炭酸水

@Aki0929

炭酸水

 私は何者にもなれない。

 感情を一つ手に入れるごとに、一つ捨てるごとに、それはじんわり私の中に広がっていく。



 苦いような、甘いような、辛いような、楽しいような味がする。確かに味はするのに、なんとも言えない。

 炭酸水はまるで私みたいだなと思った。

 いつか私からも炭酸が抜けて、ただの水になってしまうのだろうか。

 私はまだ開けたばかりの冷たい炭酸水を一気に飲み干す。

「うっ……」

 炭酸水が気管に入ったのか、げほっげほっと咳が出る。

「……相変わらずね。苦しくなるんだからやめればいいのに」

「い、いや大丈夫……これが炭酸水の醍醐み……」

 虚勢を張ろうとしたけれど、咳は止まってくれなかった。

 あやかは私の背中をさすりながら呆れた顔をする。

 切り揃えられた前髪から覗く顔は相変わらず無表情に近いが、最近は前より少し表情豊かになったと思う。

「ありがと……それで、清水君なんだけど」

 咳が落ち着いてすぐ、置いた自転車を押しながら、さっきの話の続きをする。

 暦上では秋というのに、日中は茹だるような暑さが続いている。だが夕方の路地裏にはほんのり涼しい風が吹いていた。。

 学校からはそう遠くない、車が一台通れるかも微妙な道。ひぐらしの鳴き声。家屋の隙間から差し込む斜陽。

 バイトを終えた私と部活を終えたあやかはいつもの公園で待ち合わせた後、決まってここを通る。

「無理なんじゃない?」

「そ、そんなはっきり言わなくても!」

 ゆったりとした心地良い声で、なかなかに辛辣な返答をされる。

「だってそうじゃない、紗枝が清水君と同じクラスだったのは去年で、今じゃもう接点がない。その上私のクラスじゃ清水君には最近彼女ができたって噂もある」

「まあ、清水君モテそうだもんね……」

 友達もいないので周りの評判すら聞いたことはないが、そんな私でも知ってる清水君なのだからモテるに違いない。

 大きくため息をついた後、私は空を見上げる。六時半をとうに過ぎた橙の空。

 電線に囲まれて、建物が左右を押しつぶす。

 路地裏で見上げたら、綺麗な空も狭く見える。

「……どこか遠くの、海にでも行きたい」

 見ると、あやかは眼鏡を外していた。

 透き通る綺麗な目に吸い込まれそうになる。

 その横顔はあまりに綺麗で、私も見惚れてしまった。

 私とあやかは全然違う。勉強も運動も私より全然できるし、私に対しては辛辣だったり不思議なことを言ったりするけれど、学校にいるときは誰にでも優しい、できた優等生だった。

