白夜

@Aki0929

白夜


 ここはどこだろう。

 目を覚ますと知らない無機質な天井がそこにあった。

 重い体をゆっくりと起こし、辺りを見渡す。真っ白なベッド。真っ白な壁。

 透明な匂いが立ち込める静かな病室。

 何があったのか、確かには思い出せないけれど、横に眠る母を見て、心配をかけてしまったと思う。

 私は何をしていたんだっけ。ぼんやりとした記憶を探る中で、ふと、私の頬に雫が伝うのを感じた。なんだか悲しくて優しい夢を見たような気がする。

 病室のカーテンが靡いて、生温い風が入ってくる。

 私を照らす光が、なんだか懐かしく感じた。



 私には思うことがある。

 いくらなんでも、やっていいことと悪いことがある。

 一つ、トマトでジュースなんか作ること。

 一つ、悪いことをしてごめんなさいを言わないこと。

 そしてまた一つ、

「起きろこの野郎!」

 寝ている人の頭を蹴ることだ。

「ったた……。何するんですか……」

 衝撃で目を開くと、制服を着たマネキンが目の前にしゃがんでいた。セーラー服に紺色のスカート。女子高生なのだろうか。

 マネキンが、動いてる……? いやまあそんなこともあるか。

「おっはよーさん」

 ひらひらと手を振ってこちらを見ている彼女は、のっぺらぼうなのになんだか笑っているように見える。

 部屋は薄暗く、窓から差す橙の光が部屋の唯一の灯りだった。起き上がって地面についた手から、冷たい石の感覚が伝わる。

「お嬢さん、あんたの名前は?ここがどこかわかるかい?」

「私の名前は……私の、名前……ここは……」

「そうかそうか。安心しなよ、みんなそんなもんだから」

「そんなもん……?」

「ああ。ここに来たやつなんてみんな自分のことも周りのことも何もわからない。もちろん、あたしも」

 刹那、心臓の動きが遅くなった。私は一体誰で、ここは一体どこなのか。頭の中には何かあるのに、もやがかかって見えない。

「ねえマネキンさん、ここから出るにはどうしたらいいんですか?」

「よくぞ聞いてくれた! 答えは簡単……」

 指を鳴らすような動きをしても、マネキンの指では音はならなかった。というかどこから喋っているのだろう。

「あたしもわからん!」

「え、ええ……」

 焦らしておいてそれはないだろう……。

「いやー、あたしもここがずっと同じ空だから時間がわからないが、それなりにいる。でも外に出る方法がわからないんだよ」

「他に人は?」

 見ると壊れたマネキンの関節の一部やガラクタがあちこちに転がっている。ここには出口も何もなくて、上に向かう階段だけが見える。

「あたしも何人か見たことはあるけど、構ってくれなかったね。なんというか、自分が誰かわからなくても気にしない奴が多くてさ」

 みんな自分のことも、周りのこともどうでも良くなったマネキンになってるんだよ。

「ここは最下層? マネキンさんは上にも行ったことがあるんですか?」

「上も似たようなガラクタだらけだよ。一階のドアの鍵が閉まっててずっと一階から往復してる」

 これから先こんな薄暗いところで過ごすのを想像すると、なんだか寂しくて嫌だった。そもそも生活なんてできそうにもないが。

「というかあたしをマネキンさんとか言うが、お前もマネキンさんだぞ」

 はっとして自分の手を見る。球体関節の手が閉じたり開いたりする。触ると顔も軽い凹凸があるくらいで、何もわからない。

 マネキンの体じゃ、こんな床で寝ても痛くないのも当然だ。きっと生活も困らないのだろう。

「これ、どうしたら治るんですか?」

「わからない。あ、でもあたしの名前は裕奈だよ、田辺裕奈」

「裕奈さん、それはどうやってわかったんですか?」

「んー、あれだよあれ、ひゅーって頭に流れてきた」

 わからない……。なかなか変わった人だな……。この人と話すと調子が狂う。けれどなんだか悪くないなと、少しだけ思った。

「お嬢さんはここを出る気があるんだよな?」

「はい! 出たいです」

 ここで過ごして一生を終えるなんて嫌だ。早く帰って家族や友達に会いたい。多分いるはず。

