第5話 瞳

 朝靄に霞む夜明けの草原を、黒く大きな毛玉が疾走していた。長い耳を風に靡かせ、まるで草原を滑るかのように、足音の一つも立てずに。厳密に言えば走っているのではなく跳ねているのだが、地を這うようなその跳躍は馬などよりも余程速かった。その証拠に、すぐ傍の街道を奔る旅馬車があっという間に追い抜かれてゆく。そのあまりの速度故に、まだ寝ぼけ眼の御者は全く気づくことがなかった。


 巨大な黒兎の背中には、小さな少女の姿があった。小さく揺れる背中に合わせ、首をかくんかくんと揺らしている。


「……アリス、前方に魔物だ。恐らくオーガだろう」


「ん……面倒。放置」


「私は別に構わないが、放置するとさっきの馬車が鉢合わせになるぞ」


「……はぁ」


 溜息を一つ吐き出して、アリスは『心象具現エスト』を取り出した。そうして手に握った大鋏の刃を、前方に見えるオーガへと向ける。見えるといっても、まだまだ豆粒程度の大きさだ。黒兎の速度を以てしても、接敵するまでには数秒かかるだろう。

 それでもアリスは、お構いなしに双刃を交差させる。たったそれだけで、オーガの巨体が胴から真っ二つに両断される。青黒い血を巻き上げ、地面に沈むオーガ。目を細めてそれを確認したアリスは、『心象具現エスト』を無造作に放り投げた。投げ捨てられた鋏は地面に落下する直前、燐光となって消え去っていた。


「……キミはいびつだな」


「ミラ……急に何?」


 黒兎がぽつりと零した。そう言葉にはしつつも、駆ける足はそのままに。今しがたアリスが両断したオーガの死体、その傍をあっという間に通り過ぎてゆく。

 アリスと黒兎はかれこれ二年ほど共に居るが、彼女ミラがこんな事を言いだしたのは初めてだった。


「面倒だなどと言いながらも、見ず知らずの人間を見捨てられないのは、きっと君の生来の優しさだ」


「……そんなのじゃない。ただの気まぐれよ」


「その一方で、昨夜のように冷酷な一面も併せ持っている。人を殺すのが好きだという訳でもない癖に、平気な顔をして人を殺す」


「……」


「優しさと憎悪。後悔と怒り。自嘲と虚飾。複雑に入り混じった感情の狭間で、ボロボロになりながら立っている」


 黒兎ミラは、アリスの事情を大凡把握している。

 過去に何があったのか詳しくは知らないが、それでも、今のアリスの目的を知っている。彼女が復讐にのみ生きていることを。その為に全てを捨てていることを。自分の痛みも、他人の痛みも、全てを無視して歩いている。そんな彼女が心配だからこそ、黒兎ミラはアリスに協力している。


「いつまでこんな事を続けるつもりなんだ?」


「……こんな事?」


「『断罪者』とやらだよ」


 あの日、全てを失ったアリスには力が必要だった。だから『断罪者』の役目を引き受けた。人が人を裁くなどという、そんな馬鹿げた仕事を。他に選択肢が無かったのも確かだが、彼女にとってはこれが最も都合が良かった。何者でもないアリスにとっては、『断罪者』という立場が必要だった。


 アリスは自覚している。自分のやっていることがただの人殺しであることを。断罪だなどと、とんだ欺瞞だ。断罪を謳う自分が、誰よりも他人の命を奪っているのだ。断罪というのなら、真っ先に裁かれるべきは自分の筈だ。存在自体が矛盾している。まったく、笑い話にもなりはしない。だがそう考えながらも、アリスは『断罪者』としての任を全うしている。その癖に、自らの手が届く範囲で、力の無いものが蹂躙されるのを黙認出来ない。


 命を奪ったのと同じその手で、命を救う。確かにミラの言う通り、アリスはひどく歪だった。そんなアリスが、それでも『断罪者』を続けている理由。


「そんなの、決まってる」


 全てを失ったあの日から、幾度となく自問した。本当にこれでいいのかと。あの子との約束は、先生の教えはどうなるのかと。だがそれでも、アリスは選んでしまった。自分が生きる、その理由を。


 復讐は何も生まないなどという輩もいるが、そんなものはただの綺麗事だ。それにそもそも、これは厳密に言えば復讐ではない。復讐とは、つまるところただ自分が楽になる為の行為だ。


 だがそうじゃない。アリスは許せないのだ。力のない者を一方的に、ひどく勝手な理由で踏みにじる強者が。家族を殺した者達が、今ものうのうとこの世界に生きていることが。あの日、多くのものを零してしまったアリスに残っているのは、濁り淀んだ怒りと憎しみだけだった。彼女の時間は、六年前のあの日からずっと止まったままだ。


