消えない残像。分からない僕は。

神崎郁

消えない残像。分からない僕は。

 一年の文化祭の後。夕陽に染まった教室。


 僕は文化祭でのクラス展示の後片付けを任されている。もう一人担当の女子はいたのだけど、どうやら体調が悪いらしく、休みなので僕一人だけだ。


 薄く汚れた窓に乱反射した、まるでやる気の無さそうな、ぼんやりとした夕陽が嫌でも目に入る。やはり、気分は晴れない。


 夏の暑さがまだ残る中、薄く汗をかきながら憂鬱な気分で作業をしていると、近くに同学年の女子が居ることに気が付いた。


 彼女は全体的に落ち着いた風な印象を受ける容姿だった。黒く輝くショートヘアと、丈の長いスカートは地味な印象を受けるが、その視線は、眼は何処までも透き通っている。


「え?」

「どうも。一人でやってるの?」


 凛と透き通った声だった。声量は小さいのに、耳にすとんと落ちてくるような心地の良い声。


「そう。真面目だからね、僕。君はどうしてこんな時間に?」

「私の所は今さっき終わったから。ほっとけないしちょっと手伝ってもいい?」


 驚いた。こういう女子は、積極的に男子と関わらないと思っていたのだが。


「もちろん......ありがとう」


 彼女は有無を言わさぬと言った勢いで、作業を始めた。


 お互い無言で作業し、彼女はもの一つ言わず、流れるように作業を進めてゆくので、直ぐに全部片付いた。


「改めてありがとう。手伝ってくれて」

「全然大丈夫? でもどうして一人だったの?」

「あーもう一人いたんだけど風邪で休みらしくて」

「そう。なら仕方ないか」

「だろ?」


 物静かな人だなと思った。だけど、何処か確固とした強かさも感じられる。


 今思えば、この時から彼女のそんな所に僕は興味を持ったのかも知れない。


「でも、君は理不尽だとか思わないんだね」

「そうだけど、誰かがやらないとだし。すごく当たり前のことだと思うけどな」

「そうかもしれないけど......何だろうな、君は嫌な顔ひとつせずに黙々とやってたよね? そういうの、いいと思う」


 そう言われて、僕は救われた気分になった。あと女子に見られていたことに喜びを覚えたのかも。少し単純過ぎやしないか。


「あ、ありがとう」


 それもあってか、上擦った声が出てしまった。


「じゃあ、またね」


 またね。彼女はそう言った。また話してもいいのだろうか。真意は分からないけど、素直に受け取ることにする。


 当たって砕けろ......とよく言うし。


===


 それからは、トントン拍子で僕らの距離は近づいていく。


 あれからそう経たずして、互いに挨拶を交わし、偶に話す位の仲になった。


 彼女は冷静沈着といった感じの印象とは裏腹によく喋る。


 その内容は他愛のない日常のことは勿論、彼女が信じているもの、譲れないもの、色々なことを話した。


 僕はその中で、彼女を僕には手が届かない気高い人間だと思うと同時に、僕と何ら変わらない普通の高校生なのだと気付く。


 だけど、僕らは少しだけ違った。それを理解しても何も出来ないのが僕の愚かさだった。


 彼女と出会って三ヶ月くらいだろうか。お互いに齟齬を察し始めたのは。


 放課後に偶然鉢合わせた時だ。


「そういえば、去年の文化祭、君はどうだった? 私はただただ忙しかった記憶しかないんだけど」

「んーどちらかと言えば、まぁ楽しくはあったかな」

「なんか意外」

「僕が血も涙もないような人間だって言いたいの?」

「いや、なんというか、本質的に孤独? というか」

「ん?」

