1−9
窓が割れる。壁が砕かれる。風と共に現れるのは、幼い手を模した球体指。
動く。背後の廊下が削れる轟音。コンクリートの粉塵が舞っていく。
「っぁ、はっは、あ……!」
喘鳴めいた粗呼吸。形も何もない体勢。無様に、転げるように体に鞭を打つ。
膝が笑っている。足に力が入らない。肺に激痛が走る。心臓が早鐘を打って止まらない。
通路を左へ回る。一息つく間もなく、逃げる。
広がるカラフルな風船を掻き分ける。殺し合う人形の殺戮劇から目を逸らす。……それら有象をペンキの剥がれた手が、潰していく。
「きぁ、づっ、はぁ、はあ!」
思考を鷲掴みする恐怖。伸びる手の音が、正気を摩耗させていく。
体力が減り、精神が磨り減り、考えはままならない。ぐるぐると回り続ける、ハムスターになった気分。
「…………なん、で!」
飛び出した悪態。下手をすれば舌を噛切るのに、喘ぎと共にソレが出る。
「なん、で。なんで、な、んで、何で⁉︎」
疑問。疑問。疑問。
今の現状に対してではなく、わたしへの問い。
「なんでわたし、走って、⁉︎」
頭がおかしくなったのか。思わず疑ってしまう。
でも、おかしいのは今の自分の行動なのだ。
常に死を願ってきた。 いつ死んでもいい。いつ殺されてもいい。そう思っていたのは確かだ。今も変わらない諦観だ。
なのに。どうして、走っているのだろう?
足を止めて人形に圧殺されればいい。道化魔術師の言うように、解剖されるのを眺めていたらいい。先輩が回復するまで、時間を稼ぐ駒になればいい。
どれでもない。ただわたしは、生へと焦がれて向かっている。
光すら射さない暗夜行路の先へ。それがわたしには、心底理解できない。
死にたいと思っていたのに、目前にしたら逃走する。
「……はっ、」
言い訳だったんだ。
苦しいから。逃げたいから。思い出すのが痛いから、何も思わなくていい死に縋りついていたんだ。
誰からも必要とされていないことから、逃げていただけなんだ。
……向き合うことが怖いから、背を向けていただけなんだ。
だから。
だから彼女は、そんなわたしを「死人」と言ったのだろうか。
赤い花の中心に添えられたあの人と、同じように。
「────そりゃ、そっか」
納得したように、呟いて────視界が急速にブレた。
世界が転がる。遅れてくる轟音と、背中に奔る衝撃。
ぼやける光景にピントが合う。先程までいた廊下ではなく、いつの間にか中庭にいた。
瓦礫が落ちて、灰色の煙が童女人形の服を汚す。そこで漸く、あの人形がわたしを二階から引き摺り下ろしたのだと、気が付いた。
「ぁっっ⁉︎」
強襲する激痛。身体を横たわらせ、奥歯に砕けてしまうくらい力を入れる。
人形はわたしを捕まえて、後ろに放ったのだ。脊椎が無事なのが奇蹟だ。
焼けるような痛みが背中から全身へと向かう中、喉を鳴らす嘲笑。
中庭の頭上。木の頂きが指す天空に道化魔術師が冷笑を浮かべていた。
「もう終わりですか? まだまだ盛り上がりに欠けるんですがねえ?」
見下ろす魔術師。獲物を狙う爬虫類のような瞳が、興味の色を失った。
「いや、もう終わりかな?」
その言葉がなにを意味するのか、嫌でもすぐに分かった。
明かりが灯る。並べられた蛍光灯が、病院に本来の明かりを取り戻させた。
「そんな、何で……⁉︎」
さっきまで、誰も異変には気付かなかったのに。
……考えて、口の中が急速に乾いていった。
「先……輩……」
先輩は言っていた。部屋に術式をかけているから、暫くは気付かないと。
その術式が、突如として解かれた。魔術師がいるのに、不用意に先輩が解く筈がない。
頭に浮かぶのは、最悪の想像だ。横たわり、腐乱していく先輩を幻視する。
それは響き渡る絶叫と共に、掻き消えた。
乳白色の明かりに照らされた病院内。裂かれんばかりの劈く悲鳴。……聞こえてくるのは、かたかた、という奇怪な音。
