第7話 ソロナの街
アルナリーゼ聖教国とディルメリア帝国、二つの国を隔てるイェルス山岳地帯。
その山中の切り立った崖の上、広大な草原を見下ろしながら、アリスがぽつりと呟いた。
「ここが帝国」
「本当にただ国境を越えただけで、街も何もないただの平原だがね」
アリスを背に乗せた、黒兎のミラが相槌を打つ。
見た目の幼いアリス一人では、正規の方法で帝国の関所を抜けることが出来ない。仮に通行証があったとしても、少女の一人旅などと言って信じられる筈もない。街に入るだけならばいざ知らず、警備の厳しい場所は通ることが出来ないのだ。故に彼女は関所を避け、魔物だらけの険しい山と森を抜けてきた。
当然ながら、こんな手段で国境を越える者など普通は居ない。
魔物が現れるだけならばまだいい。腕に自信のある冒険者ならば、多少強力な魔物が出た所で対処は可能だろう。だが複雑な地形は如何ともし難い。木々の生い茂る入り組んだ森や、道などと呼べるものは何もない山。自然の要害とも呼べるそれらと戦いながら、いつ現れるか分からない魔物にも対処する。それは非常に危険で、体力・集中力共に大きく消耗する行為だ。そんな危険を犯すくらいならば、普通に関所を通る手段を誰もが用意するだろう。
アリスが『断罪者』として他国へ赴く際は、いつもこのような手段で以て国境を越えている。少なくとも、正規の方法で他国へ入ったことは一度も無かった。これは機動性に優れるミラが居てこそ採れる手段であり、ミラを従える彼女にしか出来ない行為だ。
ミラがいるおかげで、アリスは何時でも、何処へでも行ける。出入国の記録もなく、故に暗殺対象から警戒されることもない。彼女が『断罪者』の仕事を迅速にこなせるのは、ミラの貢献によるところが大きかった。
「ん……今居るのがココ。伯爵の屋敷があるラフィネは……もうちょっと南?」
「相変わらず大雑把だな……この山を抜けて少し進めば、確かソロナという街があったはずだ。今日はそこで宿を取ろう」
「そうね」
ミラの提案に異論を唱えることもなく、アリスは素直に同意した。
ミラはただのウサギではなく、所謂『精霊』の一種だ。精霊は人間と同等、或いはそれ以上に知能が高い。地図を見るなどお手の物であり、しっかりとルートを選び、ペース配分も考えて行動している。故に、こと移動に関しては、アリスはその一切をミラに任せてしまっている。
これは別にアリスが考えなしであるとか、計画性がないだとか、そういうことではない。単純に、実際に走る本人が決めた方が効率がいいと考えているだけだ。
「じゃ、行きましょうか」
崖の上に吹く穏やかな風が、ふわりとアリスの髪を揺らす。
「ああ」
ただ一言そう言うと、ミラは斜面を駆け下りていった。
* * *
そうして数日の後、アリスとミラはフィルレイン伯爵領内にあるソロナの街に辿り着いた。領内といっても殆ど外縁部であり、僻地と言っても過言ではないただの田舎街だ。ここから伯爵の居る街までは、ミラの健脚を以てしてもまだ数日かかる。そんな僻地にも拘わらず立派な街壁と門があるあたり、伯爵の権力が見て取れるというものだ。
ユリウスから渡された情報によれば、今回の標的である伯爵は帝国内でもかなり力のある貴族だという。故に、伯爵本人は帝都と伯爵領を頻繁に行き来しているらしい。暫くは領内に留まっている筈との事だが、いつまた領を離れるか分からない。
そうなったらそうなったで、首都に乗り込めばいいのでは? といった程度にしかアリスは考えていないが、しかし面倒なことには違いない。
とはいえ、この近辺の地理に明るくない一人と一匹だ。おまけに帝国内の情勢にも疎いとくれば、急ぐにも限界がある。故にこの街で道を尋ねると共に、軽く情報でも収集しようかと考えたというわけだ。うまくすれば、仮に伯爵が領内を出たとしても、その移動経路が分かるかも知れない。どうせ無駄に煌びやかな馬車で示威行為に勤しみつつ移動しているのだろうし、ここらの街人が知っていてもそうおかしな事ではないだろう。
そんな考えで街に入ろうとしたアリスであったが、当然のように門兵から呼び止められていた。
「……お嬢ちゃん一人かい?」
「この子もいるわ」
「いや、そういう事じゃないんだけど……」
