残夏
凩 さくね
1話
「近々、この仕事辞めようと思うんです」
年上で同僚の、そして後輩にあたる中年の小柄の、そんなありふれた彼はそう言った。
「まぁ、そうですよね」と、返す。驚きは無かった。元来、医療介護職の人材は流動的である。休憩室の窓から見える緑が、茶色になる頃には彼が居ないことに、慣れてしまっているのかもしれない。
「職場内のローカルルールがありすぎて、もうやってられませんからね。ここは、癖が強い人間が多すぎます。この前なんて、入浴介助の準備を少し早くしてただけで大目玉ですよ。次、あんな事があれば、辞める前に1度ぶん殴ってやろうかと思います」と彼は早口に、へへへと少しだけ愛想笑う。
「確かに、ここで働くと気疲れが絶えないですよね」と自分も愛想笑う。
「次はもう少しましなところで働きたいですね。就活を頑張らなければ」
僕と彼は一回りと半分ほど年が離れている。40中程での転職がどれほどのストレスになるかは、人生経験の浅い自分には察するに余りある。何を考えて生きているかすら分からない。
彼は確かに職場で浮いていた。確かに彼は要領が悪く、良くて人の半分程度、人によっては戦力にならないなどの陰口を叩かれていた。それでも彼は一生懸命な性格で、メモは必ずとり、仕事は正確だった。それが僕以外の目には見えてなかったのかもしれない。彼の上からの評価も良くはなかった。
「あぁ、ひとつ思い出したので、話してもいいでしょうか?」
昼休憩もまだ余裕がある、僕が二つ返事で返す。
「僕がクスノキさんくらい若い時のことなんですけどね」口下手で、何故か年下の僕へ敬語はかなくなに外さない彼は、語り始めた。
「僕らの時代は、給料が降りたら繁華街でオネーチャン引っ掛けて、飲んで遊んでっていうのがカッコイイみたいな時代だったんですよ。そう、そしてボクは、この顔でこの腹ですから童貞歴も長くてですね、そういう遊びをしている先輩達に憧れましたし、18になった時はいよいよやってきたと興奮したんですよ。」
少し気持ち悪いとも思いつつ、最後になるかもしれない彼の話には、少し興味もあった。
「今では治安が問題視されて多くの店が閉店に追い込まれたんですが、A市は商店街にもスナックやそういう風俗があってですね、その一角の所謂お金を払ったらヤラセてくれるオネーチャンに、月1回から2回くらい通ってる時期があったんですよ。だいたい20になって30の前半までだから10年くらいかなぁ」
ボクはモテなかったのでと、彼は笑った。笑うのも失礼かと思い、いやいやと相槌を打つ。
「で、今度の転職先の下調べで実際現地に行ったりしてたら、それがちょうどA市の商店街の近くでしてね。自慢出来るような思い出は無いんですが、昔を思い出してその周りを散歩したんですよ」
彼は少し俯き続ける。
「そのお店自体は、もうとっくに潰れていて、それは知ってたんですけどね。店主が亡くなられたみたいで、それから引退されたみたいです。当時は営業職だったので、将来は独立してやる!とか馬鹿げた夢をかたっちゃって、それを優しく聞いてもらったりしてたんです。一時期は本気で探したこともあったんですが、手掛かりもなく、でも今更ボクが会ったとしてもじゃないですか……」
どう思われていようがもう一度会えたら、と言いたそうだった。
「それでも、こういう機会に、思い出を思い返す事が出来てよかった。という話でした。なんかオチがなくてすみません。」
「いえいえ、面白い話が聞けました」
「そうですか、それなら良かったです。また辞める前に1度メシに行きましょう。またLINEします。ではボクは休憩時間が終わるので先に失礼します。」
そう言って彼は休憩室を去った。正直今までそこまで興味のなかった人間の、その半生をダイジェストされ、少しだけ懐古に似た気分になる。
情を捨て現実味だけで語るなら、その女性は彼の事を覚えていない、もしくは良くて1人の客として覚えているかもしれない程度だとは思う。しかし、彼は多分10年前の彼女を鮮明に、そして痛烈に覚えているのだろう。童貞を捨てた女は記憶までも支配する。
そんな彼と彼女の関係性と思い出を、少しだけ羨ましく思った。
残夏 凩 さくね @sakune
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