「一言で言えば人を信用してなさそう」

「あ......確かにそうかもしれない」


 これは図星で、僕は人と関わることが怖くて苦痛だった。


 友達がいないわけじゃない、話せない訳じゃない。でも何をしたって楽しくない。ただ、行き場の無い空っぽだけがどんどん蓄積されていく。


 自らを少しづつ摘んで捨ててゆくように、大切な物が削り取られていく感覚がある。


 時々考える。自分を殺し続けた延長に何があるのだろうか、果たしてそれは本当に自分なのだろうか、と。


 結局何も分からないまま、徒労に終わる。


「よく見てるな」

「分かるよ。そのくらい」


 そう言って、彼女は柔らかな微笑みをこちらに向ける。初めて見る彼女の表情だった。


「なぁ、これからどうしたい?」


 気づけば、反射的に口が開いていた。


「どうって?」

「進路とか」

「分からないなぁ......文系に進みたいって思いは何となくあるけど」

「君でも、そうなのか。ついそういうのはしっかり決めてるのかと」

「君が思うほどしっかりした人間じゃないからね。で、君は? 聞いてきたからには答えて?」

「僕も決めてない。けど、何処に行くにしても、僕はこの時間を覚えてたいと思う」


 言ってから気づく。本当何言ってんだ僕は。


「それ、どういう意味かわかってるよね?」

「......」

「分かった。私も色々考えとく。こういう時間は好きだし」

「耳赤いよ」

「......うるさい」


 彼女は抗議するような目線を向ける。なまじ美人なのでこういう表情は様になる。


「ありがとう。僕も考えるよ。これからのことも」


 嘘だ。


「うん。またね」


 そんな風に言葉を交わし、いつもの様に解散する。


 冬だと言うのに陽はまだ高く、僕を会話の余韻に浸らせてはくれないようだった。


===


「ねえ、君は彼女とかつくらないの?」


  二年の夏。


「僕? どうだろ。よく分からないな」


 そう。よく分からない、怖い。だから逃げている。


「はっきり言って」

「だから、分からないんだよ」


 いつもそうだ。楽な方に逃げて大切なものを取りこぼして。何も残らない。


 なのに、ずっと分からない。どうすればいいのか。


 僕は君のことが本当に好きなのか。君は僕のことが本当に好きなのか。分からない。分からないことはどうしようもなく――怖い。


「まぁ君に相手なんて出来るわけないから仕方ないか」

「うるさいな」

「でも欲しいんでしょ? 見てたらわかる」

「そうですか。さすがの観察眼だ」


 口をついて出た軽口で不明瞭を誤魔化した。いつだって言い訳ばかりだ。分かってるのに曖昧で半端なまま、時間だけが過ぎていく。


 そして曖昧なままの関係はあっさりと飛散する。当然の報いだろう。


===


 冬の残滓を少しだけ残して三月はやってくる。


 卒業式のリハーサルが終わりを迎えた。


 僕はと言えば、結局、近くのそこそこの文系大学に指定校推薦で進学することになった。


 彼女は――東京の美大に進学するようだ。


 どうして他人のような言い方なのかと言うと、そのまま、今となっては他人に過ぎないからだ。


 彼女は絵を描くことが好きだった。前に彼女の部屋に行った時、沢山の水彩画が部屋に飾ってあったことを憶えている。


 とても綺麗な絵だった。緑の質感や、流麗な川のせせらぎや、柔らかな陽光の差し込み。生物の躍動感。まるで、そこにあるかのような現実感があって、けれど現実よりもずっと美しい。灰色の現実に鮮やかな彼女の世界を織りまぜた、そんな絵だった。


