藤原家の弓争い

江葉内斗

藤原家の弓争い

 時は平安時代、藤原氏はまさに朝日の如き勢いでその力を伸ばしていた。

 摂政・関白を独占し、全国の地主が藤原に荘園を寄進し、皇室に多くの娘を嫁がせ、天皇をも凌駕する権力を手に入れてもなお成長がとどまることを知らず、「天下人」という言葉は当時存在しなかったが、彼ら藤原氏の中で最も力盛んなものこそ当時の天下人であっただろう。


 しかし、摂関家に生まれた誰もが、摂政・関白に成れるものではなかった。

 応天門の変、菅原道真の左遷、あんの変と、藤原家に対抗する勢力は悉く粛清された。そして外部に敵がいなくなった今度は、身内で争うようになったのである。

 安和の変の後、藤原兼道・兼家の兄弟が熾烈な争いを繰り広げた。長い戦いの末、兄・兼道が死去。ようやく弟の兼家が、986年に即位した一条天皇の摂政となったのだ。

 「やあ、せんよ」兼家の娘・藤原詮子は、一条天皇の母親である。

 「そなたが皇子を生んでくれたおかげで、儂は摂政になれた。これからも兄弟の出世のために頑張っておくれ」

 「はい、父上」この時代、天皇の外戚(母方の親戚)であることがとても重要であった。なぜなら、貴族の子は母親の実家で育てられるからである。代々自分の娘や妹を皇族に嫁がせ、幼くして即位させた天皇の摂政になり、天皇が成長すれば関白に成るというのが、藤原氏が権力を保ち続けてきた背景にあった。

 そして兼家が亡くなり、990年に長男の道隆が関白を引き継ぐ。

 このあたりから、本編の二大主人公・藤原これちかと藤原道長の、中世でもまれに見る権力争いが始まるのである。



 994年、藤原伊周が内大臣に任ぜられた。

 道長を始め三人の先任者を差し置いての昇進だった。

 これには父親である道隆の、強引な引き立てが背景にあったとされている。

 道隆は自分の息子に関白を継いでほしかったのだ。

 それに比べ、道長は992年に権大納言になったばかり。道長は年下の伊周に先を越された気分で、大変悔しかった。

 しかし、道長にも後援者はいた。姉の詮子である。

 「姉上……俺は悔しい。甥の伊周には先を越され、兄の道隆も俺を毛嫌いしている今、俺はもう関白にはなれねぇのかな……?」

 落ち込む道長を、詮子は力強く励ました。

 「そんなに弱気になってはいけませんよ、道長。あなたのお父様(兼家)もまた、辛抱強く機会を狙い、ついに摂政にお成り遊ばされたのを忘れましたか! 今は辛抱するときです。あなたはいずれ、関白に成る男ですから」


