第6話 仕事
盗まれた『神槍』の回収から暫く。
その間特に仕事の無かったアリスは、専ら自室で読書をしていた。彼女は別に、本を読むのが好きというわけではない。読んでいる本は毎日変わるし、そのジャンルも多種多様。ただ手持ち無沙汰な時間を潰すために行っているだけだ。そのついでに、何か少しの知識が得られればそれで十分。一冊の本さえあれば、他には道具も場所も必要のない読書は、彼女にとっては一種の手慰みのようなものだった。
そんなある日、彼女の部屋の扉がノックされる。
アリスの元を訪れる者は、この聖教国内でも限られる。故に、来訪者が誰であるかの予想はついていた。そもそも彼女が何者であるかを知っているのは聖女と使徒の四人だけなので、当たり前といえば当たり前ではある。そんなノックの音に、アリスは本から顔を上げることなく一言告げる。自ら扉を開けに行ったりはしなかった。
「……なに?」
「僕だよ僕、ユリウスだ。開けてもいいかい?」
「どうぞ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、いつも通りに胡散臭い『先導者』の声だった。アリスに『断罪者』としての仕事を持ってくるのは、ほとんどの場合は彼の役目となっている。その理由は単純で、全てを喪って彷徨い歩いていたアリスを拾い、聖教国へと連れ帰ったのがユリウスだからである。謂わば彼は、アリスの身元引受人のような立場なのだ。
「やぁ、相変わらず殺風景な部屋だね」
部屋に入るなり、ユリウスは周囲を見回して一言。
最初に言うセリフがそれか、などと言いたくもなるような一言だったが、実際アリスの部屋には物が殆ど無かった。簡素なテーブルと椅子、そしてベッド。窓際には小さな籠が置いてあり、中ではミラが寝息を立てている。その他には一つだけ、そこそこ大きなサイズの本棚が設置されているのみだ。飾り気などまるでなく、ぬいぐるみや人形なども当然ありはしない。くたびれた中年冒険者の部屋だって、もう少し何かあるだろうに。
「……用件は?」
「やれやれ、ちょっとした世間話くらい付き合ってくれたっていいじゃないか」
「貴方の世間話ほど、中身のない話もない」
「辛辣だなぁ」
ともすれば冷たく突き放すようなアリスの言葉にも、ユリウスは柔和な笑顔を崩さない。気にした様子もなくヘラヘラと笑いながら、部屋にある唯一の椅子へと腰を下ろした。
ユリウス・ストリードという男は本音を表に出さない。アリスの言うように、彼の言葉には中身がない。嘘つきという訳ではないが、己の真意を相手に伝えるようなことは無く、ほとんど上辺だけで話すのだ。
この男と出会ってからの数年間で、その口から本音を聞いたことなど、アリスには一度たりともなかった。その癖、やたらと話しかけてくるお喋りでもあるのだ。アリスがユリウスのことを『胡散臭い』と称するのも無理はないだろう。
「まぁいいや。無駄話をして君に睨まれるのも悪くはないけど、僕もそれほど暇な訳じゃあない。というわけで本題だ。君にひとつ仕事を頼みたい」
ユリウスの言う『仕事』とは、言うまでもなく『断罪者』としての仕事である。頼みたい、などとユリウスは言っているが、実際には契約がある以上、アリスには従う以外の選択肢はない。仇に関する情報は未だ皆無だが、『断罪者』を辞めれば情報収集の手段すら失ってしまうのだ。それ以前に、目の前のこの男が、そう簡単に辞めさせてくれるとは思えなかったが。
「つい先日、君に取り返してもらった聖遺物は覚えているかい?」
「……聖杯とか?」
「神槍だよ、神槍」
「そうとも言う」
「そうとしか言わないよ……ホントに興味ないんだもんなぁ」
聖教国は女神フィリスを信仰する宗教国家だ。フィリスは世界を創造したとされる神の一柱であり、生と死を司ると言われている。そんなフィリス教は世界で広く布教されている宗教の一つであり、その信徒も世界中に多く存在している。その総本山がここ、アルナリーゼ聖教国という訳だ。
そしてアリスはといえば、
「いやまぁ、物が何だったかは大して重要じゃないんだ。僕が言いたいのは、盗みを指示した黒幕が誰かって話さ」
「あぁ、そういうこと」
ここまで聞けば、ユリウスがアリスを尋ねてきた用件は自ずと知れる。聖教国にちょっかいを出した者が居て、その正体が判明した。そしてこの男がアリスの元を訪れたのならば。
「そういうことさ。フィリス様は寛容なお方だけど、殴っても怒らないと思われるのは困る。不本意だけど、仕返しはちゃんとしておかないとね。というわけで、標的は帝国のとある貴族だ」
ユリウスの用件とはつまり、『舐めた真似をした帝国の貴族をぶち殺してこい』である。確かに女神フィリスは生と死を司る女神であるが、果たしてこれの一体どこが寛容なのか、と聞きたくなるような内容だ。女神の名を借りて、この男が好き放題しているだけなのではないか。本当に不本意ならば、そのニヤけた面をどうにかしろ。アリスは内心そう思っていたが、しかしそれと同時に、彼女にはユリウスの言葉がある程度理解出来てしまう。