「よし来た! あたしらで一緒にここの出口を探そうぜ!」

「わかりました! 行きましょう!」



 なんて意気込んで上に登るも、言われた通り三階のドアは鍵がかかっていて開かなかった。

 この塔は思ったより広く、部屋もいくつかあった。間取りがどうなっているのか想像つかないほど部屋の広さや形もまちまちだった。

 通りがかったマネキンに聞いてみても、別にここで過ごして不便なことはないしどうでもいい、と言った反応が多数で、中には、

「面倒なことに巻き込むなよ」

 とか言ってくるマネキンもいた。その中の誰も、自分がわからなくて、私と同じように服も着ていなくて、性別もよくわからなかった。

「裕奈さんはその服どこから持ってきたんですか?」

「気付いたら着てた」

 私もせめて裕奈さんみたいに何か少しでも自分のことが分かればいいのに。どうしたら分かるのだろう。

「痛っ」

 そう考えていた矢先に、棚の上からアルバムが落ちてきた。ちなみにマネキンの体じゃ痛くはなかった。

「取れた取れた。どうだ?」

 ランタンで照らして棚の上を探していた裕奈さんが上から声をかけてきた。

「あ、危ないのでやめてください……。これはなんですか?」

「ここにある物はしょっちゅう変わるから手当たり次第に触ってるんだよな。たまにそれで自分のことが思い出せるんだ」

 あてになるか分からないけれど、言われた通り見てみる価値はあるだろう。アルバムの埃を払い落として開いてみる。

 アルバムは、女の子のものだった。小学生だろうか。名札には朝倉莉子と書かれていた。

 上手く言えないが、なんだか私に馴染んでいて、この子が自分なのだと根拠のない確信を持っていた。

「……私の名前、莉子かもしれません」

「お、いつの間に制服着てるじゃん。女子高生だったのか」

 幼稚園の頃から、高校の入学式まで、家族や友達と過ごす私の写真がそこにあった。

 優しそう母と真面目そうな父がいて、元気な笑顔の友達と手を繋いで遠足に行く写真もあった。最後の写真が修学旅行だからきっと高校二年生なのだろう。

 覚えていないのに覚えていて、確かに私が生きていたことがわかった。

「んー、あたしにはそのアルバム真っ白にしか見えないな。そこに莉子がいるのか?」

「きっとそうです」

 こうしてアルバムを見ていると、確かに私がいたことさえもファンタズマゴリアに感じる。

「裕奈さん、多分なんですけど、きっとここにあるものを見つけていけば、自分がわかるんじゃないですか?」

「なるほど……な、なんてな! あたしもそれくらい分かってたよ。気付くのが遅いねえ莉子ちゃん」

 下手な誤魔化しをする裕奈さんに呆れつつ、私は続けて他のものを探すことにした。

「ここから飛び降りたらどうなるんだろうなー」

 窓から半身を乗り出して下を見る裕奈さん。今にも落ちそうになるのを引きずり戻す。

「危ないですよ! 下もよく見えませんし。うわっ」

 裕奈さんを掴んだまま二人で転倒する。

「びっくりした〜。どうしたんだ?」

「ごめんなさい、今何か踏んじゃって……」

 足元を見ると錆だらけの鍵が転がっていた。

「でかした莉子! これ絶対あそこの鍵だよ!」

「や、やった」

 ひょんなことで鍵を見つけて、無事に三階のドアを開けることができた。

 ドアを開けた先は薄暗くて、仄かな灯りは足元の階段しか見せてくれなかった。ランタンで照らして見ると、そこはとても長い螺旋階段のようだった。

「さっき上がる時も思いましたが、ここの階段って長くないですか?どれくらいの高さがあるんでしょう」

「それな〜、しかもこの微妙な幅が登りにくい。マネキンの体なら疲れないようにしてくれりゃいいのに」

 そんな愚痴を吐きながら階段を登っていく。偶に現れる窓から見える景色はいつも地平線近くにいる太陽だけで、時間なんてわからなかった。

 四階に着くと、そこは狭い書斎のような部屋で、誰もいなかった。窓がない代わりに蝋燭のウォールライトが部屋を明るくしていて、鼻を掠める紙の匂いが、本の古さを伝えていた。

