1−7

 わたしはずっと、動けなかった。

 正確には、目を離せなかったというのが正しい。

 戦う先輩を、背後から見ていた。幽霊を次々と倒していく先輩に目を奪われていた。

 

 青い円陣が解かれる。水が引いていくように消えていった。額に手を当てる先輩が、見慣れた微笑みを見せる。


「終わったよ緋茉莉ちゃん。これで今回の件は、無事解決だ」


 そう、彼は言った。安心させるように、柔らかい口調で。


「────────え?」


 それに覚える、強烈な違和感。

 いや、違和感どころの話ではない。湧くのは、混乱だ。

 何故、とわたしは思う。どうして、とわたしは先輩を見る。

 違う。それは違う。

 分からないのか。


 通路の最奥。青白い月光が刺し込む奥の方。白百合の亡霊たちの背後に佇んだ、髑髏の双眸に気付かないのか────!


「先輩、後ろ────!」

 悲鳴にも似たわたしの声と、先輩が振り向いたのと、



「《食べ、飲み、遊べ。この世に勝る娯楽は無し》」



 高らかに唄うような声が聞こえたのは、同時だった。


 乾いた音が、静寂だった病院に響き渡る。銃声だとかそういう無機質なものではない。乾いた喉を裂くような、呻きにも似た音。

 ソレは、黒い光弾となって、放たれた。

 砲弾にも似た大きさ。仮にもし砲弾だったら、どれだけよかっただろう。黒く覆われたソレは、弾というには生々しすぎた。

 ……怨嗟。喉を引き裂かれ、鮮血を零しても尚、相手を呪う呪詛の塊。

 それを見るだけで、わたしは声を失った。立ち竦んで、わたしは動くのが遅れて────


「っ! 護れ!」


 耳を塞ぐのと、劈くような声が聞こえたのは、どっちが先だったか。

 轟音が目の前で鳴り響く。吐きそうな嫌悪感が、霧散する。わたしは耳から手を離して、正面を向いた。


「く────そ……!」


 聞こえるのは、苦痛に満ちたもの。臭うのは、鼻にまとわりつく醜悪なもの。

 目に入るのは、護るように立つ先輩の姿。その両手が、だらん、と力なく垂れている。

 両手の指から滴る血。腕の大部分は、火傷を負ったように皮膚が爛れていた。

 鈍感なわたしでも、瞬時に理解させられる光景。

 あの呪詛を、先輩は受け止めた。そうせざるを得なかった。

 わたしが、後ろにいたから。


「っ、先輩!」


 震える足を動かして、先輩の隣に行くと身体を支える。

 伝わってくるのは、病的なまでの高熱。

 額から脂汗が溢れ出て、呼吸は乱れて安定しない。息を吐くのにも、吸うのにも、傷を抉られたような苦痛の表情を浮かべている。


「呪いの一撃……北欧の呪詛か。陰湿なものを使うな」


 喋ることすら困難とする最中で、先輩は呟いた。

 そして、


「ははは! そりゃあどういたしまして! 何しろ死にそうでしてねえ。一つ芝居でも見なければ、わたくし干乾びて木乃伊になりそうだったのです!」


 甲高い、興奮した哄笑。それに混じる、称賛と嘲りの言葉。

 足音が近づく。ちりん、ちりん、と何かが鳴る。

 これは、ベルの音……?

 わたしは音のした方へと向く。月光が、ソレの姿を現す。


 赤と黒を基調とした派手な服装。その右手には、魔法使いが持つような杖。分かれた枝には全て小鐘が括りつけられていて、折れてもおかしくないほど傾いている。

 ソレは左手を顔へと持っていく。髑髏の顔を覆うようにして、ゆっくり下ろす。

 顔が変わった。まるで化粧を落とすように、髑髏から白塗りした顔へと変わる。服装も相まって、魔法使いというより、道化師みたいだった。


「面白いモノが見れると聞いて来れば、ああ────ここは退屈です。退屈、窮屈、鬱屈! 余人の何と失墜したことか! よもや布越しに喜劇を見るだけ! 絞首台に吊るされる罪人へ罵詈雑言を吐く混沌とした熱狂もないとは! 下らない下らない下らない!」


