1−8
結果から言えば、宇野は結界術を早期に解除すべきだった。
空間を繋げる結界は捜索に優れている。隠れた者を炙りだすには確かに有効な術式だろう。
それによって結界自体が曖昧になるのは、仕方のないことだった。
結ぶとは、染まるを意味する。形は変わらないが空間と結界が同化する。それが、繋がる結界の最大の利点にして弱点。
その唯一の弱点を、道化の魔術師は逃さない。
「Qui multum habet,plus cupit」
重なる異国の言葉。合唱のように紡がれる歌。
「Quid rides? Mutato nominee dete fabula narrator」
陶酔を与え、自らの深部へと潜っていく自己暗示。声は更に強く、高くなる。
「Verba volant scripta manet」
……聖蹟は奇蹟の一端なら、魔術は心象の具現化だ。
ああなりたい、こうなりたい、と欲望の巣窟たる深部。それを魔術師は、心という。
単なる現象では限界があった。現象はいずれ発展と共に技術になる。移り変わる時代によって魔術もまた淘汰されていく。
故に魔術師は、その現象を持って、己が世界を創ろうとしたのだ。
世界を創る。結果としてそれは、魔術を生き永らえさせた。
自己の奥底にある風景。俗世の価値観に塗装されていない純粋な発露を、魔術師は望んだ。
己が世界で、世界を上塗りする。そんな馬鹿げた理想が、一時期本気で掲げられていた。
「Abyssus abyssum invocat」
話を結界に戻そう。
空間との境界の失くし、曖昧になった結界は非常に不安定だ。
もし結界が上塗りされようものなら、易々と塗り潰される。侵食するソレすら、結界は繋がってしまうから。
……そう、限定的とはいえ。
世界を創る、などという妄言が、叶えられてしまうほどに。
「Plaudite────acta est fabula」
かくて、劇団長の挨拶は終わった。
幕が下りる。三文芝居にカーテンコールはない。速やかに舞台から蹴落とされる
幕が開く。帳が上がる。
余興は終わり。
道化による、悪夢が始まる。
……夜空の色が、変わった。
夜は、不気味な玉虫色の天蓋に奪われた。揺らめき、渦巻く。吸い込まれそうな大気のうねり。精神が壊れても不思議ではない、色彩の狂った星月夜。
空の下で広がるのは、無数の風船。
中庭には、カラフルな丸い風船が所狭しと設置されている。高く浮遊するもの、空気が抜け縦横に飛翔するもの、その萎んだ残骸が地に落ちて、絵具で塗られたような道を作る。
その残骸を踏み抜く、噪音。
関節の長い少女の球体関節人形。愛くるしい少年の人形。あえて怪物のように拵えられた傷だらけのピスクドール。人間、もしくはそれ以上の大きい人形たちが闊歩する。
人形。人形。人形。
かたかた、と動く度に軋む身体。動き回る人形義眼。口ずさむ者は口を動かし、手を動かせるものは高く掲げ歓喜を示す。
その手に握られているものを、振り下ろして。
おもちゃのナイフで、少女人形の頭は胡桃のように叩き割れた。
溢れる腐り果てた大脳が水気と共に落ちる。
足元で割れた瓶から硫酸が流れ、崩れ爛れる少年人形。
根元から腐る足を、バタバタと壊していく。
松明を持った人形たちが、天高く掲げられたピスクドールに火をつける。
かたかた。かたかた。かたかた。
狂ったように鳴る動作音。悲鳴とも絶叫ともとれるソレは、実際は違った。
笑い。破壊される方もする方も、心の底から明るい笑い声。
人形に味方も敵もない。目に写るものが全て。それが同じ人形でも、役割を遂行する。
劇を。死劇を。趣味の悪い、面白おかしい舞台劇のために。
病を癒やす白き塔は、カラフルな外界へと変貌する。
「────────────‼︎‼︎」
吐き出す。胃に残っていたもの全て。抑えようとした手に、鼻につく胃液がかかる。
無理だ。抑えられない。吐かないと、正常でいられない。
びちゃびちゃ、と零れる吐しゃ物。服に付着して、汚れた手には不快感がまとわりつく。
が、この空間に比べればマシだった。
玉虫色の夜。人形たちの殺戮行進。そのパレードの下で飛び交う風船。
冬の寒さは消え、獣の息のような生温かさがまとわりつく。まるで誰かの胎内にいるかのような、気持ち悪さ。
何もかもメチャクチャだ。壊滅的な光景。異常な夜空。色彩の強いバルーン。空間の全てが精神に異常を与えてくる。
「先、輩」
「……侵蝕魔術。そんな時限爆弾を扱っていたなんて」
呻き声で、先輩は呟いた。わたしよりも、何倍も辛い声で。
かたかた。かたかた。
小気味よい音が、せり上がってくる。病院の外から、通路から、後ろから。
振り返る。冷たい廊下をデッサン人形が数体歩み寄ってくる。からから、と足を鳴らして。
わたしは、声を失った。
指。木製の身体を持つデッサン人形が、指が繋がれて構成されていた。
頭は親指で、他は親指以外の四本の指。足を踏む度に、ぐしゃ、と何かが潰れた。
その後から、赤いインクが、生々しく溢れていて────
「……、……!」
息ができない。身体が動けない。かちかち、と歯だけが恐怖で重なり合う。
……あの時と、同じだ。
