第9話 書を捨てよ、街へ出よう

 翌朝、ユリウスとシャルロッテは、笑顔でミシュアの作った朝食を囲んでいた。二人が昨夜どんな夜を過ごしたのかはわからないが、主人が心からの笑顔を浮かべて、夫である人との会話を楽しんでいる様子だったので、ミシュアもほっと胸を撫で下ろしていた。

 朝食の後、


「ずっと城に閉じこもっていては窮屈だろう。街に出てみないか?」


 その誘いは魅力的だった。シャルロッテは二つ返事で了承し、少しの後、お忍び姿で城下に出ていく二人の姿が見られた。


 二人は、少し裕福な商家の子女のような、豪華ではないが小奇麗な格好をしていた。ユリウスは城下にはまあまあ顔を知られているので、変装のために黒髪のかつらを被っている。姫はあまり民衆の前に顔を出してはいないので、王太子妃だと気付く者はおそらくいないだろうが、念のため帽子を被っていた。


 王子は、時々こうやって身分を隠して、視察と称して街に出る。王族として出向いたのでは街の真実は見えないからとの弁だが、要は遊びたいだけだ。流石に人の出入りを見張っている門番にはバレているが、止めても無駄だと学習したので、門番も近頃は黙認している。

 しかし、この日は町娘のような格好をしたシャルロッテも一緒だったので、さすがに目をむいた。けれど、結局は黙って二人を通したのだった。しかも、その後の同じように変装をした男女の二人組が出ていく。彼らが護衛に付いているのならまあいいかと、門番も少し胸を撫で下ろして、二人の背中を見送ったのだった。


「……まったく、なんでわたしがこんなことを……。護衛なら、普段の格好でいいだろうが……」


 ユリウスとシャルロッテの後を追う二人は、宮廷魔術師エディリーンと、近衛騎士アーネストだった。エディリーンは男装を解き、下級貴族の娘のような質素なドレスに身を包んでいる。そのままでは目立つ髪も、ボンネット帽で隠していた。しかし、眼光の鋭さは相変わらずなので、変装の意味もあまりないかもしれなかった。


「仕方ないじゃないか。殿下が、この格好でないと護衛は許さないと仰るのだから」


 苦笑しながら言うアーネストだが、どこか面白がっているようにも見えた。彼も、公務に就くときの騎士装束ではなく、街を歩いていても目立たない、簡素なシャツとズボンに、上着を身に着けている。


「でも、これじゃあ剣も持てない」


 不服そうに口元を歪めるエディリーン。帯剣するドレスの令嬢などいたら逆に目立って仕方ないし、アーネストも愛用の剣を腰に下げることができず、短剣をベルトに差すに止めている。エディリーンも手に持った籐の籠の中に、短剣を隠していた。

 新婚夫婦の二人きりの時間に首を突っ込むのは野暮だが、お忍びとはいえ王太子夫妻が街に出るのに、護衛をつけないわけにはいかない。これは、昨晩エディリーンにこてんぱんにされたことに対する、王子の軽い仕返しだった。


「殿下も腕は立つし、王都の治安も悪くはない。そう気を張ることもないだろう」


 護衛は二人だけではない。隠密行動を専門とする者もどこかにいるし、街の警備兵もいる。どこかのんびりと言うアーネストに、エディリーンはふんと鼻を鳴らす。

 しかし、ずっと緊張状態にあった帝国との関係も、一旦落ち着きつつあるのだ。少し羽を休めても罰は当たらないのかもしれない。


「ほら、行くぞ。見失う」


 エディリーンとアーネストは、人混みに紛れようとする王太子夫妻の後を、そっと追いかける。ぶつぶつ文句を言いながらも、仕事はきっちりこなすのが、この宮廷魔術師だった。

 偶然にも、ユリウスもここにいる二人も、家族の愛情というものを知らずに育った。これから仲睦まじい家庭を築いていくであろう姫と王子を、眩しいものを見るような気持ちで見守るのだった。




 ユリウスとシャルロッテは、どこにでもいる恋人同士のように、微笑んで寄り添いながら歩いていた。

 街はたくさんの人が行き交い、活気に満ちている。馬車を使ってもよかったのだが、ユリウスは自分の足で歩くのを好み、姫もそれに同意した。


 大通りには様々な店がある。肉や魚、野菜を売る店に始まり、食器や花、服に雑貨を売る店、食堂などなど。

 故郷ではほとんど城から出ることはなかったし、嫁いでからも婚姻の儀の際に市中を少し凱旋しただけの姫には、見るもの全てが新鮮だった。


 ユリウスは何か欲しいものはないかと尋ねるが、シャルロッテは色々と見るだけで楽しくて、満足だった。

 しかし、ある店の棚に陳列されていた、きらきらと光る、細いガラスの棒のようなものを見つけ、足を止める。


(きれい……)


 それは、姫の指を伸ばした手のひらよりも、やや長いくらいのものだった。先端は折れそうなほど細いが、その下は少し太くなって丸みを帯び、その後はまた細くなって、全体に流れるような流線型の模様がある。