 そんな時、伊周が南院で競射(弓矢の大会)をやると言い出した。

 内大臣自ら競射を開くということで、大内裏ではその話でもちきりだった。

 たまたま話を聞いていない道長が牛車に乗って家に帰ろうとすると、応天門を護衛する二人の(皇族や貴族を護衛する兵士)が話していた。

 「聞いたか!? 内大臣様が競射を行われるそうだぞ」

 「さっき女房達が話してるのを聞いたよ。へっ、伊周様は色男だからなあ、女にもお困りになられん」

 「どうだ、お前出るか?」

 「やなこった。伊周様は何も顔がいいだけじゃねぇよ、弓をとっても筆をとっても一流なんだから、ほれぼれしちゃうね!」

 「オイお前、それ本気で言ってるのか?」

 「んなわけねーだろ」

 二人は笑う。

 「おいっ、そこの衛士」道長が窓から顔を出し、二人に声をかけた。

 「あっ! 権大納言様!」

 「道長様! へぇ、あっしらにどのようなご用件で?」

 いくら伊周より位が低いとはいえ、藤原北家の男である。二人は道長にへらへらしながら頭を下げる。

 「伊周が……いや、内大臣様が競射を行うというのは本当か?」

 「へぇ、宮中ではその噂でもちきりでござんす」

 「……それはいつのことだ?」

 「へぇ、三日後の八つ半(午後三時)に、南院で行われるそうで……」

 「わかった、感謝する」そう言うと、すぐに帰ってしまった。

 道長の様子を見て、衛士はいろいろと噂した。

 「なあお前、道長様の奴なんておっしゃった? だとよ」

 「みっともねえな、関白様(道隆)の御嫡子とはいえ、二十一の若造に官位で負けるんだからよ」

 「いやいや、二十一で内大臣にまで昇進する伊周様が特別なんだよ!」

 「それもそうか、ハハハハ!」



 そして三日後の八つ半、南院には多くの人が集まっていた。

 「本日は集まっていただき感謝する。これより競射を行う。最も優秀な成績を収めた者には私から恩賞を取らすぞ!!」伊周の激に人々は沸いた。


 競射は一人四本ずつ矢を射るという決まりであった。

 まず、伊周自身が矢を射る。

 あの衛士が噂していた通り、伊周は何も父親の後ろ盾のみでこの地位を気づいたわけではない。弓馬は勿論のこと、作文、管弦、和歌と、貴族が嗜む遊びは大抵一流と呼ばれた。

 そんな伊周なので、当然一本目は当たる、二本目も当たる、三本目、四本目と続けて的に当ててしまった。

 これには観客も息をのむばかり。

 「いいぞー、伊周! 恩賞全部お前でもらってしまえ!!」伊周の父・道隆が声援を送る。すでにずいぶん酔っているようであった。

 その後も若い武士や貴族など五十人以上の人が挑戦するも、伊周と並ぶ四本的中の記録を出したのは伊周含め十五人だけであった。

 続く二回戦、今度は六本ずついることになった。

 伊周はこれも六本全て当ててしまい、残り六人。

 三回戦では十本の矢を射ることになった。

 伊周はまたしても次々に的に当て、なんと七本連続で的に当てることに成功した。

 誰もが伊周の腕に酔いしれ、歓声を浴びせた。誰もが伊周の優勝を確信した。

 しかし、いよいよ八本目の矢を弾き絞り、狙いを定めて放つと、矢は的の中心から逸れて枠に当たり、跳ね返って地面に落ちてしまった。さらに九本目の矢もまた、的の枠に当たってしまったのである。

 これには一瞬場が白けたが、伊周は十本目の矢をしっかり的に当て、十本中八本的中の成績を残した。


 いくら二本外れたからと言って、十本中八本である。他の五人はこの記録を上回れず、伊周に苦杯を飲まされた。

 伊周は勝った。誰の力も借りず自分の力のみで頂点に立ったのだ。伊周の優勝を底にいたすべての人が歓喜で迎えた。

 特に道隆の喜びぶりはすさまじく、手に持っていた杯を勢い余って放り投げ天井にぶつけて割ってしまったほどであった。

 そんな中、伊周は一人、自分の能力の尊きことを再確認していた。

 (今まではやれ関白の七光りだの、若造だの言う者もいたが、これでもう誰も私に文句は言うまい。あの生意気な道長も言うまい。次の関白は私だ!)

 伊周が勝利に酔いしれていた時、急に観客の騒ぎ方が変わった。先ほどまで歓喜に満ちた声を上げていたのに、急に何か慌てるような騒ぎ方になったのである。

 群衆の中から、一人の男が歩いてくる。

 「おやおや伊周、面白そうなことやってるじゃないか」

 「道な、叔父上……」広場の真ん中で、群衆に囲まれながら、藤原氏最大のライバル同士が向き合う。

 「なんだ、道長か? もう競射は終わったぞ……フヒー!」道隆は酒の飲みすぎで前後不覚になっていた。

 「いえ、父上」伊周が口を開き、そして道長に向かって言った。


 「叔父上、私と勝負いたしましょう」

 群衆は様々な感情を以てざわめいた。なんだよ、まだ続くのかよ、と思う者もいれば、あの伊周様が道長様と勝負する様子が見られるとは、と思う者もおり、またある女房は、伊周様があの道長様如きに負けるはずがない、と思っていた。

 「いいぞ、もとよりそのつもりで来ている」

 道長から承諾の声、これには道隆も大いに喜んで「よーし! やったれ道長!! お前もいいところ見せたれ!!」と、普段の道長を毛嫌いしている様子からは想像できない笑みを浮かべていた。


