第3話 蝕む病魔


 

 けれども、NBAバレエコンクールのあの瞬間のためだけに自分のバレエ人生の全てを捧げたかのように、次第に久美子ちゃんの魅力的な舞は失われていきました。


「局所性ジストニア」という脳神経の伝達異常が引き起こす病気を発症したことを、数年後に彼女から告げられたのです。


 足が思うように動かない、舞っている最中に突然足が強張ったり急に力が抜けてつまづいてしまう……。それは繊細な所作が必要とされるバレリーナにとって致命的な病気でした。


 自分なりに調べた結果、スポーツ選手にごく稀に見られる病気で完治することが難しく、正確性や俊敏性を要する同じ動作を長期間繰り返し行い続けることで発症する可能性がある病気のようです。


 私に打ち勝つために過酷な稽古を繰り返したためにこのような疾患を患ってしまったのでは……と不安に駆られました。


「ううん、穂波のせいじゃないよ。第一、バレエの反復練習が原因でこんな病気を発症してしまうなら私と同じくらい、いや、それ以上に努力してる穂波だって同じ病気になってた可能性あるでしょ? きっと……これが私の運命なんだ……」


 久美子ちゃんは闘病しながら今もなお自分の舞を不吉なものと捉える私に優しく寄り添うかのように社会人になると東京に移り住み、「(公財)高天バレエ団」に所属してプロバレリーナとして私とともにステージ上で活躍しました。


 初めは私の目から分からなかった症状が年を経る毎に顕著に見られるようになって、一度はバレエ演劇『ラ・シルフィード』の主演に選ばれたものの、数ヶ月後に久美子ちゃんは症状悪化からこれ以上ステージ上に立って舞うことが難しくなったと劇団員達に涙ながらに伝えました。


 名声を馳せる前に舞台から退いて、代役として私が主演を務めることになり、そして今に至ります。


 東日本の震災が発生する日から数年前の春。三月の桜舞い散る夜の街路で、久美子ちゃんが結婚して劇団から退いで宮城県の海沿いの町に帰郷することを私に告げました。小学生の頃の同級生と結ばれたとのこと。


 第二の夢、都会の喧騒から逃れて故郷でのんびりと喫茶店を営みたいとはにかみながら語る姿に、私は「バレリーナとしてステージ上に立てなくなったことを悔やんでいないか」という問いがなかなか言えませんでした。


 それを見透かしたように彼女は「もう心残りはないかな。穂波にNBAで勝てたし、一緒にバレエが出来ただけで充分だよ」と言いました。


「何故、今まで私に親身になってくれていたのですか……? 今までのバレエ人生、久美子ちゃんのおかげで生かされてきたようなものです」


 私の長年の疑問に「にひひ」と笑みを溢す久美子ちゃんの姿が目に焼き付いて、風が吹き荒れ髪がなびいて桜の花びらが舞う中、一生忘れられない光景となって何度も、何度も、思い返すこととなりました。


「子供の頃から穂波の舞を見てたもんね。悔しかったよ、両親の前でいいとこ見せようと思ってたのに。仙台のステージ上であんな素敵な舞を見せられたのに『死の舞踏』なんて暗い表現するとこがどうしても許せなかった。楽しいバレエで私が死んでたまるもんですか」


 久美子ちゃんがのちに開業した喫茶店は気仙沼湾沿いの海岸にあって、落ち着いた照明が照らす古民家を利用した木造の小洒落たお店で、窓からは砂浜とどこまでも広がる大海原を一望できました。


 私が幼き頃に住んでいた内陸部の寛木町くつろぎちょうに柳津駅という木造の小さな駅があって、東京から帰郷すると、そこから電車に揺られて気仙沼市に住む久美子ちゃんが営む喫茶店に何度か足を運んだことがあります。


 喫茶店の掲示板に宮城県出身の著名人として以前カメラマンに撮影された私の写真が収められた防災ポスターが貼られるようになり、なんだか照れ臭くて剥がしてほしいと言いましたがその要望はなかなか応えてくれませんでした。


 久美子ちゃんが作ってくれたカフェラテがお気に入り。うさぎや熊のラテアートがとても可愛らしいのです。お客さんはそこそこ入るらしく、海水浴場に行き来する人やバイクのツーリングの途中で立ち寄る人もいるのだとか。


 夫もみんなも優しい人ばかりで心地良い、大好きな場所だと、バレエ時代から変わらぬ笑顔を見せる久美子ちゃんに安心して、彼女の第二の人生がより良いものでありますようにと、そう願わずにはいられませんでした。


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