「なんだろう、このノート……」

「ノート? んなもん見えないけど」

 書斎の真ん中の机の上には、部屋の雰囲気に合わない緑のB 5のキャンパスノートが置いてあった。

 しかし不思議なことにいくら試しても、裕奈さんにはノートは見えないようだった。

「見えないもんはしゃーない、あたしはあたしの手がかりを探してくるよ」

 そう言って裕奈さんは書斎の本を漁り始めた。

 私はノートを手にしてパラパラ捲ってみた。

 【六月二二日】

 今日は紗凪の課題を手伝った。「助けて莉子〜」なんて紗凪に言われると断りづらい……。私も役に立てるのは嬉しいし、もっと頑張らないと。


 【八月一五日】

 今日は休みの予定なのに急にバイトに呼び出されてしまった。いつもよりずっと忙しくて大変だったな。紗凪と遊ぶ予定も潰れたし、連絡しておこう。


 【一〇月六日】

 今日は生徒会が忙しかった。昼休みは書類の整理でご飯が食べられなかったし、放課後はクラスメイトに掃除当番を任されてしまった。断れるようになればいいのになあ。


 日記には紗凪と遊んだ楽しい思い出や、苦労した話、そして絵を描いて大変ながらも楽しそうにする様子が見られた。

 私は断れないタイプの人だったのだろう。なんともいつも大変そうな自分だった。

 もっと自分のしたいことも嫌なことも口にできていればよかったのに。

「おーい莉子〜」

 裕奈さんが手を振ってこちらにやってきた。もう片方の手には四つ葉のクローバーの栞を持っていた。

「それは、栞ですか?」

 名刺サイズ、が一番近いだろうか。栞の裏面には、田辺裕奈と手書きで書かれていた。ちょっと丸い形の癖字が印象的だった。

「ああ。……あたしの過去のこと、ちょっと思い出したんだ。……いや、そんなことはいい。なんか鍵になるかもだし持ってきたよ」

「なるほど……」

 裕奈さんの名前が書かれた栞を受け取り、日記を戻した。

「わっ!」

 すると突然、後ろの本棚が動き、ドアのようにスライドされて開いた。

 向こう側にはまた階段が見えた。今度は明るくて、美術館のように綺麗な螺旋階段に、壁には絵画が飾られていた。

「こんなことってあるんですね……」

「すげえなこれ、おもしれー!」

 わくわくしながら本棚を見る裕奈さんに溜息をついて、念の為ランタンを持って前に進む。階段を進んでいく私を裕奈さんが追ってくる。

「なんだかどの絵も綺麗ですごいな〜」

「そりゃそうですよ、みんな有名な画家ですよ?」

「よく覚えてるな〜、あたしも絵が好きだったのかな?」

 言われてみれば、最初に来た時より自分のことを思い出してきている気がする。絵を描くのが好きで、画家もきっと好きだったのだろう。

「ん? なんだあれ」

 裕奈さんが指差す方を見ると、表面を突き破って割られたキャンバスと、折れた筆が落ちていた。

 キャンバスがあったはずの場所には、ぐちゃぐちゃにされて読めない題名。朝倉莉子という作者名が書かれていた。

「莉子、自分の絵にこんなことしたのか?」

「いえ、覚えて、ないです。私、何かしたのかな」

 青空を映した水たまりの絵。きっと割られる前はもっと綺麗で優しい絵だったのだろう。

 折られた筆も、筆先はよく手入れされていて綺麗だった。絵を描くのが好きだった私が絵を描くのを諦めたのは何故だろうか。

 私は立ち止まってしばらくその絵を眺めていた。

「莉子ってそんな顔だったんだな」

「え?」

「顔がマネキンじゃなくなってる。他はまだだけどな」

 鏡がないので自分の顔は分からなかった。ただそれよりも、この絵を見て___

「……ま、いいか。あんたが自分を見つけられたならよかった。次行くぞ」

「は、はい」

 言葉にならない気持ちを飲み込んで、足早にそこから離れた。

「この部屋、一階とかのガラクタだらけの部屋に似ていますね」

 辺り一面、埃を被ったアンティークや動かないマネキンが転がっていた。違うことといえば、先程から他に誰もいないことだろう。

「あっ」

 裕奈さんの指のパーツが一つ取れて、地面に転がった。

「だ、大丈夫ですか!?」

「平気平気、よくあることだから」

 そういえば、裕奈さんは長くここにいるのに、制服以外に変化はない。

 この塔に来て少しずつ分かったことは、自分を見つけると、自分の姿がはっきりすることだ。裕奈さんは長い時間自分を見つけられていないのかな。そんなことは聞けず、また部屋の中を探し回った。