 「私は十本中八本命中させました。叔父上はいくつ当てられますかな?」

 「ふん、この距離なら百発射ようと百発当たるよ。二本も外したのか? やっぱ駄目だなーお前は」道長は公衆の面前で伊周を挑発する。道長の横暴っぷりに観客たちも冷や汗。

 伊周はその発言が癪に障ったが、「叔父上……いくら年長者と言えど、あなたは権大納言、私は内大臣。位の差と言う者があるでしょう」と、挑発を返す。

 「はいはい、そうでございましたね、内大臣様……」道長は軽く受け流し、一本目の矢を取ってキリリキリリと弓を弾き絞る。

 的に狙いを定め、放つ。

 矢は一直線に飛び、確かに的に当たった。

 「おお、お見事」と、伊周がお世辞を言う。

 「まだまだこんなものじゃねぇよ」と、道長はさらに矢を取り、次々に射放つ。

 放たれた矢は次々と、まるで陰陽術によって矢が的に誘導されているかの如くに命中し、遂に伊周の記録に並ぶ八本目を命中させた。

 その場にいた観客は皆伊周びいきだったので、道長の記録が伊周に並んだことで良い思いをするはずがなかった。

 道隆に至っては、すっかり酔いも冷め、この勝負の行く末をじっくりと見守っていた。

 九本目、これが命中すれば道長の勝ちというところまで来た。

 伊周は内心動揺を抑えきれていなかった。しかし、それでもなお自分の勝利を確信していた。

 (八本連続で命中だと……!? いや、まだだ、まだ後二本残っている。私でさえ二本外したのだ。あの道長如きが私よりも勝る、ましてや十本全部当てるなどということは、決してあり得ん!! そうだ! 奴は絶対に外す!!)

 運命の九本目、道長が弓を引く。

 弓を構えてから、矢が放たれるまで、どれほどの時が経っていたのか、観客や伊周はよくわかっていなかった。

 実際にはものの数秒で放たれたというのに、そのような錯覚をしたということは、既に道長が放つプレッシャーに押し負けていたということになるのだろう。


 九本目の矢は空気を切り裂いて飛び、ひいふっと的に当たった。

 道長の勝利が確定した。

 しかし、道長が勝利したということは、伊周が敗北したということ。誰も喜ばず、まずい、これはまずいぞ、何とかして伊周様のお顔を立てねば、などと思っていた。

 当の伊周本人は、悔しさと怒りで手が震えていた。弓を石畳に叩きつけた。

 「クソッ、なぜこの私が道長に……!!」先程までの気高きオーラを纏った伊周は、どこにもいなかった。

 道長は勝ったので、満足して帰ろうとした、その時。

 「え……延長戦をしましょう!」観客の誰かがこう口走った。誰が言ったかはわからなかったが、その言葉で全員が静まり返った。

 「そ、そうですよ、延長戦をしましょう!」「そうですよね! 後二回、後二回だけ、二回だけですから! よろしゅうございますね、道長様?」そこにいた誰もが延長戦を希望した。観客に交じって道隆も「そうだぞ道長! 延長戦をやれ!」と野次を上げた。

