更でもない縁があってね。実は、富本司君は学生のころ、うちで面倒をみていたんだ」

 ぼそりとそう呟くのだが、九曜と雪上は一斉に古藤を見た。ちらり、洋子を横目に盗み見ると彼女は驚いた様子もなくどこか一点を見つめている。そのことはもともと知っていたのだろう。

「じゃあ、古藤さんのあのお屋敷の一室に住まわれていらっしゃったのですか?」

 九曜はそこまでの偶然は流石に予想していなかったのか、若干声が上ずっている。

「そう、母子家庭のお家で、美大通うのに学費と生活費をまかなうことは難しいと。本人の並々ならぬ意欲もあったのでね、迎え入れたの」

「じゃあ、古藤さんも富本司氏と彼のお母様に面識があるんですね?」

 古藤はその時のことを思い出しているかの様に目を細めた。

「うちで面倒をみるにあたって、面談をしているからね。私としてもやっぱり誰でもかれでも受け入れるって訳にはいかないから。――お母様に連れられて来た司君をみて、蒼白いひょろりとした頼りない青年だと思ったのが最初の印象。正直、母子家庭を理由に相談に来る人は非常に多いんだ。でも、ただ援助を受けたいだけなのか、本当に美術をやりたいのか。私は百パーセントではないかもしれなが、そこを見極めて受け入れをしてきた。最初の印象では前者だと思った。司君の様子から、覇気が全く感じられなかったからね。でもまあ、どんな絵を描いているのかと見せてもらって、それで考えは一変した。ああ、この子は絵を描くためだけに生まれて来た子だんだって。私をそう直感させるくらい、その絵から凄みを感じた。その時、申し訳ないと思ったんだけど、本当に息子さんが描いたのですかと、聞いてしまったくらい」

 古藤の話から、その当時の情景が思い起こされる。富本司は見た目、本当にどこにでもいる様なごく普通の青年で、彼のどのに身を切る悲痛な叫びを表現した絵を描く力があるのかと思われた。古藤はそう感じたのだろう。

「そうですね。実は私も。今でも彼のどこにそんな力があったのかと、不思議に思ったことが何度もありました」

 月澄は懐かしむ様に頷く。

「古藤さんはそれで、彼の作品を見て援助することを決めたのですね」

 九曜の言葉に頷く。

「彼は学生時代は、どんな様子でした? その彼の残した最後の絵に例えば、彼が死を選んだ意味が隠されているとしたなら、その謎を解き明かすには富本司と言う画家が一体どんな人物だったのか、それを知る必要があると思うのです」

 もし可能であれば彼の親しかった友人も紹介してほしいと九曜は付け足すと、月澄は何か言おうをしたが、それは言葉にならない様子で返答を得ることはできなかった。

 しんと静まり返ったが、九曜はそれに気が付かなかったとでもいう様子で話を続ける。

「今、現時点で気になるのは、普段人物画を描かない富本司氏がどうして、女性の絵を描こうと思ったのか。しかもあの構図で。また、彼のお母様はどうしてこの絵だけを保管して、他者の目からも遠ざけたのか。この二点かと」

 九曜がまとめた要点に古藤と月澄も顔を見合わせて頷く。

「富本司氏のお母様がどうして自殺されたのか、その理由はいいのですか?」

 不意に雪上がそう言うと、三人の視線が集まった。

「雪上君は富本氏の母親の自殺について、この絵に関係があると、そう思っているのか?」

 九曜に改めてそう言われ、雪上は返す言葉が見つからず、口ごもる。

「いえ、そう言う訳ではないのですが……」

 その時に雪上の脳裏に浮かんでいたのはそのマンションになる土地がもともと処刑場があったところで、それで立て続けに人が亡くなっている。ならば、やはりその”いわく”と”死”は何か関連があるのではないかと感じたから。しかし、しっかりとした遺書があったと、洋子が話していた訳で。