 癇癪を起し、乱れた髪を掻く道化師。深く掻いて、皮膚が削れて血が流れる。三本の血が左目を通り頬を濡らしていく。


「ですので、わたくしなりに喜劇を成そうとしたのです。怨霊死霊に襲われる人々。出口は閉じられ、我先へと逃げ惑う愚人。……と、考えたのはいいのですが、前もって考えられたものは大抵つまらない。ですので、脚本を壊すエキストラが欲しかったのです」


 左手で血の跡をなぞる。線が太くなり、獣に抉られたような痕へと変わった。


「アナタは良い仕事をしてくれた! お陰で退屈を凌げましたよ! まあ、終わったらサッサと退場させたかったのですが────」


 道化師の瞳が、じろり、とわたしを見据えた。


「存在まで消していた筈なのに、どうして分かっちゃったんですかねえ」

 低くなった声は、獰猛な獣の息遣いのソレだ。口を噤んで、悲鳴を堪えるしかなかった。


「しかし! アドリブに強いのがわたくし! アナタが斃した霊の残滓をかき集めて、魔弾として撃たせていただきました! 如何です、死者の呪いというのは?」


 邪悪な笑みを浮かべる道化師の問いに、先輩は答えない。


「……陰湿なのは相変わらずだな、お前のような魔術師メイガスは」

魔術師メイガスより、奇術師マジシャンと言ってもらった方が嬉しいですねえ」

「奇術師……だからそんなにお喋りなのか」


 はっ、と笑う先輩。


「助かったよ。お陰で、火が点いた」


 道化師が怪訝な顔を浮かべた、その刹那。

 ダンッ、と床を弾く衝撃。わたしの目の前から、先輩の姿が消えた。


「むっ!」


 驚きの息が道化師から漏れる。わたしは目の前の、先輩がいた床へ視線が向く。

 叩き割れたタイルの残骸の下に、青い紋様が踊る。幾度となく護ってきた、青い円陣。

 足裏に展開されたそれは、正しく発火装置でもあった。

 足元の一点に集中させ、自らを銃弾のように放つ。

 先輩の影が、高速で道化師へと直進する。月光が黒い軌跡を捉える。

 影が弧を描く。くるり、と体を捩じらせて、青く光る右足の蹴りが道化師の左頬に入れられて────


「《世界へ騙る。アナタが臨む通りに》!」


 甲高い音が、鼓膜に届いた。

 ガラスが割れ、床へと散らばる。砕けたガラスが嘲るように、先輩を写す。

 茫然とした顔は、当然のものだった。

 道化師は、確かにいた。先輩の影に反応できず、気付いた時には遅かった。

 反撃も回避も不可能。それより早く、白い頭を吹き飛ばすのが先だった。

 なのに。

 呪文めいた詠唱。自己を鼓舞するために唱えられた一節を口ずさんだ。

 たったそれだけで、道化師は自身と鏡を入れ替えさせたんだ。

 典型的な奇術。入れ替わりは手品の初歩。技術に賞賛はあっても、驚愕に塗れることはない古典的手法。

 それが、このような状況でなければ。

 手垢のついた古典が、今はどんな魔法より、実現不可能だと思えてしまえた。


「いきなりとは怖いですねえ。危うく死ぬところでした────いや、もう死んでいるんですけどね、わたくし!」


 どこからともなく聞こえる哄笑は、幾多にも重なって雑音を引き起こす。

 道化師の姿はどこにもない。ただ、見えているだけだ。

 並べられた窓。夜景を背後に描かれた人物画は、わたしたちをねめつける。


「流石は奇蹟の代行者。その体、もう十分に呪いが満たされている筈ですが?」


 手の届く、けれど絶対に触れられない世界を、宇野先輩は睨み付けた。

 それが強がりだとは、流石のわたしも理解した。

 今のが、最後の一撃だった。渾身の力を振り絞った突撃。全霊をかけた奇襲。

 完全な不意打ちが外され、残されていた余力は先輩にはない。

 あの火傷が、更に先輩を蝕む。呼吸が安定せず、目の光も薄い。それでも敵を睨み付けるのは、最後の意地だろう。


「ともあれ、もう幕引きといたしましょう。貴方は良い三文芝居を見せてくれた。ですので、わたくしもちょっとした劇を開いてあげましょう。幸い、今日は美しい月だ」


 讃えるように語る道化師。

鏡に写る半透明な体が、病院の外を写す。

灰色の雲の間にいる新月が、スポットライトかのように、道化師を照らした。


「それでは皆々様。今宵の人形遊び《グランギニョル》を、ご鑑賞あれ」

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