 「黙れ! 見苦しいぞお前達!」その時、道長が切れた。

 「何を騒ぎ出すかと思えば、延長戦!? 俺は勝った、伊周は負けた! それでこの競射は終わりだろう!!」伊周びいきの雰囲気に耐えられず、声を荒げた。

 今この場で勢いがあるのは、誰が見ても道長である。誰もその意見に反論できず、黙りこくってしまった。

 しかし、道長をいさめる声が上がった。

 「道長、受けてやりなさい」

 詮子であった。

 「姉上!?」道長も驚いていた。いつの間にか道隆の隣に座っていたのだ。

 「道長、あなたなら何度伊周と競っても勝ちます。二回の延長戦位、受けてあげたらいかがです」

 「な、詮子! 貴様うちの伊周が何度競っても道長に負けると……!?」詮子の兄である道隆は大変激怒した。

 が、「わかりました、やりましょう」道長は意外にも素直に応じた。


 観客や父親に庇われた伊周は、これまで味わったことのない恥辱を感じていた。

 しかし、延長戦である。どんな過程を過ぎようと、延長戦である。

 現在伊周の得点は八本、道長は九本。伊周が二本とも命中させ、かつ道長が一本も当てられなければ、伊周の逆転勝利である。

 伊周はこんな追い詰められた状況でありながらも、いまだに自分の勝利を信じて揺るぎなかった。


 「叔父上、お先にどうぞ」

 「ええ、仰せのままに」道長が一歩前に出る。

 矢を取って、弓を引き絞りながら、声高らかに叫んだ。



 「道長の家からミカドや皇后がお立ちになるのなら、この矢よ当たれ!!!」



 絶句。

 その場にいる人間はもれなく絶句。

 伊周も、道隆も、多くの観客もみな絶句していた。

 ……ただ一人だけ、詮子だけは動じずに、道長の行く末を見守っていた。

 矢が放たれる。

 矢は風切り音を奏でながらただまっすぐに飛び、白色の真円のど真ん中を射た。

 その完璧にも等しい技に、人々は息を呑み、そして道長がまた伊周に勝ってしまうことを恐れ、冷や汗をかいた。

 そう、当たったのだ。道長の家から天皇や皇后が立つならば当たれと念じて射た矢が、当たったのである。

 次は伊周の番であったが、弓を持つ手は震え、顔は未熟な林檎のように青ざめていた。

 そうでありながらも、道長に対する対抗心は失われていなかった。

 (私より出世が遅いくせに……あの道長の家からミカドだと!? 皇后だと!? 立つはずがない……あの道長の家から!! 父上亡き後関白を引き継ぐのは嫡子である私だ!! そうすれば道長の娘など皇室に絶対に嫁がせてなるものか!! あのまじないは私に対する挑戦状だ。私も同じ文言を言おう。後悔させてやる! 必ず当てる。必ず当てて見せる!! 私を誰だと思っている、私は関白藤原道隆が子、内大臣藤原伊周だぞ!!!)

 震える手を抑え、深呼吸し、弓を構え矢を取って、ゆっくりと弓を引き絞る。

 (言うぞ……言うぞ……『伊周の家からミカドや皇后がお立ちになるのなら、この矢よ当たれ』だ! 必ず言う!)

 「こ、伊周の家からっミカドやこ、皇后がお立ち、お立ちになるなら、この矢よ、あ、当たれ!!」

 声を張り上げようとするが、恐怖と動揺で声が裏返り、歯切れの悪い言い方になってしまう。

 そのまま放たれた矢は、どこへ行くか無辺世界を一直線。外れた原因は腕の震えか精神的な動揺か、あるいは伊周の家から天皇や皇后は立つことはないということか……

 伊周の顔は完全に生気を失い、その場にへなへなとへたり込んでしまった。

 そこへ、道長が一歩前に出る。

 その右手には矢が握られていた。

 「お、オイ道長! もう勝負はついて……」道隆が止めようとする。

 しかし道長は「何をおっしゃるのですか兄上、後二回って言ってたじゃないですか、もう一本残っています」と、悪だくみをしている子供のような表情で笑った。

 そして弓を引き、矢を的に向けて、また言い放った。



 「摂政関白に成れるのならば、この矢よ当たれ!!!」



 またしても狂気の沙汰としか思えない発言。

 しかし、直後に放たれた矢は、先ほどと同じかそれ以上の勢いで、まるで的を打ち破るかのような勢いで、その真円の中心に当たった。

 その様子を見て詮子、こっそりとほくそ笑んだ。

 さて今度こそ帰ろうとした道長だったが、なんだか伊周の様子がおかしいことに気づく。

 「おーい、大丈夫か? 内大臣様」道長が伊周の顔を覗き込もうとした直後。


 「うわあああああああああああああああああああ!!!」伊周が突如立ち上がり、弓を拾って矢を持ち、やたらめったらに的に向かって放った。

 しかし、射れど射れども矢は当たらず、全て生け垣の中や、石畳の上に落ちてしまった。

 「当たれ!! 当たれ!! 当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれ当たれえええええええええ!!!」