 けど、美大受験は過酷なようで、2年の2学期頃から彼女は受験で忙しくなり僕らの関係はなくなっていった。


 いや、それも言い訳か。僕は何も知らないまま、彼女を理解しようともしなかった。


 だから僕らの関係は次第に崩れていった。まるで砂に埋もれた文明のように。


 自業自得だ。逃げ続けた結果でしかない。だから仕方がない......と簡単に割り切ることも出来なかった。忘れられないのだ。


 恋は要するに病気、いつかの君がそう言っていたことをふと思い出す。


 なるほど、確かにそうかもしれない。僕は過去に取り残された病人だ。


 忘れたいのに忘れられない。中途半端なのに振り払えない。


 もう二度と僕の前には現れない君の事を想う。馬鹿みたいだ。分からないのに、知らないのに。


 仕方ないで割り切れない自分が嫌いだ。


  そう思っていた刹那、目の前で足音がする。


「ねえ、君って城宮くんだよね?」


 少女だ。全体的に落ち着いた風な印象を受ける容姿。黒く輝くなショートヘアと丈の長いスカート。地味な印象を受けるが、その視線は、眼は何処までも透き通っている。


 紛れもなく、彼女だった。


「どうして......」


 彼女は珍しくにやりと笑う。久々に見る彼女の笑みだった。


「ちょっと連れて行きたいところがあってね」


===


 桜並木の下だった。まだ満開とはいかないけど十二分に綺麗だ。


 真昼の陽に当てられた桜は静かに燃えているようで、七部咲きなりに僕の心を奪わんとしている。


「どうしたんだよ? 急にこんな所に」

「今から絵を描く。桜の絵を」

「? なんで僕なんかと」

「さぁ? でも今からする全部のことには意味があると私は思うよ。そう、信じてる」


 彼女はそう言っておもむろに鉛筆を取り出すと、ものの十分程度で満開の桜を真っ白な紙に具現化して見せた。


 モノクロで描かれたその憧憬は、僕の目には目の前にあるそれらよりずっと色鮮やかに映る。


「あげる。多分これにも意味がある」

「だから何だよ意味意味って」

「はぁ......分かってて言ってるよね。馬鹿」

「......」


 何も言えなかった。何か言おうにも、言葉は喉元をつっかえて何も出てこない。呼吸すらもままならないほどに。


 ただ、彼女が描いた桜を見ていた。僕は満開の桜を独りで観るのだろう。そして感傷に浸る僕を見て、彼女は笑うだろうか。それとも――


「まぁ、そうだね。仕方ないか」


 彼女は弱々しく吐息を漏らし、僕に背を向ける。


「じゃあ、お幸せに」


 だけど、その声は言葉を失ってしまうくらいの哀しみと憂いを帯びているように感じた。彼女の声を奪いたくないと思った。


 この桜が美しいように、彼女の心を美しいもので染め上げてやりたいと思った。


 お幸せに、そう彼女は言った。きっと僕には無理だ。


 理屈じゃない。無理なのだ。忘れられるわけが無い。どうしようもない。病だ。


 なら――どうすればいいか。頭ではわかってる。


 ここで逃げ出したら、今手元にある想い出だけが残るのだろうか。


 いつか、それを僕は綺麗だと、よかったと思えるのだろうか。


 無理だ。


 気づけば駆け出していた。多分、この行動にはきっと意味がある。僕の無意識はこれを選択した。なら、今だけはそうなんだと信じてみる。


 僕は僕の為に僕を信じる。


「あの」

「何?」


 彼女の眼は僅かに涙に濡れていた。


「いや、僕から何も言えなかったなと」

「言わなくていいよ。何で、どうして忘れさせてくれないの? どうして......! 今の私は、こんなの忘れたいのに。」


 心の奥底から絞り出した様な声だった。そうだ分かってる。全部。


 非合理なこの感情を投げ出したくて、逃げ続けたけどもう限界だった。だけど、真実では無いとしても、分からないとしても、どうしようもなく――


「好きだ。僕は君がずっと前から」


 一瞬の沈黙が降りる。


「遅いよ。やっぱり、忘れさせてくれないんだね。君は」

「ごめん」

「謝らないで。何か言ってよ」

「じゃあ、僕は忘れさせてやらない、かな」

「いいねそれ。言質とらせてもらうから」


 そうやっていつもの様に笑いあった。いつぶりの『いつも』かも忘れて。


===


「はぁ〜眠」


 正午にもなって起きる。暇だの人生のモラトリアムだの言われてるけど思ったより大学生は大変だ。


 まぁ今日の午前は講義がないので仕方がない事だ。いやまぁ午前に講義があろうとなかろうと昼夜逆転するからアレだけど。


 彼女とは遠距離恋愛という形になっている。けど多分何とかなる。珍しくそんな楽観的な考えを抱くくらいには僕も変わった。


 多分、お互いに楽観的な人間じゃないんだけど。


 恋は人を変えるのかもしれないなと思う。未だに何も分からない。けど僕はこれからも分からないなりに苦悩していくのだろう。


 カーテンを開けると正午の日差しが僕に降り注いだ。


 眩しい。けど、今は不思議と太陽を遠いとは感じなかった。


 今日も頑張ろう。ただ純粋にそう思った。


 月並みで陳腐な言葉だ。だけど、それでもいい。言葉にできない心を、言葉にする事で漸く意味が生まれるのだと、今は思えるから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

消えない残像。分からない僕は。 神崎郁 @ikuikuxy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