第12話 残念
ラスが右腕を抑えながら、痛みに耐えるように声を絞り出す。
「……甘かった」
止め処なく溢れる鮮血が、傷の深さを物語っていた。傷は治癒魔法で治すことが出来る。だが、失った血までは戻らない。仮にこの局面を乗り切ることが出来たとしても、暫くはまともに動かせないだろう。
「……『断罪者』、まさかこれほどとは」
ラスとて噂は耳にしたことがあった。その姿を見て生き残った者は無く、逃げも抗いも許されない殺戮の使徒。眉唾ものの噂だが、一部では
だがそれでも、自分ならば対抗出来ると考えていた。それは驕りではなく矜持。人類の救世主たる、勇者としての責務がラスにはあった。負けない為に強くなった。守るために鍛え抜いてきた。事実、これまでラスは実践で負けたことなどなかった。強力な魔物が相手でも、帝都の騎士団長が相手でも、有名な冒険者が相手でも、その全てに勝利してきた。
だがどうだ。
見た目、自分の半分程度かそれ以下でしかない小さな相手に、こうして深手を負わされている。この相手を前にして受けて良いダメージではない。万全の状態ですら押し切られたのだ。利き腕をやられた以上、はっきり言って詰みだった。
これほどだとは思っていなかった。得体の知れない権能に、慮外の力と速度。マズいと思ったときにはもう遅かった。相手を舐めていたなどということは断じてないが、もっといい勝負が出来ると思っていた。しかし結果はこれだ。いい勝負をするどころか、手傷を負わせることすら出来なかった。
「……」
仮面の少女は何も答えない。
ただ黙したまま、ラスをじっと見つめるのみ。怒りも、蔑みも、憐憫も、一切の感情が感じられない。何を考えているのか全く分からないその様子は、ラスを以てしてもいっそ恐怖を感じるほどだった。
けれど。
「負けるわけにはいかない」
右腕が動かなくなった程度で、道を開けるわけにはいかなかった。幸い左腕は無傷だったし、足も頭もまだ動く。その程度で折れるような勇者ではない。その程度で折れるような弱い心であったなら、今こうしてこの場に立っていない。
左手で聖剣・
それを認めたアリスが止めを刺すべく足を踏み出そうとするが、しかし何者かに引かれるかのように動かなかった。見れば彼女の靴は既に凍り始め、床へと縫い付けられていた。アリスは面倒そうに
「”
それはまさしく氷の檻。
部屋全体を覆った氷が、突如として鋭利な氷柱へと変化して隆起する。上下左右、果ては前後に至るまで。無数の氷柱はアリスの逃げ道を封鎖しながら、凄まじい速度で襲いかかる。周囲の気温を低下させることで身体の自由を奪い、対象を囲い込むように隆起した氷柱が行動を制限し、回避することを許さない。それはラスの持つ攻撃の中で、最も確実に相手を仕留めるための技だった。
S級の魔物が相手であっても、
広い室内に生み出された氷の棺を、ラスは油断なく睨みつける。勿論相手を倒すつもりで放ったが、しかし相手が相手だ。つい今しがた『甘く見ていた』と自戒させられたばかりのラスは、命中を確信しながらも安堵はしていなかった。
ラスは一時たりとも相手から目を離さなかった。少なくとも回避は出来ていなかった筈だ。仮に倒せはしていないとしても、手傷を負わせた自信があった。
「……やった、か?」
だが彼は忘れていた。
否。そんなつもりはなかったが、しかしこれまでの経験と、そして自らの目で見たものを信じてしまった。つい先程、目を離さなかったにも関わらず、一瞬での肉薄を許したばかりだというのに。物音一つ立てずに聳える氷塊を前に、しかしその声はラスの後方からやってきた。
「残念」
「───なッ!?」
ラスは手傷と権能の行使による疲労から、膝をついていた。
そんな彼が背後からの声と共に感じたのは、ぐい、と身体を引っ張られるような感覚だった。次いでラスを襲ったのは浮遊感と背中の猛烈な痛み。ここまできて漸く、ラスは自分が吹き飛ばされたのだということに気づいた。宙を舞う彼の視界に映ったのは、破砕された床の氷と、全くの無傷でそこに立つ断罪者の姿。恐らくはラスの目ですら負えない程の速度で駆け抜け、ラスの攻撃を回避したのだろう。目で追えないどころか、足音の一つも聞こえなかった筈なのに。
「がはっ!!」
抵抗することも出来ずに壁へと叩きつけられ、ラスの肺からは血と息が吐き出される。勇者の
解せなかった。
眼の前の小さな少女は、最強と謳われる勇者よりも明らかに身体能力で勝っている。ラスとてまだ心は折れていない。勇者の加護を表す紋章も、未だラスの胸元で輝きを放っている。勇者の力に驕っているわけではないが、だがそれにしてもおかしな話だった。それほどまでに強力な加護など、ラスは聞いたことがない。