 「もうやめろ伊周!! 射るな!! これ以上射るんじゃない!!!」道隆が場に飛び入り、伊周を抑えつけた。

 「あああああ!!! あああああああああ!!!」伊周は既に発狂していた。

 その様子を見て、ようやく満足した道長は、騒ぎに乗じてその場を去ってしまったのである。



 さて、道長と伊周の争い、その結末がどうなったのか気になる読者も多いことだろう。その後の歴史を簡潔に述べよう。

 競射から約半年後、藤原道隆が亡くなった。

 道隆亡き後、関白の座は伊周に継がれるものだと、多くの人がそう思っていた。

 しかし、次に一条天皇の関白に成ったのは、伊周でも、ましてや道長でもなかった。

 「次の関白は、私の兄道兼にやってもらいましょう」道隆が亡くなり伊周が後ろ盾を失ったことで、今宮中で最も力を持つ者は、天皇の母である詮子であった。

 こうして次の関白は、道隆の弟兼道となったのだが……


 兼道が関白に成ってから数日後、突然道長の屋敷に早馬がやってきた。

 「申し上げます! 関白藤原道兼様、御闘病の末逝去あせられました!」

 「何、兄上が!?」さすがの道長も動揺した。まさか関白に成ってすぐに亡くなってしまうとは。

 人々は道兼の不幸を嘆き、彼を「七日関白」と呼んだ。


 こうなると次は、さあ、兄が二人とも関白に成ったから、次は道長の番だ、という空気が流れだす。

 しかし、一条天皇は自分と仲が良い伊周が関白に成ることを望んだ。

 そこで詮子は、道長を「内覧」に推薦したのである。内覧とは、関白とほぼ同等の地位である。

 関白に成った兄が二人もいたのに、その二人が早くに亡くなり、関白と同等の内覧にまで昇進したので、人々は道長を幸運の人と噂した。

 今、道長の敵は伊周ただ一人となった。


 しかし、道長と伊周の戦いは、あっけない形で幕切れを迎える。

 ある晩、一頭の馬が花山法王を乗せ夜の平安京を進んでいた。

 その牛車を物陰から狙う男……そう、伊周である。

 (あれは花山法王……やはり私のお気に入りである三の君の元へ通っていたという噂は誠であったか)伊周の中に、嫉妬の炎が燃え広がった。

 ちょっと懲らしめてやろう。そうだ、少し怖い思いをさせればきっと逃げ帰るだろう。そう思った伊周は弓を取ると、なんと法王に向かって矢を射かけたのである。

 矢は法王の袖を破り、地面に落ちた。もちろん法王が恐怖し、逃げ帰ったのは言うまでもない。

 伊周は大変満足して帰っていった。



 法王が会いに行っていたのが、まさか三の君の妹だったとは露とも知らずに。



 伊周は法王に矢を射かけたことが原因で大宰府に飛ばされてしまう。

 勘違いをしていた伊周は法王に対する怒りをあらわにしていたが、真相を知った途端、膝を折って後悔の念に溺れた。

 何故もっと噂の内容を調べなかったのだろうか、と。


 1016年、道長はついに後一条天皇の摂政となる。

 後一条天皇中宮威子を始め、四人の娘を天皇や皇太子に嫁がせ、道長の支配体制は揺るぎないものとなっていた。

 後一条天皇と威子の婚礼の夜、道長の邸宅では奥の帰属を招いて壮大な宴会が開かれていた。

 池に踊る煌びやかな装飾を施した船、舞い踊る美しい女房、最上級の酒と肴……まさに酒池肉林と言うに相応しい宴会であった。


 「皇族以外では、最高の出世ですな」一人が道長に話しかけた。

 「感慨深いものです。一首詠みましたぞ」

 どんな歌を詠んだのだろう、と、その場にいる者達がシーンと静まり返る。


この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思えば


 これは「この世は全て私の物。まるであの満月が欠けているところの無い様に完璧だ」という意味の歌である。

 多くの人は、その歌をなんと驕り高ぶった歌だろうと怪訝な思いをしたが、とりあえず道長の機嫌を取るために拍手する。

 ある一人が夜風に当たろうと、正門から外に出た。

 そこには、多くの名のある貴族たちの乗る牛車がずらりと並んでいた。

 「道長様にお祝い申し上げたいのですが」と話しかけてくる一人の貴族を前に、彼は思った。

 (ああ、本当にこの世は道長様のものになったのかもしれないな)



【藤原家の弓争い】:完

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