「劇も佳境。クライマックスは過激でなくては盛り上がりませんからねえ!」
茫然と、正面に広がる全ての窓を見る。逃げて、追って、踊り狂う影の乱舞。
呻きと共に、飛び散る鮮血が、目に入った。
右目の視界が赤色に染まる。沁みる目を、拭うことはしなかった。
否、出来なかった。受け止めて、ただ呆然と、眺めているしかなかった。
地獄。小さな匣で行われる恐怖劇。悲鳴と哄笑、ナニカを刺す抉る音、流れ込んでくる鉄の異臭。────最早、えずくこともできない。
ナニカが、はっきりと折れた。
ずしん、と近寄る巨大人形の足。無感情に足元のわたしを、人形は見つめる。
その手が伸びる。掴まれたら終わりだ、逃げろ、と本能が告げる。
でも。
「……いいよ。もう、どうでもいい」
もう何でもいい。この悪夢が一刻でも早く終わってくれるのなら、生きていても死んでいてもいい。だからもう、早く終わらせてほしい。
懇願するわたしの想いが分かったのか、人形は手を下ろすのを早くした。
指が曲がる。ぎちぎち、と関節が歪む。それがどこか、今は目覚ましの音にも思えた。
「うん、それでいい。だから、だから────」
早く、終わらせてください。
わたしを、■してください────────
……失意の祈りが届いたのか、作られた指の先が、頭へと触れて。
「あら、あなた」
……声が聞こえたのと、人形が止まったのは、同時だった。
視線を向ける。中庭へと繋がる通路から、出てくる影。
大きく、目を見開いた。
しわくちゃの老婆。……今日、中庭にいた、あのお婆さんだ。
「どう、して」
判り切ったことを、言う。
術式が途切れて、目覚めるように人が起きている。だからお婆ちゃんがいるのは、不思議ではない。
最悪なのは、事態を把握できていないことだ。
じゃなければ、こんな状況で他人に声をかけない!
老婆の視線は、ずっと上を向いていたから。
ぎぎ、と童女人形の首が回る。息を呑み、数歩後ずさるお婆さん。
それを、つまらなそうに目を細める道化魔術師。
「感心しないな。端役ですらない者が劇へと上がるとは。質が下がるだろう」
道化師としてではなく、魔術師としてではなく。悪夢を敷いた劇団長としての言葉。
「潰せ」
短く、命じられた人形は、目標を変えた。
緩慢に動く。殺人の足音が奏でられる。お婆さんは、目の前の悪夢に、目を開くばかりだ。
わたしを見ているのは、誰もいない。
……今なら、逃げられる。
病院の入り口まで距離はない。全力で走れば、抜けられる。
道化魔術師の目も、童女人形の暗い空洞も、お婆さんの怯えた瞳も、わたしは入ってない。
静かに、立ち上がる。壁に手をつきながら、ゆっくり背を向ける。
『大切にしなさいね? 良い人ってのは、誰かの為に立ち止まれる人なんだからさ』
……ちくり、と心臓が痛む。
錯覚だ。たった一度親切にされたくらいで、赤の他人という関係はそのままだ。
わたしには助けられない。後悔だとか自責の念だとかをして、償った気になっているだけだ。
……大切な人を殺しておいて、他人を助けていいわけないんだ。
『お前のせいだ』
ああ、だから、何もしてこなかった。
『お前のせいだ』
ずっとそうしてきたんだ。
『お前の、せいだ』
見捨てたじゃないか。
忘れたじゃないか。
逃げればいい。全て投げ出して去ればいい。
────だから。やめたらいいのに。
息を吐いて、泣きそうな目を拭う。
死を願っていた。死んだら何も感じなくていいから。
こんなだから、死んでも後悔なんてない。しちゃいけないと思う。
……だけど。
あのヒトは、違う。
こんなわたしを、良い人と言ってくれたあの人は、違う。こんなところで、死んでいい訳がない。
こんな────デタラメに巻き込んでいい人じゃない!