 雪上は九曜の無言で、話を促すような圧力を感じながらも、そんな雪上の考えを簡単には口に出せない空気感を感じたので、仕方なく

「そのマンションですが、八重本町の駅の近くのマンションですよね?」

 と、話を逸らす。

「ええ……でもなぜ?」

 戸惑いながらも洋子は頷く。どうして、雪上がその場所を知っているのかと聞きたげな気持ちを抱いているのは充分に感じられた。

「僕も、その富本司さんの事は全く知らない状況ですが、雪上くんがWEBでちょっと、そういった情報を見たと話していて。そのマンションのある辺りには、昔処刑場があって、”赤い文字”を見ると亡くなる人があるとか」

 なんとなくぼやかして言ったつもりだったのだが、

「それは一体誰が?」

 雪上の話に覆いかぶさる様に、洋子は声を大きくしてそう言った。一瞬しんと沈黙が流れる。

「誰かはわかりません。僕はその情報をある動画サイトで見ただけなので」

 それは事実だった。そう言うと、洋子は冷静さを取り戻し、

「ごめんなさい。急に大声を出してしまって。ただ、私は………………何もなければそれでいいのです。この絵だって、単純にお母様が、一番気に入って手元に持って置きたかった。それでご自身の元で大切に保管していた。それならそれで、いいのです」

 朗らかにそう言うが、それはそうであって欲しいという彼女の願いにも聞こえた。

「この女性。描かれている女性なんですけれど、モデルは富本司氏のお母様なんでしょうか?」

 雪上は気持ちを切り替えて、思っていた疑問を聞いた。ただそうは聞いたものの、雪上が見た印象では、描かれた女性は母親と言うよりはもっと若い、恐らく当時の富本司よりも年下の女性に見える。

「恐らく違うと思うのですが、私も誰かは検討がつかなくって」

「恋人や、意中の女性がいたのでしょうか。月澄さんは全くこの女性には心辺りはないですか?」

 九曜はそう聞いた。それは誰もが抱く、自然な疑問だ。ただ、富本司のイメージと彼が遺した作品からは、女性の影はあまり見当たらない。逆に女性があったのだろうかと失礼ながらにそんな疑問が湧く。でも洋子の話に出てきた彼の母親の話からはそんな女性があったと言うニュアンスも感じられた。

「流石に司君の女性関係については」

 洋子の言葉に同意するように古藤も首を傾げる。

「女性の友人とか、彼の交友関係はどうですか?」

「そうね」

「彼はどちらかというと一人でいるのを好むタイプだったから」

 頷きながら古藤が口を開く。

「仲の良い友人と言うのもごく少数だったと思う。引っ込み思案と言うか口下手なところがあったね。異性に対しては殊更。まあ、心根は優しくて、純粋で繊細だった。悪い子ではなかったと思うんだけどね」

 洋子も同じ様に、女性の話は聞いたことがないと答えた。ただ、そう言いながらも彼女は、はっと何かを思い出したのか苦い表情を見せる。なにか思い当たることがあるのかと聞きたかったが九曜が、

「そうですか」

 と、相槌を打って納得してしまったので、それ以上は聞けなかった。仕方がないと雪上はため息を吐く。

「では、謎がもう一つ増えた訳ですね。ここに描かれた女性はだれなのか」

 確かにと九曜の言葉に雪上は頷いた。

「ちなみに富本氏が住まわれていたマンションのお部屋は見せてもらったりするのは可能でしょうか?」

「見られなくはないと思います。ちょっと聞いてみないとわかりませんが。実は――司君がアトリエ兼住居として、住み始めたころ、まだ彼は画家として駆け出しで、名前も売れていませんでしたから。うちの息子と一緒に部屋をシェアして住んでいたんです。それで、実はその部屋は今はうちの息子がその部屋を継続して持っています。もちろん私も司君のお母様の意向を汲んで管理のために時折行くことはありますが……後ほど、確認して見ますね」

 なにか複雑な事情を感じて、雪上はそれ以上は聞き返さなかった。洋子はそう言いながらもやはり何かを思い出した、もしくは感じ取った何かがある様子だったがそれについては言葉にせず、黙っていた。

 富本司と言う画家が最後の残した絵。

 なんとなくこの描かれた女性を見つけることが出来るれば、この絵に隠された、もしくは彼の死に対する謎を解き明かしてくれるのではとそう感じながら、雪上は気持ちを切り替え、絵に向き合った。

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