第13話 身分証

 フィルレイン伯爵邸を襲撃したその翌日。

 まだ陽も登っていない早朝には、既にアリスは目を覚ましていた。窓からこっそりと宿に戻ったのが深夜だったことを考えると、ほんの数時間しか眠っていないことになる。だが、これでもよく眠った方だった。


「おはよう、アリス」


「ええ、おはよう」


 そう挨拶を交わすには些か外が暗すぎるが、しかしそれもいつものことだった。アリスはあの日以来、満足に眠ることが出来なくなった。眠たくならない訳ではなく、意識を手放すことが出来ない訳でもない。だがどうしても目が覚めてしまう。故に、短時間睡眠者ショートスリーパーというわけではない彼女は、目の下にいつもうっすらとくまを作っている。


「さて。これからどうするつもりだ?」


「何が?」


 そんなミラの問いかけに、アリスが不思議そうな顔を浮かべる。どうするも何も、仕事が終わったのだからアリスは聖教国へ戻るつもりであった。


「仕事は終わりだろう? 帰還の期日も設定されていない。あの男ユリウスが言っていたように、観光するのも悪くはないと思うんだが」


 ミラの提案は、アリスにとってはどうだっていいことでしかない。だが、ミラはアリスの為を思ってそう提言している。この見た目小さな兎でしかない精霊は、自らをアリスの保護者代わりのように思っていた。故に、もっとアリスに外の世界を見て欲しいと願っている。このままただ復讐のみに生きるのではアリスの為にならないと、そう考えての言葉だった。


 そんなミラの親心らしきものが、復讐に塗れた今のアリスに伝わることはない。幼い頃のまだ優しかったアリスならば、もしかしたら伝わったのかもしれない。だがミラはそれでもよかった。ミラの役割は、この少女が歩く捻じ曲がったをほんの少しでも正す事なのだから。


「……したいの?」


「私は人間の街に入る機会がそう多くはないからね」


 尤もらしい理由をつけて、ミラがアリスを誘導する。アリスと出会う前の、森の中で暮らしていた頃ならばいざ知らず、出会って以降は常にアリスと行動を共にしてきたミラだ。実際にはアリスとそう変わらない頻度で街に入っている。そのことはアリスも知っている筈なのだが、しかしそれ以上の詮索をしなかった。興味がないのか、どうでもいいことなのか。或いは、人の街を見たいというミラの好奇心を慮りでもしたのか。


「少しだけよ」


「ふふ、ありがとう」


 そうして一人と一匹は、今日の予定を決めた。

 つい数時間前、街の領主をその手にかけたとは思えないような図々しさだ。正体が露見することなどまるで警戒していない。仮にバレないと確信していても、こうも平常運転でいられるものだろうか。普通の感情を持ち合わせているのなら、僅かなりとも後ろめたさがあるのではないだろうか。


 この一連のやり取りだけを見ても、一人と一匹が『普通』の範疇から逸脱しているのは明らかだった。同じ穴の狢とでもいうべきか、常識人───無論、彼女は人ではないのだが───を気取るミラもまた微妙に感覚がズレている。なんだかんだといいつつも、やはり人間とは異なる存在だということだろう。


 その後、日が昇り街が目を覚ますまでだらだらと雑談をして過ごした一人と一匹。彼女達は街中に響き渡る朝の鐘と共に、何食わぬ顔で宿を後にしたのだった。




 * * *




 ミラを肩の上に乗せながら、ラフィネの街を堂々と歩くアリス。街は昨日よりもどこか騒がわしく、不安や心配、恐怖、そして喜びのような複雑な感情で溢れていた。どこの店も閉まっている、などということはないが、街のあちこちで住人達が立ち話をしている姿が見られた。


 さしものアリスもその理由が分からないほどではない。ただ興味がないだけだ。これまでにも要人の暗殺を行ったことがあるアリスにとって、それは何度も見たことがある光景でしかなかった。そんな街の住人達を横目で見ながら『噂が広まるのは早い』などと、まるで人ごとの様にぼんやりと考える程度である。


