第2話 断罪者

 アルナリーゼ聖教国。

 その東国境付近の森を、三人の男が歩いていた。ただでさえ歩き辛い森の、月明かりが僅かに差し込む程度の暗闇の中だというのに、彼らの足は止まることがない。しかし十分に周囲を警戒しながらの、慎重な足取りだった。

 極度の緊張からか、額には大量の汗が浮かんでいる。身を清める暇も無かったのだろう。乾いた血や泥が付着しているのを見れば、かなり長い時間こうしていることが分かる。


「……どうだ?」


 無精髭を生やしたリーダー格の男が、声を潜めて残りの二人へと問いかける。それは静まり返った森の中にあって、近くにいる二人だけがどうにか聞き取れる程度の声量だった。


「……わからん。人の気配は感じないが……」


 鋭い目つきで周囲を警戒していた、背の高い男がそう答える。彼は三人の中では二番目の実力者であり、その背中には大きな大剣を背負っている。その言葉を聞いたリーダー格の男は、油断のない瞳で周囲を睨みつけ、そうして顎に手を当てて考え込んだ。


「妙だな……待伏せがあるとすれば、このあたりの筈だ。国境を越えられれば下手に手を出せなくなる。国外が目と鼻の先にあるこの場所なら、油断しているかもしれない。俺が追手ならそう考える」


「同感だ。案外、まだバレてないのかもしれんぞ。まぁ、仮に聖騎士が何人か追って来た所で、俺達なら問題にもならんがな」


「まぁな……俺とお前、二人共が何の気配も感じないのなら、まだ追手は出ていないのかもな。或いはこのまま、何事もなく抜けられるかもしれん」


 見るからに戦闘慣れした二人の男が、顔を見合わせてにやりと笑う。言葉の通り、ここは聖教国の国境間近だった。森を抜けて東に少し進めば、帝国の関所まではあっという間だ。そこまでたどり着けば帝国領土内となる。仮に聖教国の聖騎士が追ってきていたとしても、手出しは出来ない。


 三人の男達は、聖教国の東に位置する国、ディルメリア帝国の人間だった。

 彼らは帝国のとある人物から、聖教国内から『ある物』を盗んできて欲しい、という依頼を受けたのだ。多額の報酬を条件に、諜報活動に長けたリーダー格の男を筆頭とし、戦闘に長けた者、そして聖教国の内情に詳しい者がメンバーに選ばれた。任務の性質上、三人という少数精鋭での潜入だった。戦力としては少し頼りないように感じられるが、リーダーの男は『加護』持ちだ。彼らの仕事は思いの外スムーズに進んだ。


 そもそもアルナリーゼ聖教国は『聖女』を頂点とした国であり、女神フィリスを崇拝する宗教国家だ。聖教国は軍隊を持たない。自衛と治安維持のために聖騎士と呼ばれる者達が存在しているのみで、領土も周囲の列強国と比べればそれほど大きくは無い。しかし世界中に多くの信徒を有するが故に、周辺国も迂闊に手が出せない。他国の戦争に介入せず、その立場から調停のみを請け負う、謂わば世界の調停者。

 それがアルナリーゼ聖教国だ。故に、戦争とは無縁の国だった。少なとも表向きは。


 だから、というべきだろうか。彼らが聖教国に潜入するのは、そう難しいことではなかった。とはいえ、当然ながらバレれば大問題になる。自害用の薬は歯に仕込んであるし、その覚悟もあった。三人のうち、一人を除いては。


「あぁ、くそっ……やっぱりこんな仕事、受けるんじゃなかった……」


 これまで一言も言葉を発していなかった残りの一人が、ぽつりと呟いた。彼は今回のメンバーの中で、最も聖教国に詳しい男だ。武器を持たず、背中には大切そうに大きな荷物を背負っている。そんな顔を真っ青にした男へと、リーダー格の男が問いかけた。


「何だ、今更になって。もう国境はすぐそこだぞ?」


「だったら早くここを出よう……!! 早く逃げないと……!!」


 唇と喉を震わせ、何かに怯えるような声でそう訴える男。彼はこの任務中、ずっとこの調子であった。潜入する時も、モノを盗み出す時も、こうして逃げている間もずっとだ。仕事自体はしっかりとこなすので、リーダー格の男はただ『気が弱い男だな』などと思っていた。しかし、任務達成を目の前にしても変わらぬこの怯えようは、些か不自然な気がした。


「……何をそこまで怯えているんだ? 聖騎士の一人や二人、俺とコイツが居れば簡単に始末出来るぜ」


「その通りだ。俺達がここまですんなり来られたのが良い証拠だ。他の国ならこうはいかねぇぞ。軍や騎士団に見つかれば、地の果てまで追い回されるからな。要するに聖教国は、平和ボケした連中の集まりだったってことさ」