 あやかはいいなあ、という言葉を喉元で止める。

 私はあやかのことはよく知らないと思う。私といる時が素なのかなと考えているけれど、何を思って私といるのか、何に苦しんでいるのか、何一つ知らない。

 全てを知っていないと仲良くなれないわけではない、というのもわかってはいる。

 私たちは、互いに何も言わず、暗くなるまで路地裏を歩く。もちろん他愛無い話ならする。

「でもさ、二学期になったら文化祭があるでしょ? 私、そこで言うだけ言って、気持ちを伝えたいなって思うの」

「そう……」

 あやかはどうでも良さそうに、またどこかを見ている。

「ん、もう遅いし帰ろうか」

 蝉の声も止んできて、住宅街はいっそう静かになる。私は自転車だからいいけれど、あやかは早く帰らないと危ないかもしれない。

「そうだね」

 暗くてあやかの表情はよく見えなかった。ただほんの少し、暗くなっている気がする。

「……じゃあね」

「うん」

 私もあやかに踏み込もうとは思わない。何でもかんでも話すことが救いになるとは思えないから。

 あやかと別れて、自転車を漕ぐ。さっきとは違う明るい大通りに出て、虫より車が煩くなる。

 自転車に乗ったはずなのに、さっきより足が重い。

 スマホに母からの通知が来る。

 私は空っぽのペットボトルをゴミ箱に捨てた。



 「木橋さん、さっきの分のプリント見る?」

「あ、ありがとう水瀬さん」

「居眠りは評価も下がっちゃうし、次は起こそうか?」

「えっ、助かります…」

 横髪を耳に掛けながら、優しい声と柔らかい笑顔で私に声をかけてくれた。

 これが私とあやかの出会い。高校二年生で隣の席になった時。

 もともと人付き合いが苦手でクラスに友達も多くない私に目を掛けてくれた。

 とはいえ当時はあやかと話すのはクラス内での最低限の会話程度で、学校外で話すことはなかった。

 それよりも、当時の私にはもう一人よく話しかけてくれる人がいた。それが清水君。清水大成君だった。

 清水君はあやかとは反対側の隣の席で、よく話しかけてくれる男子だった。

 話す内容は毎回本当にどうでもいい内容。馬鹿な話にたくさん笑わせられて、学校に行くのが楽しかった。

 そんな何気ない会話の中、

「木橋って案外可愛いんだな!」

「……余計な一言」

 単純な私は、こんな一言から清水君に惹かれてしまった。

 よく考えれば、その前からよく話しかけてくれてた時点で気は引かれていたのかもしれない。

 これが私の初恋だ。

 そんな風に浮かれていても、家での生活は変わらなかった。

「ただいま」

 バイトも終わり、明かりもついてない家のドアを静かに開ける。

「……今何時だと思ってるの? 洗濯だって食器洗いだってあるんだけど」

 おもちゃで散らかったリビングを通ると、妹を寝かしつけた後の母が、キッチンにお酒の缶を散らかして待っていた。

「……ごめんなさい」

「なんなのその態度⁉︎ こっちは毎日働かされて、恵理も見て、なのにあんたは毎日毎日自分のことしか考えてないじゃない! 少しは家族への思いやりを持つとかできないわけ? 今月家に入れたバイト代だって少なかったよね、どういうつもり? いい加減にしろよ!」

 家に帰ると家事が残っていて、母がまだ起きている運の悪い日はこうして罵声を浴びせられる。

 バイトがあって遅くなっていても、母は忘れていることもある。

 父とはかなり前に離婚した。私の父と、妹の父、二人とも離婚して、母は一人で私たちを育てている。

 けれど私は不幸だとは思っていない。私が役立たずなことには変わりないからだ。今だって一番苦しんでいるのは母だ。何も役に立てない私が悪い。

「あんたなんか、産まなきゃよかった」

 私は少しでも償うために生きていくしかない。

 そんなこんなで、家事を終わらせて眠る。起きた頃には家族はいなくて、冷蔵庫にあるものでお弁当を作って家を出る。

 これが当たり前の毎日だった。

 私の中には、黒い何かが渦巻いている。それはずっと、私の頭上に乗っている。それはずっと、私を見つめている。いつかそれに飲み込まれて消えてしまうんじゃないか。考えれば考えるほど不安になる。うまく言えないけれど、感情というのは恐ろしいと思った。

 ある日のことだった。その日はそこそこ強い雨だったので、歩いて登校していた。

 傘に当たる雨がほんの少し重く感じて、ほんのり湿った閉塞感が喉を締めている。雨は嫌いじゃないけれど、誰もいない傘の中に一人閉じ込められるこの感覚は苦手だった。

 ゆっくりと学校へと足を進ませている中、ほんの少しの気の迷い。

 私は学校へ続く大通りを右に曲がった。

 自分でもどうしてそんなことをしたのか分からない。

 そのまま学校に欠席の連絡を入れて、行き場のないまま歩き続けた。

 どこかの公園で雨宿りはできないかと辺りを見回していると、遠くの方に同じ制服の少女が傘も差さずに狭い路地に入っていくのが見えた。

「……大丈夫かな」

 一瞬幽霊かもと思ったけれど、その時の私は好奇心が勝って、彼女を追いかけた。

 どこで曲がったのかもわからず、少し迷いながらも彼女が曲がったであろう路地にたどり着く。

 そこには日本の住宅街とは思えない、アンティークショップがあった。

「L、A、B……ラブ? でいいのかな」

 どう見ても怪しい店。でもここまで来たなら入ろうと思って扉に手を掛けた。

「わっ」

「…………」

 ちょうどのタイミングで向こう側から扉が開かれて、思わず声を上げた。

「……み、水瀬さん?」

 そこには予想外の人物がいて目を見開く。

「なんで……」

 水瀬さん、その時のあやかは、濡れた前髪と少し曇った眼鏡のせいで表情はわからなかった。

 私が何かを言う前に、あやかは目も合わせないまま去っていった。

 けれどあやかとの関わりが変わったのは、この店がきっかけだったと思う。

「…………」

 この怪しい店でいったい何をしていたんだろう。そう思いながら店の前に立ち尽くしていると、また向こうから扉が開く。

「ありゃ、お客さん。早くおいで」

「えっ、はい……」

 扉の隙間から手招きされて、私は勢いに任せて店内に入った。

「あの、私別にお金とか全然ないんで何も買えま___」

 私がそのまま言葉を続けられなくなったのは、店の内装に驚嘆したからだ。

 壁も、天井も、四角い建物だったはずなのに丸くなって、星空がゆっくり回っている。

 まるで店内がプラネタリウムのようだった。薄暗い室内を見回すと、カラフルな香水瓶が木製の棚に並んでいる。星形のライトに照らされたカウンターが目に入り、何かの店であることがようやく理解できた。しかし店内に立ち込める甘い香りはどこか危うさを孕んでいて、なんだか落ち着かない。