アリスが肩に乗せたミラを指差すが、門兵が聞きたいのは当然ながらそんなことではなかった。一般人とは隔絶した力を持つ加護持ちであれば、十五という歳で一人旅をしていてもそう不思議な話ではない。実際に冒険者として活動している者もいるし、身体の何処かに『加護』を表す紋章がある。大抵の加護持ちは身体の末端、手足等に紋章が現れる為、すぐにそうだと分かるのだ。
だがアリスの容姿は、とても十五とは思えない程に幼い。そして女神フィリスの愛し子、その証たる『断罪』の加護を持つアリスの紋章は、少々───否、かなり特殊な部位にあり、なおかつ普段は浮かび上がっていない。
故に門兵からすれば、ただの幼い少女が一人で現れたようにしか見えないのだ。訝しむのも当然と言えるだろう。田舎の街ですらこうなのだから、彼女が関所等の重要施設を越えられないのも当然だった。
「困ったな……お嬢ちゃん、両親はどうしたんだい?」
まだずいぶんと若そうな───アリスよりは余程年上だろうが───門兵の男が、困り顔で質問を投げかける。殆ど迷子への対応のそれであったが、アリスにとってはすっかりと慣れてしまったやりとりに過ぎない。
「居ないわ」
「……そうか。それは……すまない」
孤児など珍しくもない。
戦災孤児も居れば、魔物の襲撃によって家族を失った者も居る。そういった無力な子供たちは近くの村や街へと身を寄せるか、或いは、あまり口に出したくないような境遇に身を置く場合が多い。アリスもまたそういった子供の一人だろうと考えたのか、若い門兵は気まずそうな顔で謝罪を口にする。そんな彼の推察は概ね当たっていたのだが、間違っている部分が一つだけあった。少なくとも現在の彼女は、ただの無力な少女ではない。
「別にいいわ。それで、入ってもいい?」
「ああ……問題ないよ。よくここまで来たね。アテはあるのかい?」
「問題ないわ」
言葉少なに返事をし、そうしてアリスはさっさと門へ歩き始める。
それを見た若い門兵は、不用意に家族の事を尋ねてしまった罪悪感からか、家族を喪ったにしては随分と落ち着いた態度だと思いながらも、しかしそれきりアリスを呼び止めるようなことはなかった。黒いフードを目深に被ったその姿にも、汚れた様子のない妙に小綺麗な服装にも、どちらの違和感にも気づかなかった。
街に入る際のこうしたやりとりは、もう何度も繰り返してきたことだ。相手の善意を利用するようだが、しかし最もスマートで面倒のない方法には違いない。
そうして街に入ったアリスは、ひとまず宿を探した。
街に入るのにも苦労するアリスだが、一度街に入ってしまえば、宿に泊まるのはそれほど難しくなかった。何しろ店の主はただの商売人だ。
行商人や冒険者、傭兵に軍人、魔法使い。宿を利用する者は多種多様。だが少なくとも、店に来たということは門で弾かれなかったということ。犯罪者や指名手配犯、盗人の類ならば、そもそも街に入ることができないのだ。であれば何も問題はない。金さえ払うのならば、客の素性などどうだっていい。それがたとえ幼い少女一人であろうとも、だ。
田舎にしては比較的大きな街だが、それでも所詮は田舎だ。街の中には宿屋など一軒しかなく、それも大通り沿いの目立つ場所にある。如何にも宿屋らしい、ごく一般的な木造の建物だ。強いて言えば客室を多く備えている関係上、そこらの家よりはいくらか大きいといった程度。特に労することもなく宿を見つけたアリスは、迷うこと無くまっすぐに扉を潜った。
食堂兼酒場となっている一階には、アリスの他には誰も客が居なかった。こんな僻地の宿屋になど、そう頻繁に宿泊客が訪れるはずもない。恐らくは酒場としての稼ぎが主であり、宿としての稼ぎはオマケ程度なのだろう。
現在の時刻はまだ昼を少し過ぎた程度だ。客が居ないのも当然だった。アリスは淀みのない足取りでフロアを進み、奥のカウンターへと向かう。
「一泊お願い。食事は要らないわ」
そう言って金貨を1枚、少し背伸びをしながらカウンターの上へと置くアリス。無愛想な店主は暫しアリスを見つめ、小さくため息を吐いた。どう見てもワケありだが、しかし金は確かに持っている。それも一泊分どころか、食事付きで数週間は泊まれる程の金だった。訝しみながらも店主はカウンターの上から金貨を拾い上げ、代わりに数枚の銀貨と小汚い鍵を差し出した。
「……あいよ。二階の一番奥だ」
「ありがとう」
店主と短い言葉を交わし、二階への階段を軽やかに登ってゆくアリス。宿屋でのやり取りなど、どの街でも似たようなものだ。おしゃべりな店主がやたらと話しかけてくることもあるが、アリスに言わせれば面倒この上ない。多少無愛想なくらいのほうが、アリスにとっては都合が良かった。