 リーダー格の男に続き、長身の男がそう言葉にする。事実、今回の任務中に戦闘がなかった訳では無い。二日ほど前に付近の村へ立ち寄った際、たまたま巡回に来ていた聖騎士から荷物を検められそうになり、仕方なく二人ほど殺している。その時の様子から考えれば、無理をすれば十人程度までは相手取ることが可能な筈だ。気弱な男もそれを見ていた筈で、そうであればこそ、何がそこまで彼を不安にさせるのかが分からなかった。


 だが、気弱な男が恐れているのは聖騎士などではなかった。


「……『断罪者』だ」


 男がぽつりと、零すように呟く。


「……あん?何だって?」


「僕が恐れているのは、聖騎士なんかじゃない。聖教国の……いや、この世界で最も恐ろしい、人の形をした何かだ」


「なんだそりゃ……聞いたことねぇなぁ……何だその、何とかっつーのは?」


 気弱な男が絞り出すように零した言葉に、背の高い男が鼻白む。

 断罪者───背の高い男には聞き覚えのない言葉だったが、リーダー格の男はその名前を聞いたことがあった。それは各地で諜報活動を行っていた彼ですら、噂程度にしか聞いたことのない、殆ど都市伝説のような話だ。


「少しだけだが、俺は耳にしたことがある……だがアレは眉唾ものの、ただの御伽噺か怪談みたいなものだろう?」


「違う! 御伽噺なんかじゃない! 『断罪者』は実在する!」


 隠密行動中だということを忘れたわけでもあるまいに、気弱な男は声を荒らげて反論する。真っ暗な森の中に、鬼気迫る声がこだまする。


「おい、静かにしろ」


 リーダー格の男がそうたしなめるも、気弱な男は止まらなかった。彼がずっと抱えていた不安と恐怖が、任務の終わりを前にして溢れ出したのだろう。


「……アンタ達は知らないだろうが、聖教国にちょっかいを出したヤツらはこれまでに何人か居るんだ。そしてその誰もが、もうこの世には居ない。各国のトップだって、その存在を薄々感じているんだ。だから誰も聖教国には手を出さない……彼らは『断罪者』を恐れているんだ」


 堰を切ったようにそう語る気弱な男は、既に恐怖で涙ぐんでいた。語っている内に、徐々に恐ろしくなってきたのだろう。彼とて、この任務に選ばれる程度には優秀な男の筈だ。そんな彼がこれほどまでに恐れるモノとは、一体何なのだろうか。『断罪者』などというものを唯一聞いたことのなかった、背の高い男が問いかける。


「で、結局何なんだ? よく言うところの死神みたいなモンか?」


「……そんな、空想上のモノじゃあない」


 そうして気弱な男は語り始める。彼の知る『断罪者』についての情報を。

 聖教国には五人のトップが居る。聖教国の頂点であり、『神託』によって女神の声を聞くことが出来ると言われる『聖女』。そしてその下に、聖女を補佐するための四つの役職が存在する。聖教国は彼らの合議によって成り立っており、聖女を含めたそれらの役職者をまとめて『使徒』と呼ぶ。


 女神フィリスに代わって祭事や儀式等を行う『聖女』。

 聖教国内に於ける政策の殆どを取り仕切る『先導者』。

 国内産業の発展と流通、それらを管理する『創造者』。

 聖騎士の運用と管理、国内の治安維持を担う『致命者』。

 他国との交易や外交等の最高責任者である『代弁者』。



 無論、それぞれの下には無数に枝分かれした役職が並んでいるが、聖教国のトップとして知られているのは『使徒』の五人である。だがそれとは別に、表に姿を見せることのないもう一人の使徒がいるという。それこそが『断罪者』であり、気弱な男が恐れている存在だった。他の五人とは異なり、『断罪者』の下には何者も存在せず、完全に独立した存在であるらしい。


 物々しい名の通り、『断罪者』の役目とは聖教国が表には出せないもの、それら全般だ。聖騎士では手に負えない罪人の追跡と処刑。人間、魔物、国内外に拘わらず、聖教国にとって害となる存在の排除。そうした表には出せない闇の部分全般を担うのが、その『断罪者』というわけらしい。


 曰く、その正体は女である。

 曰く、その姿はまるで子供のように小さい。

 曰く、性格は冷酷で無慈悲。標的に対しては一切の情けをかけない。

 曰く、聖騎士団長はおろか、S級のモンスターですらも相手にならない強さを持つ。


 公的には存在が明らかにされておらず、姿を見たものは一人残らず死んでいるが故に、実在するのかどうかすらも判然としない、何もかもが謎に包まれた人物。逃げることも、抗うことも許されない。誰であろうと等しく裁きを下す、聖教国の抱える謎の死神。それが『断罪者』。