「……」

 窓から差す真っ直ぐな光の先に、埃まみれで少しヒビの入ったレコードを見つけた。

 近くの倒れていたマネキンの頭に乗っていたレースで埃を払うと、黒い表面が見えて、まだ使えそうな状態であることがわかる。

「裕奈さん。これ、何かありそうじゃないですか?」

「本当だ。確かさっきあの辺に蓄音機があったような……」

 裕奈さんの言う方に向かうと、まだ綺麗な蓄音機があった。

 古びたレコードを裕奈さんに渡して、蓄音機で再生してもらう。

 レコードは掠れた音を立てながら回転を始める。

『__今日学校で進路の話があったの』

 蓄音機からは聞き慣れた私の声が聞こえた。どこか弱々しい様子の私が続ける。

『お母さん、お父さん、私画家になりたい』

 思い切って口を開いたのが伝わるほど、弱いのに芯のある声だった。

『……画家、ね。確かに莉子は絵も上手だしいいと思うわ』

『それじゃあ……!』

『でも』

 母らしき声は少し声色を暗くして言う。

『絵なんてお金になるのかしら。今のご時世のことを考えると、もっと安定した職の方がいいんじゃない?』

『父さんの見ている生徒でも、公務員になるような子は賢いなと思うしな』

『そうね。莉子は頭もいいし、お母さんたちと同じように学校の先生になるのはどう?』

『莉子が先生になってくれたら父さんたちも嬉しいな』

 レコードの中の私は、しばらく黙って両親の話を聞いていた。両親は私には目もくれず、楽しそうに私の将来を語っていた。

『……うん、そうだね。みんなに喜んでもらえるなら、私、先生になりたいな』

 何も変わらないはずの私の声は、どこかおもく、暗く感じた。

 レコードは、談笑する両親の声で終わった。

「莉子……」

 裕奈さんは言葉を詰まらせて私の方を向いていた。

 この時の私は、あっさりと夢を否定され、無かったことにされ、何を感じたのだろう。

 くだらないと夢を捨てて、言われるがままの人形になったのが私なのだろうか。

 私は一つずつ過去の私を見つけて、失っていくのを見つけていくだけだった。

「莉子!」

「あっ……」

 裕奈さんが大きな声を出して私の肩を掴んだ。

「危ない、またマネキンになりかけてたぞ」

「ごめ、ごめんなさい。…………はは、なんか不思議ですね」

 硬くなった表情を無理に動かして誤魔化した。

 自分がなければただの人形になる。ここはきっとそんな塔でもあるのだろう。

「莉子。ここでは何が何でも自分を失うんじゃない。そうじゃなきゃ__」

 突然頭が割れそうなくらい大きな鐘の音が聞こえた。

 次の瞬間、ボロボロと裕奈さんの体が崩れ落ちる。関節がバラバラになって糸が切れた人形のように目の前で倒れた。

 その姿はまるで、今まで転がっていたガラクタのマネキンと変わらなかった。

 それを見た私はガタガタ震えて、声にもならない悲鳴を抑えるように手で口元を抑えていた。

 おそるおそる裕奈さんの体に触れても、裕奈さんはピクリとも動かず、もう何も言わなかった。

 自分を見つけられないまま生きていれば、ガラクタと変わらない。

 そんな残酷な現実は、黒く鋭く私の胸を射った。



「行かなきゃ」

 私はゆっくり立ち上がって、裕奈さんの足元にあったランタンで照らしながら部屋の出口を探した。

 部屋は暗くて、何度かマネキンの一部に躓きそうになった。