 故に、アリスの答えはたった一つ。


「私の家族を殺したやつらが、この世界から消えるまでよ」




 * * *




 聖教国へと戻ったアリスを待っていたのは、にやけ面の胡散臭い男だった。

 表向きは存在しないことになっている『断罪者』のアリスは、表から堂々と大聖堂に入ることが出来ない。そもそも、彼女の正体を知っているのは教会でもごく一部の者に限られるため、正門から入ろうものならすぐさま聖騎士に呼び止められてしまう。


 故に、大聖堂にはアリス専用の通路が用意されている。掌サイズにまで小さくなったミラを肩に乗せ、専用通路を通って大聖堂内へ。そうして自室の扉を開けようとしたところで、この男に捕まったのだ。


「やぁ、相変わらず仕事が速いね?」


「……」


「おっと、その汚いものを見るような眼はやめてくれ。別に君をストーキングしていた訳じゃない。たまたま通りかかっただけだよ」


 嘘をつくな、とアリスは言いたかった。

 アリスの居室は大聖堂の外れにある小さな尖塔だ。普段誰も近づくことのないそこは、殆どアリス専用の建物だといっていい。というよりも、アリスの居室を用意するためだけに建てられた塔である。たまたま通りがかることなど、万に一つもあり得ない場所だった。


「嘘をつくな、変態」


 胡乱げに男を見上げるアリスの口から、そんな思考がつい漏れ出した。それも若干のおまけ付きで、だ。そんな辛辣な言葉を投げつけられた男は、しかしヘラヘラと笑うのみ。どうにも捉えどころのない、まるで柳のような男だった。


「え、言い過ぎじゃない?君に用があって来たのは認めるけど、そもそも君が毎回報告をサボるから、こうして僕が出向いているんだぜ?」


「報告することなんて特にはないわ。いつも通り殺して、奪い返して、それでお終い。あの程度の相手なら、次からは聖騎士に頼んで。あと、警備の見直しも」


「簡単に言ってくれるなぁ。まぁ、警備については要改善だね。でも今回盗みに入った奴は、結構名の知れたヤツなんだぜ?実力も折り紙付きだし、一般の聖騎士じゃ相手にならないよ」


「ふぅん」


「興味なさそうだねぇ……」


 話によれば、あのリーダー格の加護持ちはどうやら有名な男らしい。とはいえ、アリスは戦闘狂バトルジャンキーでもなければ殺人鬼シリアルキラーでもない。ただ『断罪者』としての責務で処理しただけだ。相手の実力がどうとか、知名度がどうだとか、そんなことにはまるで興味がなかった。


「……あ、そうだ。これ」


 忘れていたのだろうか。まるで今思い出したかのように、アリスが肩に提げていた荷物を男へ差し出した。それは気弱な男から没収した、彼らが盗んだ『聖遺物』だった。彼らが信仰する女神フィリスにまつわる物であり、聖教国にとってはとても重要な道具だ。今回盗まれたのは確か、遥か昔に女神が現界した際、食事に使ったと伝えられている『神槍つまようじ』だったか。アリスからすれば酷く胡散臭い、眉唾ものの一本だ。


「うん、確かに。見たところ傷も無さそうだし、一件落着かな」


「ん、それじゃ」


 用件が済んだと見るやいなや、アリスは会話を切り上げて部屋に入ろうとする。仮にも人と話をしているというのに、随分な態度である。所詮、彼女は利害が一致しているからという理由だけで『断罪者』を引き受けているのだ。男がどう思っているのかは知らないが、必要以上に馴れ合うつもりはなかった。


「つれないなぁ。折角だし、たまには少しおしゃべりしても良くない?」


「『先導者』がそれほど暇だとは思えないけど?」


「それはそうなんだけど……まぁいいか。そうそう、後で聖女様のところにも顔を出してあげてくれ。君に会いたがっていたよ」


 部屋の扉がゆっくりと閉じられてゆく。

 アリスの背中へ投げかけられたその言葉に、彼女は返事をしなかった。


 そうしてアリスが部屋に戻るのを見届けた『先導者』、ユリウス・ストリードは大きく息を吐き出した。常に飄々とした態度で掴みどころのない男だが、彼は今、じっとりと背中に汗をかいていた。


「ふぅー……」


 内政の責任者である『先導者』は、当然ながら国防の要である聖騎士達とも頻繁に顔を合わせている。聖騎士長はもちろんのことながら、この国で一番の実力者と言われている『致命者』とも、週に一度は必ず会話をする。ユリウス自身も『加護』持ちであり、剣の心得がある故に、そんな相手と会話をしていても気後れすることはない。だが今、彼は一回りほども年下の少女に緊張していた。いつの間にか握りしめていた自分の右手に気づき、自嘲するように呟く。