「それで、何処に行きたいの?」


 思惑はどうあれ、今回の散策を提案したのはミラだ。変わらず街に興味のないアリスは、行きたい場所など特にない。故に、行き先も全てミラに任せるつもりであった。


「それなんだがね。私はふと思ったんだ」


「何よ?」


「何か一般的な、身分を証明出来るものがあれば、アリスも街にも入りやすいのではないだろうか?」


「ああ、そういう……」


 そこまで言われれば、ミラが言わんとしている事がアリスにも分かった。それはかつて幼かった頃、アリスも取得しようとしていたものだったから。


「ああ。冒険者登録をしてはどうだろう?」


「冒険者証が目当てなのね」


「そうだ。確か、一定の年齢であれば誰でも登録出来るんだろう?」


 ミラの言う通り、冒険者は十三歳以上であれば男女問わず、誰にでもなれる職業だ。冒険者ギルドにて、初期費用として銀貨を一枚払うだけでいい。


 冒険者とは、魔物の討伐や素材、鉱石等の売却や人々からの依頼をこなすことで生計を立てる者達のことだ。依頼を受ければ基本的に何でも行う彼らは、所謂『何でも屋』に近い。持病や怪我等、そういった個々の事情に関係なく、彼らの活動は全てが自己責任。登録したからといって、負傷した際にギルドから何かを保証されるわけでもない。無論高ランクになれば色々と優待を受けられるが、そんなものはほんの一握りだ。だが、彼らは皆それを夢見てギルドの扉を叩く。


 何でもこなすとはいえ、彼らの仕事は主に戦闘方面であることが殆どだ。討伐、探索、護衛といった依頼がそれにあたる。それらを正規の騎士に依頼するとなれば、その費用は非常に大きな額となる。故に、比較的安価な費用で雇うことが出来る冒険者の存在は、この世界に於いて非常に大きな役割を担っている。


 また冒険者はその名の通り、未開の地の探索等でも活躍する。国に所属している騎士などよりも、冒険者のほうが余程フットワークが軽い。魔物や、何かしらの異常が確認された地域の偵察もそうだ。ダンジョンと呼ばれる危険地域に潜り、希少なアイテムを持ち帰るのも彼らの仕事の一つだ。そうして持ち戻られたアイテムの数々が、国や街を豊かにする場合もある。


 そういった理由から、冒険者の需要は計り知れない。成功した際に得られるものも大きい。だが常に危険と隣り合わせであるが故に、命を落とす者が後を絶たない。ともすればギャンブルなどと揶揄されることもある、ハイリスク・ハイリターンな浪漫溢れる職業。それが冒険者という者達だ。


 そんな冒険者ではあるが、冒険者として登録された際に交付される冒険者証は、最も簡単に手に入れることが出来る身分証の一つであった。


 彼らはその特性上、多くの街や国を跨いで活動することが多い。故に、冒険者証は身分証のような役割も持っているのだ。といっても簡易的なものであるため、それほど多くの事に使用出来るわけではない。国や街に入る際の通行証代わり、或いは、高額な素材等を売却する際の身分証、といったところだろうか。高ランクの冒険者証ともなれば信用度も高く様々な状況で使えるが、大半の冒険者証はその程度にしか使えない。


 だが逆を言えば、その程度に使えさえすれば、冒険者としての活動には何ら問題がないということだ。つまり彼らにとってはそれで十分であり、またアリスにとっても十分過ぎる効果を持っているというわけだ。


 ミラの提案は、まさにそれを狙ってのことであった。確かに冒険者証さえあれば、街に入る際の苦労は軽減されるだろう。しかしそんなミラの提案を聞いても、アリスは胡乱げな表情を浮かべていた。


「……どうかしら。自分で言うのもアレだけど、この見た目よ?」


 身体を覆い隠すようにすっぽりと被ったローブの裾を、アリスがちょんと指で摘む。十三歳以上であれば誰でも、とはいうものの、アリスの見た目はかなりギリギリであった。だがミラは妙に自信満々な様子で、ふす、と鼻から息を吐きながらこう告げた。


「なに、リリ族として登録すれば問題ないさ」

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