「それは、ガラスペンというんだよ。海の向こうの島国から渡ってきた品さ」


 まじまじと見ていると、店主らしき中年の男に声をかけられた。


「ペンなのですか? これが?」

「そうさ。ここがペン先で、インクを付けて使う。ちょいと値は張るが、うっかり割ったりしなければ、羽ペンよりずっと長持ちする。この通り美しいし、装飾品としても、持っていたら楽しいだろうさ」


 羽ペンは、使っていると先が潰れてくるので、書き味を保つには削りながら使わなくてはならない。その作業がいらないとなれば、見た目とも相まってとても魅力的な品だった。


「欲しいのか? では買おう」


 値段を確認せずに即決できるのは財力のある人間の特権だが、どうしてペンなど欲しがるのか詳しく聞こうとしない姿勢も嬉しかった。

 紙にくるまれて、頑丈な木箱に入れられたガラスペンを受け取った姫は、今までになくにこにこしていた。


 二人はあちこちの店を冷やかし、小腹が空けば露店で買い食いをした。往来の隅で、テーブルも食器もなしでものを食べるという経験は、姫には初めてのことだった。だが、大概のことに挑戦して楽しめるのも、この姫の長所だった。紙に包まれた、甘辛いタレを浸けて焼いた肉や野菜を挟んだパンや、小麦を練った生地を香ばしく油で揚げた菓子は、たいへん美味だった。


「ユリウス様は、度々こうして街に出ているのですか?」


 姫が言うと、王子は内緒だぞ、と口の前に人差し指を立てる。


「民の様子を見るには、これが一番だ。民に何が必要か知るには、自分の目と耳で確かめるのが手っ取り早いからな」


 そう言って、いたずらっぽく笑う。

 これが、この国に生きる人々。この王都の他にもたくさんの街や村があって、その全てにたくさんの人が住み、それぞれの生活がある。

 それが、これから夫が背負っていくもので、自分も共にそれを支えていくのだと思うと、途方もないような、けれどふわふわと現実感のないような、変な気持ちがした。


「さて、他に行きたいところや、見たいものはないか?」


 そう言われても、王都にどんな場所があるのかよく知らない。姫は少し考えて、紙やインクを売っている店はないかしら、と思う。


(せっかく素敵なペンも手に入ったことだし……)


 執筆がもっと楽しくなりそうだ。姫は、宝飾品やドレスには興味がなかった。紙とペンとインクがあればよい。とはいえ、紙も金銀宝石ほどではないが、上流階級しか手に入らない高級品ではあった。

 しかし、嫁ぐ時にエグレットから持ち込んだ紙とインクは、尽きかけていた。小説を書いているのは内緒だから、王宮に商人を呼ぶのは避けたい。だが、公務に使うものを拝借するわけにもいかないから、街で入手できる手段がほしいと思っていたところだ。


 しかし、これは変に思われるだろうか。――いや、言いたいことはきちんと伝えなければと決めたばかりではないか。


「――では、紙とインクがほしいのですが。どこかに良い店はありませんでしょうか?」


 姫の言葉に、ユリウスは驚いたように少し目を丸くする。


「紙とインク? それなら、政務に使う分を仕入れるついでに、そなたの分を用意することもできるが……」


 予想通りの申し出に、シャルロッテは慌てて首を横に振る。


「い、いえ、それには及びません。実はわたくし、日記を付けるのが趣味でして。たくさん使ってしまう時もあるので、自分で好きな時に、侍女に買いに行かせられたらいいなと思っておりまして」


 姫は上品に微笑んで、真意をごまかす。


「紙やインクなら、扱っている問屋があると思うが……。しかし、ロッテがエグレットから持ち込んだもの以上に良い品は、なかなかないな。あれはどこで作られたものだ?」


 姫が嫁ぐ時に持ち込み、ユリウスにもおすそ分けした紙は、姫が密かに工房に命じて品質を改良させた、特注品だった。従来出回っていた品は、厚くてごわごわして、書き味があまりよくなくて気に入らなかったのだ。姫が自分の欲のために作らせたようなものだが、それは国内の製紙技術の発展に一役買っていたし、こうして夫にも求めてもらえるのは嬉しいことだった。


「それなら、こちらでも作れるように、工房を整えた方が早いかもしれません。職人を呼び寄せられるよう、交渉してみては?」


 輸送にも手間がかかるし、その方がきっと国内の産業の活性化にも繋がる。長期的に見れば、その方がいいだろうと思った。

 そんなことを話しながら、二人は港の方へ歩いていった。


 時刻はもう夕暮れに近い。空は茜色に染まり、夜の帳が近付いてくる。もうすぐこの時間も終わりかと思うと、少し寂しい。

 段々と、少し生臭いような独特の香りが強くなり、これが潮の香りかと納得する。やがて、目の前にたくさんの船が停泊する港と、水平線が現れた。沈みかけの太陽が、水平線に数多の明かりを灯そうとするように輝いていた。

 エグレットには海はなかったので、シャルロッテはこの光景を始めて目にする。その美しさに、思わず歓声を上げた。


「この景色を見せたかったのだ」


 ユリウスも海に目をやりながら言う。夕日に照らされたその横顔も、綺麗だと思った。


「……ロッテ、そなたはこの国をどう思う?」

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