「あっはっは、初めて来た人はみんなびっくりするからいいねえ〜、この内装は結構気に入ってるんだ。結構きれいでしょ。私がやったわけじゃないけどね〜! あはっ」

 カウンターの椅子でくるくる回りながら酒瓶らしきものを振り回す白髪の女性は、真っ黒なローブと三角帽子。ハロウィンにしかみないような格好をしていた。

「あなたは……魔法使い? 何これ……ここってなんなんですか?」

「え〜見た目で自己紹介してるつもりなのになあ〜、やっぱこれって変? ねえホサナ〜」

 彼女が呼ぶと、にゃーと言う鳴き声と共に、カウンターの下から青いリボンをつけた黒猫が出てくる。

「…………かわいい」

「だってよホサナ! よかったね!」

 気に食わなかったのか、ホサナという猫は前足で女性の顔を叩いた。

「あっ、ちょっ、ごめんごめん! この店はね〜LAB.って書いてラブっていうの! そしてここは感情の店! あとあたしは、天津ミカ。天津でいいよ〜、店主で〜す」

 酔い潰れて机に伏せたまま、天津さんが紹介をする。

「感情の、店?」

「そ、いらない感情を売ったり、欲しい感情を買ったり。なんと売る分にはタダ! 買うには〜どれかの感情を売ってもらわないとだけど〜」

 天津さんは細かくいうと感情っていうか、思想っていうか、ま〜むずいから感情でいいよ、と言う。

「そ、それって嫌な感情を売って、明るい感情を買えるってことですか?」

 勢い余って少しカウンターから身を乗り出す。あの黒い何かを振り払いたい今の私にとってはとても都合のいい店だった。

「ん〜もうちょい具体的にしてくれなきゃあたしの解釈で変なことしちゃうけど〜そんな感じ」

 具体的に……と考えているうち、もう一つ気がかりなことを思い出した。

「あっそうだ。水瀬さん、さっきの女子高生は何をしてたんですか?」

「あ〜ごめん、ウチはお客様のプライバシーは守る主義なのさ〜」

 天津さんに合わせてホサナも鳴く。思えば店内には私以外の客はいなかった。

 少しキツくなった甘い香りが鼻を掠める。それは不快感というより焦りを与えるものだ。

 本能的に、ここには長居すべきではないと思った。

「っは〜うめ〜」

 ……この酔っ払った店主が雰囲気を壊しているのも悪いのではと思う。

「んで、お客さんはどうすんの? 何を売ってくれるんだい?」

「私、は……」

 家でのことが真っ先に浮かんだ。前まではそこまで気にならなかったのに、積み重なって少しずつ溜まっていくあの黒い何か。今だって離れてくれないこれがなくなれば、少しは楽になれるかもしれない。

「この、真っ黒な感情……」

「んえ〜わかんないよ〜! もっとわかるようにして〜」

「ずっと私にまとわりついてくる、もやもやしてて、重くて、あっ多分憂鬱感! 憂鬱感を売って、毎日が楽しいって感情を買いたいです!」

「おし! 毎度あり〜!」

 そう言って天津さんが杖を取ると同時に、眩しい光が広がってぎゅっと目を瞑る。

 目を閉じた瞬間、さっきまであった音も、匂いも、気配も、地面に立っている感覚さえもわからなくなった。けれど今は目を開けてはいけない。というか開けられない。それだけは確かだった。

「おけ、終わったよ〜」

 ゆっくりと目を開くと、次第に感覚が戻ってくる。

 カウンターの上には2つの香水瓶があった。

 透明で、中身が水なんじゃないかってほどシンプルなものと、黒いガラス瓶で中身は見えないけれど、紫のリボンがついているもの。

「紗枝たんはこっち、透明な方。今ここで適当に使っていいよ〜」

 渡されて蓋を開けるも、よく見ると香水瓶じゃなくてただの瓶だった。

「あ、それ飲むやつだよ。みんな勘違いするなあ〜」

 もらったのが水っぽい方でよかった。私はそれを一気に飲み干した。

 これは、水というよりかは炭酸水?