そうして寝床を確保したアリスはその後、身一つで街へと散策に出かけた。こういった田舎の宿屋といえば、あまり防犯には期待が出来ない場合が殆どだ。だがもとより、アリスには荷物など何もない。部屋に何かを置いてくるようなこともなければ、防犯に気を使う必要もないのだ。
そうして暫く街中を歩いたアリスは、なんともちぐはぐな印象をこの街から感じ取っていた。外から見た街壁は立派だった。規模も過疎地にしては大きい。だが街の中に入ってみれば、全体的に建物の老朽化が進んでいる。通りもしっかりと舗装された跡が見て取れるのに、あちこちから雑草が生えており、石片や煉瓦の欠片がそこらに散らばっている。端的に言えば、この街は寂れているのだ。
ただ寂れているだけならば、田舎の街にありがちな光景に過ぎない。だが街壁や通りの規模は、僻地のそれではない。魔物や敵国からの襲撃に備えているのかといえば、それも何か違う気がする。この街は隣国との国境近くというわけでもないし、周囲に魔物の住む森や山があるわけではない。最も近い魔物の生息地であろうイェルス山岳地帯は、ミラの足でも数時間はかかる距離にあるのだから。
これらの情報から察するに、恐らくこの街は自治機能ががうまく働いていないのだろう。街を作った際にはかなりの資金を投入したが、その後は放ったらかし。そんなところではないだろうか。つまりは領主か、或いは町長の怠慢といったところか。
こういった場合、住民たちの表情は陰鬱としているのが普通だろう。或いは、領主への不満で怒りを顕にしているかだ。いずれにせよ、良い気分ではいられない筈だった。だがそんな状況にあって、住民たちの顔は絶望していないのだ。まさか逆境を好む変態の巣窟でもないだろうに、アリスには訳が分からなかった。
「おかしな街ね。それともこれが帝国のお国柄、というやつなのかしら」
「そんなことはないと思うがね……アリス、あそこで掃除をしている人に事情を聞いてみよう」
小型化してアリスの肩の上に乗っているミラが、短い前足を器用に動かし、通りを歩く二人の前方で掃除をしていた女性を指し示す。どうやらパン屋の店主のようで、店先からはパンの焼ける良い匂いが微かに届いていた。
「え、嫌。面倒。興味もないし」
「……もしかしてキミは、自分が情報収集に来たということを忘れているんじゃないか?」
そう言って息を吐くミラ。見た目はただの丸っこいウサギに過ぎない彼女だが、不思議と呆れているのがよく分かるような、そんな表情だった。ミラの言葉の通り、そもそもこの街に立ち寄ったのは周辺地域の情報収集の為である。にも関わらず『興味がない』とは、ミラが呆れるのも当然だった。
「貴女が聞けばいいじゃない」
「私の声がキミ以外にも聞こえるのなら、そうしてもいいんだがね」
ミラの声がというよりも、精霊の声というものは基本的には契約者にしか聞こえない。故に、ミラがあの女性の前でどれだけ言葉を尽くそうとも、ただきゅいきゅいと鳴いているようにしか聞こえないのだ。つまり情報収集をしようと思えば、どうしてもアリス自身が行う必要があるということ。
無論アリスもそれは理解している。これまでにも情報収集が必要な時は、渋々ながらもずっとそうしてきた。だが、はっきり言ってアリスは情報収集に向いていない。その容姿も理由の一つだが、何よりも、彼女は興味がない事柄に対して早急に結果を求めようとする悪い癖がある。つまりどういうことかというと───。
「こんにちわ」
「あら、可愛いお嬢さんね? うふふ、私に何か用かしら?」
「ここの住人は街がこんな有り様なのに元気。どうして?」
「えっ……?」
コミュニケーション能力が絶望的に足りないのだ。初対面だというのに、最低限の挨拶の後の一言目がコレである。場を和ませる為の世間話はおろか、ちょっとした前置きすらない。
アリス自身も会話が下手なことを自覚している。しかしコレばかりはどうにもならなかった。孤児院に居た頃はここまで下手ではなかった筈なのだが、この数年の間にすっかりと口下手になってしまっていた。
「それはないよアリス……」
アリスの肩の上で、ミラがきゅうと鳴いていた。
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