「……まるで憎悪が人の形をしているようだ。ただの世間話ですら生きた心地がしないよ、全く……なんて瞳で他人を見るんだい」


 踵を返し、自分の執務室へと戻るユリウス。恐らく自覚は無いのだろうが、あれはもう、少女の皮を被った死神といって差し支えないだろう。自分でさえこうなのだ。他の者を聞き取りに寄越すなど、そんな事が出来る筈もない。凡そ十五歳の少女が纏っていい気配ではなかった。


 この世界には多くの神が存在していると言われている。

 戦いの神、商業の神、冒険の神、娯楽の神、鍛冶の神。果ては盗みの神や料理の神まで、その種類は多岐にわたる。そんな神々の中で最も位の高い神が、この世界を創造し、生命を作り、そして終わりを与えるとされる女神フィリスだ。そうしてそれぞれの神達は生命に『加護』を与えた。女神フィリスを除いて、だが。


 加護持ちはそれぞれの神を信仰する場合が殆どで、加護を持たないものは主神であるフィリスを信仰する。割合で言えば当然、加護を持たない者のほうが圧倒的に多い。故にフィリス教は広く知られ、最も信者の多い宗教となった。

 しかし、フィリスは加護を与えない。少なくともアリスが現れるまでは、一度たりとも確認されたことがなかった。フィリスの声を聞くことが出来ると言われている『聖女』ですら、フィリスの加護は得られなかった。フィリス教などと謳っておきながら、フィリスによる寵愛の証が無かったのだ。故に聖教国はずっと探し続けていた。象徴たる女神の愛し子を。

 

 とはいえ、アリスがこの国に居るのは契約ありきだ。

『断罪者』を務める代わりに、ユリウスはアリスに情報を渡す事を約束した。情報とはもちろん彼女の敵についてだ。彼女の家族を殺した者達、そしてその指示を出した者。理由と目的、居場所など。それらの全てを調べ上げ、彼女に渡す契約だ。それらを得た彼女が何を行うのかなど、あの濁りきった瞳を見れば誰にだって分かる。だがユリウスにとって、その者達がどうなろうと知ったことではない。ただ彼女をこの国に繋ぎ止める、その楔となってくれたことに感謝するだけだ。


 孤児院の襲撃は、山賊たちの気まぐれな蛮行では断じて無い。仮に食料を奪うためだったとしても、近くには小さな村があるのだ。少なくとも、孤児院よりはそちらを襲撃したほうがよほど効率がいいだろう。予想される抵抗の規模など、山賊側からすればどちらもそう変わらない。つまり山賊達には、何か孤児院を襲う理由が他にあった筈なのだ。そして山賊達には、収穫が期待出来ない孤児院へと執着する理由など、あるはずもない。つまりは何者か、孤児院の襲撃を指示した輩が居るのだ。なによりも、アリス自身が賊の会話を聞いている。曰く、『指示オーダー通りにやれ』と。


 だがアリスの仇は余程警戒心が強いのか、情報収集はあまり進んでいない。。情報提供の匙加減を誤れば、最悪の場合、あの死神の『鋏』が自分達の首に添えられる可能性も十分にある。アリスは『恩義』などで動いているのではない。彼女の行動原理とは、つまるところ『怒り』と『憎悪』によるものなのだから。


 あの怒りと狂気に満ちた少女の手綱を握るのは、ユリウスを以てしても容易ではなく、さながら綱渡りのようだった。


「あの異様な気配さえなければ、見た目はただの可愛らしい少女なんだけどなぁ……いや、そう呼ぶには瞳が濁り過ぎかな?」


 成長期に満足な栄養を採れなかったせいか、アリスは同年代の女性と比べても小柄だ。その癖『加護』の強さと戦闘力は、聖教国が誇る聖騎士長でさえも比較にならないほど高い。なにしろ、通常であれば複数の隊で対処しなければならないS級の魔物モンスターですら、彼女は単独で撃破してしまうのだ。無表情のまま、こともなげに。幼い容姿と、異質な内面。そして唯一無二の加護と異常な戦闘力。そのバランスの悪さが、彼女の異様さを一層際立たせていた。


「ま、折角見つけた『女神フィリス』の子だ。精々見放されないよう頑張るしかないね。全く、忙しいったらないぜ」


 肩越しに振り返り、アリスの部屋へと続く扉をちらりと眺めるユリウス。その質素な扉へと恨み言を一つ投げかけ、彼はその場を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る