「わーお、なんの抵抗も無く飲み干すなんて強靭なメンタル! 怪しいと思わなかったの?」

「えっ⁉︎」

 手をパチパチしながら黒い方の瓶をしまう天津さん。

 慌てて口元を抑えたがもう手遅れだ。

「あーいや、ちゃんと言われた通りの用意したよ〜、とはいえ、感情は水みたいなものなんだよ。時間が経つと出て行ったり増えたりするから気をつけて〜」

 騙されたのかと思って焦った……なんだか今日は勢い任せにしすぎな気がしてきたな。

 やるべきことをやって興味を無くしたのか、天津さんはまたお酒を飲み始める。

「あとはそのうちわかるから〜じゃあ……あたっ、わかったって……ありがとうございやした!」

 そのままカウンターに伏せて寝ようとする天津さんをホサナが引っ掻いて起こす。

 猫よりしっかりしてない魔法使いってなんなんだ。

「……そういえば私、天津さんに名前教えたっけ」



 私は静かにLAB.を後にした。

 傘を開いて、空を見上げる。

 雨はまだ止んでいなかったけれど、さっきより雨も身体が軽く感じた。

不思議だったけど面白い日だったなあ、と思うも時計はまだ正午を回ったばかり。

 作ってきたお弁当も食べないといけないし、近くの公園でも探そう。

 天津さんに聞けないかな、と振り返った頃にはLAB.はなくなって、そこにはコンクリートの壁しかなかった。

 夢みたいな話だったのに、学校をずる休みしてたのに、なんだか楽しいからどうでもよくて、あの魔法は本物だと思った。

 少し進むと、公園を見つけることができた。

 残念ながらそこに屋根はなかったが、一つ引っかかっていたものに行き着いた。

「……水瀬さんだよね?」

 その時のあやかかは、傘があるのに、雨に打たれながらブランコに座って呆然としていた。

「何の用」

 私が傘を差し出すと、虚ろな瞳でこちらを見上げてきた。いつもクラスで見るあやかとは大違いだった。

「えーっと……雨に濡れてると風邪引いちゃうかなって……」

「別にいい。構わないで」

「わかった」

 そう言って私は、傘を閉じてあやかの隣に座った。

 側から見たら女子高生二人が雨の中ブランコに座っているのはおかしな光景だったと思う。

 私は悪くない気分だった。あやかにはきっと何かがあったのかもしれない。

 それでも、こんな出会いも悪くないな、なんて思って一人で少しだけ笑ってしまった。

「……構わないでって言ったでしょ」

「別に構ってないよ。私がしたいからしてるだけ」

「でもあなたが風邪を引くじゃない」

「これもずる休みの口実! なんて」

 私がヘラヘラと笑っていると、あやかはため息をついて立ち上がる。

 濡れた眼鏡のガラス越しに、目と目が合った。

 さっきよりずっと綺麗な目。

「……?」

 今度はあやかが、私に傘を差し出してきた。

「着いてきて。屋根があるとこ知ってるから」

 きっとこの時が、あやかが初めて心を開いてくれた日で、私の人生を大きく変えた日だと思う。



 あれから私は、何度か学校を休むようになった。バイトが終わった後に寄り道もするようになった。そこではたびたびあやかと出会う。

 LAB.は日によってあったりなかったりして、うまく掴めないままだ。でも、楽しい感情さえ買えたらしばらくは苦しまずにいられる。

 それでも私を見つめるなにかはまだ残っている。

 夏休みは学校がない。

 母からは家に入れるお金を増やすよう言われた。

 私自身もなるべく家から離れたい一心でバイトを増やした。

 動機は不純でも、最終的に家族の役に立てるのなら悪くないことなんじゃないか。そう思っても心のどこかで家族を愛せない自分を許せない気持ちが残る。

 働いていても、家にいても、この濁りは浄化されない。

 どこか遠くの海へ、と話していたあやかの気持ちに共感を覚える。私もどこか遠くに逃げ出したかった。

「木橋さんおつかれ!」

「お疲れ様です」

 朝の九時から働いてもう夕方五時。あとはこのまま家に帰って家事をするだけだ。母の顔が私の頭をよぎる。

「…………」

 私の足は自然と、あやかと会う公園に向かっていた。

 茹だる空気を誤魔化したくて、炭酸水を一本買う。

 つもりが、私は二本買っていた。あやかの分にしたかったのかもしれない。

 私にとってあやかはなんだろう。

 昨日も思ったように、私たちはお互いのことを何も知らない。どこか悩んでいるのも、苦しんでいるのも分かるのに、何もしない。

