第8話 待つ宵は更けて

「何も蹴ることはないだろうに……」


 ユリウスはぶつくさと蹴られた尻をさすりながら、奥棟のシャルロッテの部屋への道を、とぼとぼと歩いていた。執務室を出た時、従者が明かりを持ってついて来ようとしたが、断って自分で手燭を持ち、明かりの落とされた廊下を進む。

 情勢が落ち着いてきている今、この王宮内で暗殺されるようなことはないだろうし、一人で歩いていても問題はないだろう。


 姫の部屋には、まだ明かりが灯っていた。毎日遅くまで起きて、自分の訪れを待っていたのかと思うと、胸が痛む(実情は違うのだが、ユリウスがそれを知るよしもない)。

 来訪を告げると、侍女が驚いた顔で出迎え、慌てた様子で姫に取り次ぐ。


「姫様! 殿下がおいでです!」

「え!?」


 部屋といっても、入り口の横に侍女の部屋があり、その奥が広々とした居間で、小さな台所もある。その更に奥が寝室になっていて、そこだけで一つの家のようなものだった。姫は寝室に置いた机で、いつものように小説の執筆に励んでいた。


 今宵も現れないだろうと思っていた夫の訪れに、胸が高鳴らないと言ったら嘘になる。しかし、集中を邪魔されたと少し――ほんのちょっぴりだけ、恨めしく思わなくもなかったが、シャルロッテは書きかけの紙を机の抽斗ひきだしにしまい、インク壺と羽ペンを端に押しやると、薄い肩掛けを羽織る。髪や服が乱れていないか、手にインクが付いていないか確認し、優雅な仕草で夫を出迎えた。


「いらっしゃいませ、殿下。今日は、お仕事はもうよろしいので?」


 ミシュアはユリウスを姫の寝室に通した後は、邪魔をしないよう控えの間に下がっている。姫は寝台に腰かけ、ユリウスは机の椅子に座っていた。久し振りの二人きりの時間だからだろうか、両者ともどことなくぎこちない。


「その……ほったらかしにしてすまなかった」


 ユリウスは俯きがちにもごもごと口を動かす。いつもの凛とした快活な様子とは印象が違うけれど、それもまた可愛らしい。


(殿方にそのようなことを思っては嫌がられるかもしれないけれど)


 姫は胸がときめくのを感じるが、顔には出さない。


「……わたくしはユリウス様の妻です。いつでも、あなた様の意向に従います」


 シャルロッテは微笑むが、ユリウスは顔を歪める。まるで、今にも泣き出しそうな顔だ。


「そうではない!」


 声を荒らげてしまったユリウスは、はっと口をつぐんでから、もう一度一言一言、考えるようにしながら言葉を紡ぐ。


「俺は、王子として生まれたが、あまり雅な育ちはしていない。夫として不甲斐ないところもあるかもしれないが、不満があるのならば言ってほしい。俺は昔のように、ロッテ、そなたともっと話がしたい。俺たちの結婚は政略結婚かもしれないが、俺は――そなたを愛している」


 言われたシャルロッテは、可憐な花びらのような唇を小さく開いて、ぽかんとしてしまった。


「……わたくしは、嫁いだからには自分の小賢しいところを改めなくてはいけないと思っておりました。慎ましく夫を支え、決して出しゃばらない。それが、妻としてのあるべき姿だと」


 声が震えそうだった。どうしてこんな気持ちになるのだろう。現実の自分のことは諦めて、物語の中でだけ自由に生きられればそれでいいと思っていたのに。

 ユリウスは、瞳を潤ませる姫の隣に寄り添い、その肩にそっと手を乗せる。


「きちんと伝えられなくてすまなかった。俺は、明るく聡明なそなたが好きだ。これからはもっと話をしよう。苦労を掛けることもあると思う。でも、どうか俺と共に生きてほしい」


 シャルロッテの頬に、こらえきれずに涙が一筋流れた。

 あの宮廷魔術師の言う通り、きちんと向き合って、話をすればよかったのだ。自分を取り巻く世界は変えられないと、諦めて自分の中に閉じこもる前に。

 少なくともこの人は、シャルロッテの話を聞いてくれるはずだった。昔からそうだったのだから。そんなこともすっかり忘れていた自分は、なんと愚かだったのだろう。


「――はい。わたくしも、もっと殿下とお話がしとうございます。わたくしも、ユリウス様を愛しております」


 背中にユリウスの腕が回され、その逞しい胸に抱き寄せられる。全身に温もりを感じて、ああ、自分は寂しかったのだと、姫はようやく自覚した。気にしないふりをしても、夫の訪れがないことが。模範的な王家の女性として、自分を抑えて生きていかなければならないことが。


 唇が触れ合って、心の頑なになっていた部分がほどけていく気がした。

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