「ぐッ……馬鹿な……キミは、一体何の……」
一体何の加護を持っているのか。血混じりに発したその言葉は途切れ、上手く口から出てくれない。霞む視界の中に映った断罪者には、加護を表す紋章がどこにも見当たらなかった。勇者であるラスの紋章は胸元だが、これは特殊な例だ。紋章は通常身体の末端、手足に現れる。だが断罪者は全身黒尽くめであり、手袋とブーツを着用している。
これは恐らく正体や能力を知られぬ為であり、こういった
だが目の前の敵が持つ加護は、ラスがどれだけ考えても分からなかった。戦闘時に有利に働くものであれば、大抵の加護は識っている。しかしその一方で、ラスとて自分が全ての加護を識っているなどとは思っていない。故に彼は、自らの知らない加護の持ち主なのではないか、と考えた。そんな疑問が、つい口を衝いて出てしまったのだ。
「……」
ラスの言葉は、別に答えを期待してのことではない。断罪者の風貌は他の暗殺者の例に漏れず、肌の露出が少ない。それは加護の露見を恐れてのことだろうし、素直に回答が得られるとは思っていなかった。それは独り言の類であり、謂わば自問自答のようなものだ。
「私は───」
断罪者が何かを言っているが、しかしラスにはよく聞き取れない。徐々に薄れゆく意識の中、ラスが断罪者と視線を交わす。
そう、視線だ。
仮面を被っている筈の断罪者と、目が合っていた。
霞む視界を必死に手繰り寄せれば、そこには僅かに仮面の右上部が欠け、瞳を片方だけ晒している断罪者の姿があった。恐らくは先の攻撃が掠めたか、或いは回避の際に欠けたのだろう。
まるで人形のような長い睫毛。目深に被ったフードから溢れる金髪と同じ、月の輝きのような色を放つそれが、ラスを見つめながら揺れている。
そして真っ赤な美しい瞳の中には、ラスが見たこともない聞いたこともないような神々しい紋章が、淡い光と共に浮かび上がっていた。
それを脳裏へと確かに焼き付けながら、ラスは意識を手放した。
* * *
意識を失ったラスを横目に、アリスは歩き出す。
彼女の目的は伯爵であり、眼の前の勇者ではない。邪魔をするなら殺してしまおうと思っていたが、こうして無力化した今はそれに拘泥する必要もない。
そうしてアリスは伯爵を探すため、部屋を後にする。
妙に開いた視界にほんの少しの違和感を感じ、何気なくそっと仮面を撫でる。そこで漸く、いつの間にかそれが欠けていることに気づいた。
「……見られたかしら?」
やはり殺しておこうか。
立ち止まりそう考えつつも、しかしアリスはそれほど時間がないことを思い出す。思いの外騒ぎになってしまった。屋敷の外は騒がしく、恐らくはあと数分もしないうちに衛兵達がここへ雪崩込んでくるだろう。伯爵の首を取るのが最優先である以上、ここで勇者にかかずらわっている時間は無かった。
「……仕方ないわ。朦朧としていたようだし、きっと覚えていないでしょう」
仮に覚えていたところで、アリスにとってはどうでもいいことだ。元より誰の仕業であるかなど、断罪者の存在を知るものからすれば明らかなのだから。ユリウス曰く、女だというのは既にバレているらしかった。故に新たな情報など何も無い。どれだけ調べようとも、断罪者の正体は変わらず不明で、その能力も不明。結局はそこまでしか辿り着けない。残るのは伯爵の死と、勇者の敗北という結果だけだ。
「ん……はぁ。早く帰って寝たいわ……」
当初予想していたよりも、勇者はずっと強かった。
この少し後、屋敷の地下からはフィルレイン伯爵の死体が発見された。恐怖と後悔が張り付いたままの、酷く情けない顔をしていたという。
また、屋敷の二階からは右腕を負傷し、気を失った勇者が発見された。大量の血を失ってはいたものの、治癒魔術師の治療によって一命は取り留めていた。
貴族の暗殺と、勇者の敗北。
この事件を知る衛兵達には、伯爵家によってすぐに箝口令が敷かれた。故に、伯爵の死はともかく、勇者が敗北したという事実が表立って広まることはなかった。だが人の口に戸はたてられない。伯爵領に住まう人々の間ではラスへの心配と、そして伯爵の横暴が終わったことへの喜びが広まってゆく。
しかしその下手人は、そんなことにはまるで興味がないとでもいうかのように、宿に戻ってすやすやと寝息を立てていた。
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