 あやかは違うかもしれないけれど、私はあやかと過ごす時間、あの何気ない時間は居心地がいいと感じている。

 けれども私たちは助け合う関係なんかじゃない。きっと二人とも救いを求めているのに。

「紗枝」

「はは……あやか、今日もいるんだね」

 あやかは俯いたまま、私が差し出した炭酸水は受け取らなかった。そんな場合じゃない日もあるのかもしれない。

「私も帰りたくないからさ」

「そっか」

 珍しいな、と思った。

 あやかはこんな風に自分の気持ちを言ったことはない。普段なら何も言わずに過ごしていた。

「あ、あれ? 私、帰りたくないって何?」

「……どうしたの?」

「紗枝、私なんか、わからない、わからないよ」

 ここまでであやかの顔をよく見ていなかったことを後悔した。

 下ろしている髪と、俯いていたせいで気がつかなかったが、首元に薄く何かで切り付けた痕があった。

 見たところあまり強く切り付けたわけではなさそうだが、そういう問題じゃない。

「あやか、あんた何したの⁉︎」

「何もしてない、ずっと私は何も、何もしてない、何にもなれない」

 こんなあやかは見たことがない。ここまで何もなかった。私たちは互いに何もしてこなかった。けれどこんな風にはならなかった。

「あ……」

 またガラス越しにあやかと目が合う。あやかの目は光を失っていて、明らかに昨日までとは違った。

「ごめん、待ってて!」

 私はあやかを置いて、自転車も置いて走り出す。せめて自転車には乗ればよかった。

 こんな急に人が変わるのに、思い当たる節なんて一つしかなかった。

「はぁ……はぁ……」

 勢いよく扉を開けて、LABに入る。幸い今日はいつもの場所にLABはあった。

「お、紗枝たんどうしたの〜? そんな焦って」

 天津さんは相も変わらずお酒を飲んで酔い潰れていた。

「天津さん、あやかに何をしたんですか⁉︎」

「ええ……私は頼まれたことをしただけだよ〜お客様のプライバシ〜」

「そんなこと言ってる場合じゃないんです!」

 私が感情任せに天津さんに怒鳴ると、ホサナが鳴きながらカウンターに飛び乗る。

「え〜……うーん……」

「いいから! 教えてください!」

 私がカウンターに両手をついて訴えると、ホサナも一緒に鳴いた。

 天津さんは怠そうに、頭を掻きながら話し始める。

「ん〜、多分副作用みたいなもんだよ〜」

「副作用……?」

「ほら、感情を売るのはタダ、買うには売らないといけないでしょ〜? 売ってなくなった分の感情は、何が埋めるの〜って話」

「は……」

 そんなの聞かされていない。そりゃあよく考えたらわかる話かもしれないけれど。

「それって、どうなるんですか?」

「流石に人間、感情なくなりまーすとはならないみたいだね〜。急になくなった分の感情を埋めるために、だーって感情が流れ込む的な感じじゃない〜?」

 なんでそんな不確かなんだ。感情を取引している当人がよくわかっていないだなんて。

「いやだって〜、ここは実験のための場所なんだってば〜」

「実、験?」

「そう、ほら、LAB.。ラボラトリーって、実験室の意味だったよね〜」

 天津さんは続けてお酒を飲みながら語る。

「な、どういうことですか? 最初から私たちを騙してたんですか?」

「騙してなんかないよ〜、人聞き悪いな〜」

「だ、だって、人の感情を弄んで、勝手に実験して……」

「でも、売り買いを求めたのは君たちでしょ?」

 私は何も言えなかった。よく考えてみればこの店だって最初から怪しい。

 上手い話は疑えと言うものだ。

「んで、お客さんはどうすんの?」

「っ……!」

 私は黙って店を飛び出した。

 店先の狭い路地には、あやかが立っていた。震えて、立つのもやっとのような状態で。

「紗枝、……」

「あやか、落ち着いて、落ち着いて」

 あやかは呼吸を乱して座り込む。おそらく過呼吸だろう。

 私は背中をさすりながら開いた方の手であやかの手を握る。

「ごめん、ごめんなさい……」

 あやかは泣きながら、謝っていた。

 誰宛てかもわからない謝罪を続けていた。



 どうせ失うのなら、最初からない方がいい。

 初めてこう思ったのはいつだろうか。お母さんが絵本を読んでくれなくなった時。自分が頑張って手に入れたものを奪われた時。もしかしたら、仲良くしてくれていたあの子が裏で私のことを悪く言っていた時かもしれない。