「ぁあああああああああああ‼︎」
気付くと、叫んでいた。
まとわりつく後悔を振り払うように、走り出した。
向かう先は、童女人形の下。倒れるお婆さんの元へ。
「ほう、面白い! 少しは主役の意地を見せてくれるか!」
甲高く、本当に賞賛するように手を叩く道化師。その音が、今はたまらなく憎らしい。
「はっ、はあ、あ……バカ! バカ、バカ‼︎」
罵声が、玉虫色の空へと上がる。向けられているのは居座る道化魔術師ではない。他でもない、わたし自身だ。
後悔が早くも芽生える。何でこんなことをしているんだろう。わたし一人で、助けられる訳ないじゃないか。
単なる自己満足。自己犠牲に酔う蛮勇。考えなしの行動。
僅かに生き残れる可能性を棄てた、偽善の行動。
「そんなの、どうだっていい!」
人形の股下を通り抜ける。お婆さんの身体を、持ち上げる。あまりの現実離れした光景を見て、お婆さんは意識を失っていた。
「ぐっ、ぅああああああ!」
肩に手を回す、瞬間、先程の背中の傷が思い出したかのように反応する。焼けたような熱が駆け巡る。チカチカと、目が明転する。
活を入れるように、左足を思いきり蹴り上げた。
全体重がかかった人間は、それなりに重い。お婆さんもそうで、走ることはできない。虚しいことに、一歩ずつ歩くのが精一杯だ。
背中が痛い。重たい。逃げられない。今からでもいいから、投げ出したい。
「うるっ、さい!」
頭の中に放たれる声に、わたしは言った。
分かってる。こんなことしても無駄だって。結局わたし達は死ぬんだって。そんなの分かり切ってるんだよ。
でも。でもさ。
「誰かを見捨てて生きたら、今度こそ死ねないじゃない!」
死に縋って生きてきた。自分の苦しみが、有り触れたものだと信じたくなかったから。
死に委ねていた。後悔や何もかもから、開放してくれると思いたかったから。
それが今は、虚勢だと分かって。
本当はただ、苦しいから逃げていた卑怯者だって分かって。
……ほんとう、嫌になる。
このまま逃げたら、わたしはわたしを許せないって、分かりたくなかった。
「ふぅむ。まあ、クライマックスはこんなもんでしょうかね」
精一杯の抵抗を、嘲笑う幕引きの声が、天上から届く。
「人形劇はこれにてお終い。最後は人形に呑み込まれて胃酸に溶ける、といった後味の悪い結末です」
幕間の語りのように喋る道化魔術師と、その結末通りに動く人形。
前に巨大な掌。わたしは大人しく、握られてしまった。
人一人を抱えているのだから、躱せるはずもないのだ。
掴まれたわたし達は、人形の頭上に。顔を上げて、口が大きく開かれる。並べられた白い歯が、今はギロチンのように見えた。
「それでは皆様、さようなら。また次の夜にお会いいたしましょう!」
別れの挨拶が、言い放たれた。人形の掌が開かれる。
宙へ落とされる。慣性に従って、落ちていく。巨大な洞穴へと。
わたしは、同じように落ちるお婆さんへと目を向ける。ただ一言だけ、言う。
「ごめん、なさい」
それが、遺言。
視界が暗闇に覆われる。口の中に入って、唯一の出入口は即座に閉じられた。
噛むこともせず、呑み込まれる。
遅れて、ごくん、と嚥下する音。
下にはマグマのように茹る胃酸の液。わたしは、足元から液へと浸かって……
そこで、小坂緋茉莉は、死んだ。
直後。
爆発のような音が、空から響き渡った。
「────え?」
阿呆な声が漏れたのは、天空に立つ道化魔術師のもの。
天空には、ぽっかりと開いた孔があった。何かを投げつけたような、風穴のようなものが。
「まさか、結界を外から打ち破って────!?」
道化師の呟きは、そこで終わった。
視界の端が、急に明るくなる。
熱が、頬を引き裂いた。
下を見る。病院の囲まれた、花の中庭。たたらを踏む、巨大な童女人形。
────燃えている。
罅割れた手足から炎が奔り、乱れた金髪に引火する。空洞だった右目からは、火炎が漏れて踊り狂う。
人形が燃える。玉虫色の夜が燃える。悪夢に、劫火が灯る。
「なんだ……これは⁉︎」
魔術師の狼狽した声。理解できないが故の、焦った声音だった。
逡巡する道化魔術師を他所に、回答が現れる。
燃え盛る炎の調べが、一瞬消えた。
同時に。魔術師は信じられないものを見る。
童女人形が、真っ二つに斬られた。縦に一直線。薪を割ったかのように、左右に分かれる。
そこから飛び出る、一つの影。即座に道化魔術師は目で追った。
目に入るのは、二つの影。それは先程、自分が追い詰めて殺したはずの、老婆と少女だった。
そして。
「最悪だ、これは」
凛と響く、落ち着き払った声。その内に宿る、苛立った色。
「滑稽や浅慮を通り越して哀れだな。結界は借物、人形どもはどれも見掛け倒し。おまけに異国の言葉を借りないと術も動かせない。半端者が悪夢の主人とは、こんな面白い冗談は数百年あったこともないぞ」
火の粉が舞う。何かが、一閃に払われた。
背丈以上の赤い剣。持ち手が西洋剣、刀身が東洋の大太刀に酷似した両手剣。
それを担いで、ソレは言う。
「ああ、だから、私には効かない」
人形の亡骸に灯る紅蓮が、ソレに光を当てる。
赤い髪が、炎と共に揺れ動く。
「出来の悪い夢は、火と共に忘れられるのがお似合いだ」
林檎のように赤い瞳が、道化魔術師を射抜いた。
ツイン・スカーレッド 秋竹芥子 @Akitake2774
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