桜の花が散っている。刻々と残るタイヤ痕。道路の中心に咲く、赤い花。
ああ……そういえば、あの時は人形を持っていたっけ。
人形は近づく。『右腕』を構成する『指』が、わたしの左頬へと触れた。
声も出ない。涙も出ない。ただ、身体が強張るだけ。
そんなわたしを見るように、人形の『頭』は近づく。指紋のような顔に、横一本の線。
それがゆっくり動く。開花するように。
……その、人のような■が、わたしと合いそうに……
……その閃光の弾ける音が、わたしの意識を取り戻させた。
デッサン人形の『頭』を貫く白き刃。先程の宇野先輩の剣だった。
人形は糸が切れたように、後ろへと倒れる。わたしは急いで退いた。乾ききった喉からは、絶叫すら出なかった。
「ダメだよ、緋茉莉ちゃん。恐怖を感じたら相手の思う壺だ」
振り返り、駆け寄る。膝を折り蹲る先輩の顔は、窺えない。
「情けない。女の子を護るのに、こんなザマとは」
くぐもった呟きは、傍にいて漸く聞こえるものだった。
……言葉が、出なかった。
両手の焼け傷は先程の比ではない。肉が腐り、黒く変色していた。顔も土気色そのもの、目は色を失い、どこに視点を定めているかも分からない。……見えているかも、怪しかった。
「嘘──ですよね?」
茫然と、言葉が出る。
先輩の状態に対してではない。そんな薄汚れた台詞を向けるべき人ではない。
誰に対してかは、明白だ。
「わたしの、せい……」
あの時、わたしは動けなかった。あの黒い魔弾が、恐ろしくて。避ける意志すら挫けてしまった。
その結果が、これだ。
先輩はわたしを庇った。あの黒い呪詛を一身に受け止めた。
その結果が、これだ。
苦しそうに喘鳴し、皮膚が乾いていく。腕からはもはや血も流れず、動くだけで紙吹雪のように、命の灯火は失いかねない。
ダメ押しに、足元にはあの模様もない。きっと余力はあったのだ。最後の最後に残った一欠けら。……その一撃を、さっき放ってしまったのだ。
その結果が、これだ。────わたしが招いた、最悪だ。
「あ、ぁあ……わた、し、わたし……」
自分でも哀れに思うほど、どうしようもない吐露だった。
どうしようもない。どうにもできない。招いたのは自分なのに、頼らざるを得ない。今にでも死にそうな人を、弱いわたしは呼ばざるを得ない。
……まただ。また、わたしが、招き起こしてしまった。
……もう、もういっそこのまま……
「ダメだよ緋茉莉ちゃん。それはダメだ」
短く、先輩が静止した。脂汗を流しながら、睨みつけるような鋭い目でわたしを射抜く。
「きみがやるのは、一つだよ。……ここから、逃げるんだ」
小さく、そう促した。
「結界は門があって成立する。これも例外じゃない。病院の外に出れば、きみは生き延びられる」
息絶え絶えな先輩の話が、半分しか入ってこない。
いや、待って。でもそうしたら、先輩は────
「僕は大丈夫。少し休めば動けるからさ。……だから早く、逃げろ」
咳込みながら、言う。
「アイツは、きみを狙ってるんだ────いいから、走れ!」
鬼気迫る先輩の怒号が鼓膜を震わせて────わたしは、漸く動けた。
走る。生温い、人肌のような廊下をひたすらに。出口なんて分からない。とにかく、前へ。
『おや。気付いていたんですねえ。勘が鋭い人だ』
嘲笑うように、道化魔術師の声が、空間に響き渡る。
『傷ついた獲物はじっくり狩ればいい。今はお嬢さん、貴方だ。わたくしを捉えた貴方に、興味が尽きませんねえ。その目に、秘密でもあるんでしょうか』
ねぶるような感触がまとわりつく。振り払うように、走り続ける。
『面白き劇にはインスピレーションが不可欠。わたくしは貴方から気付きを得たい。……ああ! 一つ思いつきました! 貴方の意識を人形に移して、自分の身体が解剖されていくサマを見せつけましょう! どんな気分なんですかねえ、自分の身体が別れていくのを、客観するというのは!』
まくしたてる道化魔術師の残酷な響きに、耳を塞いだ。
『ああそうだ。一つ良いことを教えましょう。わたくしの魔術は、対象が恐怖を感じれば感じるほど強力になっていくのです。何故このタイミングで言うのかって? それは、貴方がなんの力もない端役だからです。本来は舞台に上がることすら許されないのですが、上がった以上は物語の設定を説明しなければなりませんからねぇ』
けれど。魔術師のせせら笑いは防がれない。
『逃げなさい逃げなさい。どこまでも遠くへ。動く方が甲斐がありますし────なにより盛り上がる』
ぱちん、と何かが弾ける音。
ばりん、と何かが割れる音が、一斉にした。
外側の窓。玉虫色に覆われた月の光は、今は影に覆われていた。
幼い童女を想わす巨大人形。乱れた金髪、煤けた頬、右目は落ちて暗い空洞が一つ。それらが棄てられ朽ちていく人形のものと覚るのは一瞬だった。
その一つしかない、無機質な碧眼が、わたしを捉えている意味も。
『役者は整えた! 怨念満ちる朽ちたおとぎの人形の手から、彼女は逃げられるかな?』
誰に言うでもなく、姿の見えない道化師は言い放った。
同時に、序幕の合図。
人形の魔の手が、迫り来る。
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