どういうわけか、この世界には『自分は殴っても許される』と思っている輩が多い。貴族のような特権階級の者は、とりわけその傾向が強い。自分が『痛み』を知らないから、他人の『痛み』を想像出来ないのだ。そして『
「『
「いい。私のやることに変わりはないから」
ペラペラと話し始めたユリウスの言葉を、アリスは途中で遮る。付き合ったところで、特に必要のない話をいつまでも聞かされるだけだ。他国の重要な物を盗もうとしたくらいだ、どうせ碌でもない貴族なのだろう。
この数年間、アリスは他国での要人暗殺を何度も行っている。その全てが聖教国に仇為す者であり、そして弱者を虐げる強者だった。聖教国に弓引くことは、女神フィリスに楯突くのと同義。つまりはそういうことらしい。国のやることなど何処も大して変わらない。綺麗事だけでは国は回らない、それは聖教国も同じだ。
女神を信仰する宗教国家などと言えば聞こえは良いが、蓋を開ければこの通り。他の国との違いがあるとすれば、標的が基本的に悪人ばかりなことと、切るカードが
「───そうかい?それじゃ、あとはいつも通りで。はいコレ、伯爵領への地図と、その他の情報を纏めたもの。理解っているとは思うけど、今回は他国領内での行動になる。スマートに頼むよ?」
言葉を遮られたユリウスは特に気にした様子もなく、丸められた筒状の紙束をアリスへと放り投げる。これがいつもの二人のやり取りだ。余計なことを話そうとするユリウスと、それを面倒がってアリスが拒絶する。そうして口頭での説明をさっさと切り上げ、アリスは渡された資料を移動中に読む。たったそれだけで、聖教国の放った
ユリウスは本音を話すことのない男だが、意味のない嘘をつくことはない。アリスに指示を出す上で、必要が無いと判断すれば何も話さないし、必要なことであれば聞かずとも勝手に喋る。アリスはユリウスのことを信用しているわけではないが、自分が不利益を被るようなことはしない男だと知っている。だからこそ、国民からの支持が厚い重要人物にはおいそれと手を出さないし、表立って殺して来いなどとは言わない。故に、これ以上の会話は不要だった。
「ミラ、行くよ」
特に何を準備するでもなく、アリスは窓際で丸くなっていたミラへと声をかける。それに気づいたミラがぴょこりとアリスの肩に飛び乗り、それだけで出立の準備が終わる。研がれた刃は自分で、駆ける足はミラ。その二つがあれば、他には何も必要なかった。
「そうそう。キミは帝国に行くのは初めてだろう?帝国には美味しいものが沢山あるよ。暇をみつけて帝都の観光でもしてくるといい」
窓を開け放ち、そのまま部屋を出ようとするアリスの背中へと、ユリウスがどうでもいい情報を一つ投げる。暗殺の指示を出したその口で、まるでついでのように観光を勧めてくるのだから、この男も大概歪んだ性格をしている。
そんなユリウスへと、アリスは振り向くことなくただ一言だけ返事をした。酷く平坦で、心底どうでもいいと思っているような、そんな声色だった。
「味、分からないもの」
* * *
窓から飛び降りたアリスを見送った後、ユリウスは聖堂内の一室に足を運んでいた。染まった部屋全体から受ける印象はシンプルながらも、細かな装飾や調度品の数々からは、どこか荘厳な気配が感じられる。壁や床、そして天井に至るまで、白と黒のモノトーンで統一されたその部屋には、ユリウスの他にもう一人。
「彼女は?」
まるで澄んだ鐘の音のような、美しい声。
たった一言発しただけで、周囲の空気を染め上げてしまうような存在感。この国に於ける最高位、使徒の一人であるユリウスに対してもまるで物怖じしないその態度。それらを鑑みれば、声の持ち主が誰であるかなど自明だった。
「つい先程、出発しましたよ。いつも通りの怖い顔で」
「そうですか……一言くらい、声をかけてくれてもいいのに」
ユリウスの言葉に、聖女は残念そうに溜息を一つ零した。
閉じられた瞳からは感情が読み取りづらいが、眉がハの字に顰められて居るところを見るに、どうやら本当に残念がっている様子だった。
聖教国を統べる立場にある彼女は、アリスのことを勝手に妹のように思っている。アリス自身からはまるで相手にされていないし、ともすれば迷惑だと思われているかもしれない。それでも、比較的歳の近いアリスが気になって仕方がない。
夢と理想だけでは国は回らない。それは聖教国も同じだ。信仰では腹は膨れず、剣が無ければ他国の食い物にされてしまう。今この国にはアリスという剣が必要なのだ。
そう理解しつつも、重責を押し付けていることに罪悪感を覚えずには居られない。女神フィリスの
「やっぱり、嫌われているのでしょうか」