 人魚姫は、王子様に会えて幸せだったのかもしれない。その幸せを望んで、結局失って終わった。

 幸せになっても失うのなら、最初からないほうがいいんだ。


「じゃ、次のパート行くよ」

「はい!」

 パートリーダーとメトロノームに合わせて、四人のクラリネットが同時に鳴る。

 ……あっ今の、詩織ずれたな。

「あやかと詩織、さっきの七八小節目ずれてた。気をつけて」

「はい!」

 クラリネットパートの三年生はパートリーダーのひより、ひよりの幼なじみの天、そして詩織と私だ。

「ひゃ〜練習中のひよりはこわいね〜」

「……あやか、わざとずらした?」

 放課後練の後、ひよりがいない時だった。詩織がつかれた〜と言いながら片付けている中、天が私に声をかける。

「えっ、わざわざそんなことしないよ……」

 嘘だった。

「最近のひより、うちから見てもピリピリしてる感じするし、詩織もこんなんだし」

 こんなんってなんだー! と詩織の声が聞こえるのをそっちのけで天が続ける。

「まあ、大会前だから気にしてるのはわかるよ。仕方ない仕方ない」

 最近の詩織は少しパートから浮き始めている。当の本人は、ひよりのピリピリした感じが嫌なんだよね〜なんて言っていた。

 正直私にはどうでもいい。吹奏楽部はピアノを習っていたからという理由で惰性で入った部活だ。

 けれど、部活の空気を悪くはしたくない。そのために私にできることをするしかないのだ。

 部活帰りに少し遠回りして帰ることの延長で、路地裏を歩くのが癖になった。

「…………」

 いつものように何も考えずに狭い道を歩いていると、昨日までにはなかった洋風の店を見つける。

 何かの見間違いにしてはよくできている。少し店の前に近寄ったところだった。

「あ、お客さん? おいで〜」

「あっ……」

 扉から覗き込んできた白髪に黒いローブの女性に手を引かれ、店の中に連れ込まれる。

「……すごい、お店ですね」

 路地裏どころか、普通の駅でも見ないような店。

 まさかここが私の運命を変えるとは思わなかった。

「あたしは天津ミカ。天津でいいよ〜店主でーす」

「ここは……香水屋さん?」

「ん〜ん、ここは感情の店だよ。欲しい感情を買って、いらない感情を売る。なんと朗報売るのはタダ!」

 半信半疑だったけれど、これは天啓なんじゃないか。そんな気持ちが勝った。

「すみません、私の幸せな気持ちを売ることはできますか?」

「お〜話が早い子だね! いいよ〜って言いたいけど、もう少し具体的にして欲しいなあ〜」

 カウンターの下から黒猫が登ってくる。

「生きてるうちに、幸せだなって思う感情。これを捨てたいんです」

「生きてて幸せって感情? おし、毎度あり〜!」

 眩しい光に包まれ、五感が失われた後、私の感情は瓶に閉じ込められて、買い取られたらしい。

 しばらくは実感が湧かなかった。

 特に変わることなんてなく、そのまま過ごしていた。

「あやか、そろそろ進路の話が出てこない? あやかはどうしたいの?」

 お母さんに聞かれても、まだ見つからないとしか答えられなかった。

 私は、私には何もなかった。

 それからだったと思う。あの店が本物だとわかったのは。

 将来、したいことなんて私にはない。これから生きて何を得られるんだろう。

 いろいろ考えたけれど、最終的に私の行き着く疑問はここだった。

 私は生きていて幸せだという感情を捨てることができたのだ。