「うっ……」

 その度に裕奈さんがいなくなってしまった寂しさと、自分にも迫っている終わりの恐怖が伝わって、足が竦みそうになった。

 それからしばらく部屋を探したが、何も思い出せるものや出口らしきものは見つけられない。

 窓の外は今も白夜だった。

 夜なんて言いながらずっと日が出ているこの世界には、夜明けなんてない。

 このまま私を見つけられないのではないか。周りの言うままの人形が本当の私なのか。

 考えるうちに、壁に固い金属の箱があるのを見つけた。

 見てみると、それはカードキーのような造りになっていた。

「……もしかして」

 カードを挿入する部分に、裕奈さんから貰った栞を挿してみる。

 ガチャリとドアの開く音がして、ゆっくりと石のドアが開かれていく。

 その向こうはまた階段だったが、これまでよりずっと煌びやかだった。

 壁面にはシャンデリアを小さくしたかのように綺麗なキャンドルのウォールライト。赤い絨毯が敷かれて手すりも滑らかな大理石でできていた。

 もう一つの違いは、またギャラリーのように絵が展示されていたが、どれも聞いたことのない作者のものだった。

 その中に一つ、額縁に入った絵を見つけた。否、それは絵ではなく、縁のある鏡だった。

『田辺裕奈』

 下の作者名には裕奈さんの名前があった。

 鏡に映る私は薄めの茶髪を肩まで伸ばして、自分の高校の制服を着ていた。

 透るような肌。良くも悪くもないどこにでもいるような顔立ちに__

 黒く、冷ややかな憐憫を宿した瞳が鏡に映っていた。

「……っ」

 思わずそこから逃げ出したのは嫌悪からだろうか、畏怖からだろうか。裕奈さんの人を映す鏡はどこか歪で、人間らしさを欠いて、他の作品とは大きく違った。

 直後、下の方から何かが割れる音が聞こえた。階段を煌めかせるキャンドルが台ごと落ちていた。

 次へ、また次へとだんだん上の方まで落ちてきて、絨毯には火がついてこちらに迫ってきていた。

 私はがむしゃらに上に向かって走り出した。

 前や横のキャンドルも消えてきて、頼れる灯りはランタンと炎だけだった。

 燃え盛る絵を見て走りながら、破られた自分の絵を思い出した。

 両親に夢を否定された私。みんなの望みを映した私。

 ボロボロに自分の絵を砕いて、自分で自分を失くした私。

 仮令誰に何を言われても、何を思われても、私自身が私を認められなくて何になるのだろう。きっとそれではモンタージュとなって人格もないままただの人形と化してしまう。

 私は自分を失くしたくない。

 そう強く願って、私はただ必死に炎から逃げた。

 静かに背中に伝わる温度が、鼻を掠める焦げた匂いが、私のここに来る前の記憶を呼び起こした。

 その日は、両親が仕事でいなくて、私が夕飯の当番だった日だ。私は丁度学校で進路の話をされた後で、気が抜けたようにコンロの前にいた。

 このまま何にもなれないなら消えてしまいたい。

 そう思った直後だった。近くの布巾に火が燃え移り、火事が起きた。きっと火を消す為に動くことはできただろう。

 でもその時の私は何もせず、火を眺めていた。冷え切った今生を温めるその火に見惚れていた。

 燃える煙を吸い込んで、苦しくなって、その後のことは思い出せない。私はもう生きていないのだろうか。

 だけどどこか、まだ自分が生きていると思える、根拠のない確信がある。そして、まだ私はこんなところで終わりたくない。