「そういうワケじゃないと思いますがねぇ……彼女は誰に対してもあんな感じですので。もちろん僕にもです。きっと目的を達成するまでは、あのままじゃないですかねぇ?」
そう言ってユリウスは肩を竦めた。
アリスの中には、憎悪の炎がずっと渦巻いている。アリスの目的が果たされるその時まで、恐らくはずっとああなのだろう。
聖女はそれをとても残念に思う。哀れに思う。そしていつの日か、彼女が笑える日が来ればと、そう願う。
「彼女の孤児院を襲撃した者は、まだ分からないのですか?」
「いやぁ、それが中々上手く行かないんですよねぇ。情けないことに」
聖女の問いかけに対し、ユリウスはそう自嘲する。言葉面だけをとってみれば、自らの力不足を嘆いているようにも聞こえる。だが彼の表情は普段通り、ヘラヘラとしたニヤケ面のままだった。
聖女にはその言葉の真偽が分からない。表情も、声色も、身体にも、何一つ変化が見られない。アリスの持つ悍ましい気配に圧されていた時ですら、表面上は平静を保ち続けていたのだ。少なくとも、緊張を表に出すようなことは絶対にしない。彼は身の危険を感じている時ですら、そのニヤけ面を崩すことがない。故に聖女ですらも、ユリウスの考えを推し量ることが出来ない。
「……本当に?貴方程の者でも、まだ何も掴めていないのですか?」
「おや、もしや僕をお疑いに?」
「……いえ、貴方がそう言うのであれば信じましょう。ですが、何か分かった際にはすぐに報告して下さい。彼女をあのままにはしたくありません」
「ええ、勿論」
女神フィリスは他者の命を奪うことを禁じてはいない。むしろ罪を犯した者に対して、過剰なまでの罰を与えるとされている。故に聖女もまた、アリスの復讐を否定しない。むしろ、出来る限りの協力をするつもりでいる。そうして復讐を果たしたアリスが、どのような選択をするかは分からない。もしかすると、この国から出て行ってしまうかもしれない。
だがそれでも、復讐によってほんの少しでもアリスの中の淀みが消えるのならば。アリスの止まった時間が、再び動き出すのなら。出来れば成就させてやりたいと、そう思っていた。そしてそれはアリスを拾ってきたユリウスも同じだと。
ユリウスは態度こそ軽薄な部分が目立つ男だが、根の部分は悪い男ではない。故に彼もまた、自分と同じ様にアリスの幸せを願っていると、彼女を利用していることに罪悪感を覚えていると、そう思っていた。
「では、僕はこれで失礼しますよ」
「ええ、わざわざ伝えに来てくれてありがとう」
そう言って踵を返すユリウス。
随分と忙しないことだが、ユリウスはアリスの身を案じている聖女の為、ここまで報告に来たに過ぎない。これでも彼は使徒の一人だ。彼にしか出来ない仕事は山のようにあるのだから、時間を無駄には出来ない。
ユリウスは丁寧な挨拶と礼をして、聖女の部屋を後にした。そして扉の外で見張りをしていた聖騎士達に後ろ手を振り、自室へ向かって長い廊下を歩いてゆく。そうして一人になった時、ひっそりと笑った。いつものようなヘラヘラとしたものではなく、酷く粘ついた気色の悪い笑みだった。
つまるところアリスとは、ユリウスにとっての理想なのだ。
アリスは自分の身に起こった不幸を『ありふれた出来事の一つ』だと言う。自分だけが不幸なのではないと、どこか自分に言い聞かせるように。だが、それが本心ではないことをユリウスは知っている。彼女はそうすることでしか、煮え滾るような怒りを抑えられないのだ。
国の目が届かない辺境に於いて、小さな村や孤児院が襲撃されることはままあることだ。魔物であったり、賊の手によるものであったり、その原因は様々だ。そうして被害者達は全てを諦め、絶望し、嘆き、その場に立ち竦む。力が無いからと、全てを受け入れてしまう。そうすることしか出来ない。
だがアリスは違った。彼女は邪魔者に容赦しない。
彼女は全てを憎み、呪い、怒りと共に前へ進む。濁る瞳で未だ見ぬ敵を見据え、ただひたすらに刃を研ぎ澄ましている。優しさと怒り、そんな二つの矛盾で揺れながら、それでも復讐の道を歩いている。その姿はまるで『生』と『死』を司る女神フィリスのようで。
まだ何の情報も掴めていない?そんなわけがない。
「───だが、まだ早い」
いつの日か数多の試練を乗り越え、甘さを削ぎ落とし、そうして彼女が復讐を果たし、全てを知った時。不純物が取り除かれ、純粋な殺意だけがそこに残った時、彼女はきっと
そんな未来を想像するだけで、成長を遂げるアリスを見ているだけで。ユリウスの顔には笑みが溢れて止まらなくなる。その為に、その為だけにユリウスはアリスを拾ったのだ。聖教国のメンツだとか、そんなことはどうだってよかった。
「ああ、楽しみだ……本当に、楽しみだ」
口の端を歪ませて笑う、そんなユリウスの姿を見ている者は、誰も居なかった。
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