 苦しいはずなのに、もう幸せになって、登った分だけ落とされることがないのだと安心している自分がいた。


 そんな私の苦しい安堵は、紗枝が簡単に塗り替えた。

 私は気付けば、学校を無断欠席するようになっていた。罪悪感はLAB.で売って、そのまま一日潰す。

 そんなことを繰り返してそろそろ終わろうかと思った時、紗枝は目の前に現れた。

 LAB.で見た時は焦って逃げたのに、その後も私の前に現れた。

「……水瀬さんだよね?」

 当時は紗枝に大した印象は持っていなかった。隣の席の、ちょっと浮いている子。

 こんな私を見られたのを、羞恥心が許せなかった。

「何の用」

 紗枝は雨に濡れた私に傘を差し出してきた。

「えーっと……雨に濡れてると風邪引いちゃうかなって……」

「別にいい。構わないで」

「わかった」

 傘を閉じて一緒に濡れてくる人がいるとは思わなかった。

 紗枝は雨に濡れた私と一緒に濡れることを選んだ。

 この人はなんて馬鹿なんだろう。

「……構わないでって言ったでしょ」

「別に構ってないよ。私がしたいからしてるだけ」

「でもあなたが風邪を引くじゃない」

「これもずる休みの口実! なんて」

 こんな土砂降りの中、くせっ毛のショートヘアを湿らせて笑う紗枝に救われたのだ。

 こっちはわざわざ罪悪感を売らなきゃやっていけないのに。

 こんな私を見られたのに、見つけてもらえたんだと、思ってしまった。

 紗枝と過ごす間は、何故か苦しくなかった。何かを抱えて生きてるのに私に対してヘラヘラと笑って、そんなところに気付けば心を奪われていた。

 きっとそれは、私が手にしたささやかな幸せだったのだろう。

 そんなものは、簡単に崩れるものだった。

「でもさ、二学期になったら文化祭があるでしょ? 私、そこで言うだけ言って、気持ちを伝えたいなって思うの」

 ああ、幸せになっても結局失うのか。

 紗枝が清水君を好きなのは、半ば冗談だと思っていた。恋愛に縁がなさそう、と言ったら失礼かもしれないけれど、ずっとそう感じていた。

 その時の私が何を思っていたのかはわからない。焦り、嫉妬、不安、恐怖。わからない感情にぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまって、LAB.に駆け込んだ。

 このままではこの感情たちに潰されてしまう。

「お、いらっしゃい。今日はどうするの?」

 ふと、紗枝への感情を売るのも考えた。今私を苦しめているのはきっと紗枝に対する想いだろう。

「すみません、私の感情を全部買ってください」

 それでも、紗枝を失うくらいなら、全部ないほうがいいと思った。



 「あやか」

 息が落ち着いてきた頃、やっと紗枝と目を合わせられた。

 自分でも何をどう話したのかは覚えていない。気付けばもう日は沈んでいて、少しずつ雨も降り始めていた。

「さ、え……?」

「うん、紗枝だよ」

「私、これからどうすればいいの? もう、全部嫌なの。早く全部終わらせたい」

 はやく消えてしまいたい。そんな私に、紗枝は真っ直ぐ、綺麗な目で私を見たまま答えた。

「二人で、どこかに逃げ出そうよ」

「逃げる……?」

 紗枝の頬に雫が伝う。雨なのか涙なのかはわからないけれど、服の袖で拭って、続ける。

「二人で、全部が終わることへの恐怖を売ろう。うまくいくかはわからないけど」

 どこか遠くの海、行きたがってたでしょ?