 やっとのことで石畳でできた階段まで辿り着いた。

 炎は透明の壁でもあるかのように、そこから先へは向かってこなかった。一方で焼香かのように焦げ臭い匂いはこちらまで伝わってきた。

 胸の奥がつかえたように苦しいのは走ったからだけではないだろう。それでも私にどれだけの時間が残されているのかなんてわからない。

 私はまた一歩歩き出した。



 どれくらい登ったかわからない程、長い時間階段を登ったと思う。

 ランタンで灯しながらただ前だけを見て階段を登る。階段の石畳は凸凹で、いつ踏み外してしまうかわからない。

 窓からは横向きに光が差している。ここにきてからはずっとそうだ。陽が沈まず、地平線の近くで止まっている。瞼が重いのできっと今は夜なのだろう。それでも太陽は瑠璃の空を照らしていた。

 しばらく歩くと、やっと明るい光が遠くに見え始めた。

 思わず駆け上ってみると、そこにはアンティーク調の木でできたドアがあった。ドアの上の小さな窓が、一番明るい光を塔に流し込んでいた。

 私は古めいたドアの取手に手を掛けて手前に引く。

 ドアを開けた先には、焼かれた藍の空と私の背丈よりも大きな綺麗な鐘があった。おそらくここがこの塔の屋上だろう。

 四方どちらを見渡しても見えるのは地平線と空だけで、神秘的にも感じられる世界だった。

 裕奈さんの体が崩れる時に聞いた鐘の音の正体はこれか。次の鐘がいつ鳴るのかわからない。

 この塔には古いものが多かったけれど、この鐘だけは作られたばかりかのように綺麗で、太陽の光を反射して黄金色に輝いていた。

 鐘にも私の顔が映っていて、それは先程の鏡とは違っていて安堵を覚えた。

 一つ大きな違和感は、石で囲まれた塀の中に、人が通れるような隙間があったことだ。

 まさにここから飛び降りろとでも言われている気分だ。

「……ここからどうしよう」

 飛び降りたら、元の世界に帰れるのだろうか。私は火事でそのまま焼け死んだのかもしれない。しかし次の鐘が鳴った頃には私の体も頽れるかもしれない。現実で私が生きていたとして、自分を失くした私は本当に生きているとは言え__

「わぶっ」

 考え込んでいるうちに、どこからか突然紙が飛んできた。

 紙を顔から剥がしてみると、わかりやすい癖字で一言書かれていた。

『誰も君にはなれない』

 見てすぐに栞と同じ、裕奈さんの字だとわかった。

 どこからこんなものが流れてきたのだろう。裕奈さんは生きていて、私にこれを伝えてくれたのかなと、そんな風に思えた。

「誰も、私にはなれない」

 自分を失った私でも、きっとそれは私でしかない。誰も私になれないし、私も誰にもなれない。

 私が私であることが、何よりも生きていることの証明だろう。

 強い風が吹いて、見上げると鐘が揺れかけている。

 もう躊躇している暇はない。私は思い切って塔の外へと足を踏み出す。

 頭から真っ逆さまに落ちていく。不思議と、恐怖はなかった。

 風を受けて、空に溶けるように落ちながら、日が沈んで空が深い藍に染まるのが見える。

 遠くには細い三日月が見えて、夜の訪れを囁いていた。

 重く、鈍い鐘の音が上から聞こえた。

 それは私の夜が明ける音に聞こえた。

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