 雨は次第に強くなっているのに、紗枝の笑顔は変わらなかった。

「お二人さん、満足した?」

 天津さんがそっぽを向いたまま私たちに傘を差し出した。酔ってなさそうな態度の天津さんは初めてだった。

「はい。私、は___」

「残念だけど、うちの店は一人ずつ順番にだよ」

 天津さんはやっとゆっくり話し始めた私の声を遮る。

 どうすればいいか分からず狼狽えていると、紗枝が私の背中を押した。

「私は後で行きます。正直あんたは気に入らないけど」

 はいはい、と言いながら天津さんは私を中に入れた。

 甘ったるい匂い。夏とは言え雨に打たれた後で店内は寒いかと思ったが、快適な室温だった。

「ちょっと悪かったと思ってる」

 少し拗ねたような態度のまま、天津さんは私に謝罪する。

「いえ、私が望んだことですから」

 ホサナは天津さんの横から歩いてきて、私の元に擦り寄る。

「んで、お客さんはどうするの?」

「私は、終わりへの恐怖を売りたいです」

「本当に、いいの?」

「……はい」

 確認なんてされたことに驚いて少し悩むも、紗枝と決めたことだった。

「分かった」

 それからはいつもと変わらなかった。引き取られる透明な瓶。自分の感情が形になるのは不思議な気分だった。

 私の次に紗枝が入っていく。少し遅いのではないかと思い近寄ろうとすると、

「うるさい! あんたの言葉なんか聞かないから!」

「わっ」

 紗枝が勢いよく扉を開けて出てきてすぐに身を引く。

「あっ、ごめんあやか」

「はは……初めてここで会った時の逆みたいね」

 なんてくだらない話をして、私たちは電車で海に向かった。

 スマホを置いてきて時間はわからなかったけれど、もうこのあたりの駅には人が全然いなくて、車窓から見える海は真っ黒だった。

「ねえ紗枝」

「ん?」

「私たちには明日は来ないよね。明日で私たちの世界は終わるんだけど、紗枝はどうする?」

「ん〜……うーん……」

「私は紗枝と居たいよ」

「えへ〜照れるな」

 紗枝が答えを出せないようなので私が先に答えると、珍しく紗枝が照れて、また少し幸せだと思った。

 紗枝の答えは聞けないまま、私たちは人のいない海に着いた。

 月は隠れているけれどきっと、もうだいぶ遅い時間だ。

 私たちの親が探しにくるのかもしれない。そんな風にも思ったけれど、もう終わると思うとそんなのはどうでも良くなった。

 海道から少し下を見下ろす。岩に黒い水が打ち付けて弾ける。

 静かに潮の匂いが鼻を掠めた。

「そうだ、さっきの炭酸水。一緒に飲む?」

 炭酸は少し苦手だ。

 それでも今日くらい飲んでみたいと思った。

「ありがとう」

 初めて飲んだ炭酸水は、苦いような、甘いような、辛いような、楽しいような味がする。確かに味はするのに、なんとも言えない。

 炭酸水はまるで私みたいだなと思った。

 毒にも薬にもならない存在なのに、心の中は他に馴染めない尖った酸性。

 私たちはまだ開けたばかりの冷たい炭酸水を一気に飲み干す。

 隣で紗枝がまた咳き込んだ。

「あははっ」

「ちょっ、何……笑ってんの……」

 咳き込みながら紗枝がこちらを見る。炭酸水は面白かった。炭酸水は魔法で、炭酸水は紗枝で、私だった。

 そんな馬鹿な話が面白くて、一人で笑っていた。

 こんなに心の底から笑えたのはいつぶりだろう。真っ黒な波の音と、私の笑い声しかない海。

 横で紗枝が微笑んでいる。

 生きててよかったと、これが最後でよかった。

「んーーーじゃあ、行こう。あやか」

 大きく伸びをして、空のペットボトルを置いて二人で手を繋ぐ。

「ありがとう、手を差し伸べてくれて」

「何言ってんのさ。お互い様だよ」

 私で何か紗枝の役に立てた記憶はなかった。

 けれど今こうして二人で終われることに意味があるのだろう。

 私たちは静かに海に身を投げた。



 目を覚ますと、そこは病室だった。

 真っ白な壁、天井。近くに誰かがいる。

「___やか、あやかっ!」

 母が私の手を強く握る。

「さ、…………」

 言葉をうまく出せない中、私は紗枝を探した。私は何があったのか理解できなかった。たしかに紗枝と____

「紗枝ちゃんは……」

 お母さんのその一言が、答えだった。



 「終わりへの恐怖を売って、まだ生きたいって気持ちを買う?」

「今言ったでしょう。買う分には払えばいいんですから問題ありませんよね?」

 天津さんは目を丸くしてこちらを見る。

「まあ、問題はないけども……」

 不思議そうな顔をするも、天津さんはいつものように仕事をした。

 感覚がなくなった後、二つの瓶が生まれ、透明な瓶が差し出される。

「だとしてもそれは矛盾してないか?」

「その場合どっちが勝つんですか?」

「さあ……?」

 私はそれからリュックの中の炭酸水一本の方に流し込んだ。

「あっ、ちょっと人に飲ませるつもりか?」

「何か?」

「はっ、あははっ」

 天津さんは一本取られたと言って大笑いする。その横でホサナは丸まって眠っていた。

 私は何者にもなれない。

 感情を一つ手に入れるごとに、一つ捨てるごとに、それはじんわり私の中に広がっていく。

 ずっとどこかで分かっていた。無理矢理感情を飲み込んでも、捨てても、何も変わりはしないのだと。

 でも人と人は、感情を分かち合うことができる。まるで同じ雨に打たれるかのように。

「お二人さんが何するか、なんとなく知ってるけど、感情の問題なのかねえ……」

「うるさい! あんたの言葉なんか聞かないから!」

 感情を弄んで実験してる魔女が何を言っているんだ。

 きっとこの感情は天津さんにも、あやかにも、これを読んでいるあなたにだって理解はできない。

 私は私にしかなれないのだ。

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炭酸水 @Aki0929

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