 気弱な男が語った話をまとめると、大凡こんなところだった。だがその話を聞いた長身の男は、やはり鼻で笑うだけであった。


「はっ、胡散臭ぇ。そもそも誰も姿を見たことがねぇのに、なんだって女だの、背が低いだのって噂が流れるんだ?その時点でもう眉唾だろ」


「まぁ、コイツの言う通りだな」


「っ……いや、それは……」


 黙って聞いていたリーダー格の男も同意見であった。ある意味興味深い話ではあるが、信憑性が皆無だ。話のネタにはいいかもしれないが、信じるのはそれこそ子供くらいのものだろう。男達はそれを真に受けるような年齢ではない。少なくとも、今この状況で話す内容ではなかった。


「時間を無駄にしたな……まぁいい。ともかく帝国はすぐそこだ。この森さえ抜ければ、あとは簡単に逃げ───」


 リーダー格の男がそう言って、前方へ視線を送ったときだった。彼の言葉は途中で途切れ、その視線の先には、この場には凡そそぐわないあるものを捉えていた。そんな男の様子を不審に思ったのか、長身の男が続けて前方を見やる。


「……? おい何だ、どうし……」


 そしてやはり、最後まで言葉が続かなかった。

 彼らの視線の先、森の出口には一つの大岩が転がっていた。だが男達が見つめているのは大岩ではない。彼らが見ているのは、その大岩の上に座り込む小さな影だった。


 ───逃がさない。


 鈴を転がすような、澄んだ声だった。恐らくはまだ幼い子供の声のような、夜の帳の中にあって、どう考えても似つかわしくない美しい音色だ。


 森の外は思いの外明るく、雲間から差し込む月光によってその姿がはっきりと見える。その影は全身を黒い衣服に身を包み、フード付きの外套を目深に被っていた。外套の隙間からは、長い金色の髪が夜風に吹かれて揺れている。無機質な白い仮面がその顔を覆い隠し、表情を窺い知ることは出来ない。だが声から察するに、女であることは間違いない。遠目から見ても小柄なその姿を鑑みれば、少女と言っても差し支えないだろう。


 その存在感は酷く希薄で、いっそ皆無と言っても過言ではない。敵意や殺意といったものすら感じない。本当にそこに存在しているのか、男たちには自信が持てない。ただ視界の中に映っているというだけで、それ以外の全てが泡沫のようだった。


 何もかもが異様な光景だった。

 こんな夜更けに、森の前に少女がいることもそう。その少女の外見が、迷い込んだ村娘には到底見えないこともそう。少女の言葉もそうだ。そして何よりも、少女が肩に担いでいる大きな『はさみ』が、あまりにも異様だった。彼らが間抜け面を晒さずに澄んだのは、偏に、これまでに幾度となく死線をくぐってきた経験のおかげだ。


 目算だが、鋏の大きさは彼女の身長と同じか、或いはそれ以上にあるだろう。月明かりで白銀に輝く大鋏には、美しい装飾が施されている。とてもではないが、紙を裁断する為のものだとは思えない。では何のために、あれほど大きいのだろうか。

 あんな、鋏など、三人の男は見たことがなかった。


 唯一分かることといえば、その台詞から察するに、男たちにとっては間違いなく『敵』だということだけだ。


「……おい」


「ああ……」


 二人の男が、互いに短く言葉を交わす。そうして目の前の存在から視線を切ることなく、リーダー格の男が誰何すいかした。


「……何者だ?」


 そう聞いてはいるものの、はっきり言ってどうでもよかった。とてもそうは見えないが、敵であることは殆ど間違いないのだ。男の言葉はただの時間稼ぎ。会話で注意を引いている内に、隙を見て攻撃をするつもりだった。この程度の距離ならば、ほんの数秒で間合いに入れられる。

 長身の男がそっと背中の大剣へと手を伸ばした。ここは森と平原の境目で、仮面の少女は森の外にいるが、男たちはまだ暗い森の中だ。僅かな動き程度であれば、あちらからは見えない筈だった。


 その瞬間、仮面の少女の手が動いた。

 動いたとはいっても、本当に僅かだ。その場から一歩も動くことなく、仮面越しの顔を男たちへ向けながら、ただ鋏の持ち手を小さく上下させただけ。つまりは、鋏の刃を少し開いて、そして閉じたのだ。


 ちょきん。


 静まり返った夜空の下で、白銀の刃が小さな声を上げる。その行動に一体何の意味があるのか、男たちには分からなかった。だがその数瞬後、違和感を覚えた長身の男が、剣の持ち手に伸ばしていた右手を見つめる。男の右腕、その肘から先が地面に落ちていた。


「……あ?」


 痛みを感じることも忘れ、ただ呆然と腕を見つめる長身の男。それは彼の身体も同様だった。血を流すことすら忘れた彼の右腕は、まだそこにあるかのような感覚を男に伝えている。男は自分の身に何が起こっているのか、まるで理解出来なかった。

 そうして数秒の後、じわりと血が滲み出す。一度血が出れば後は早かった。瞬く間に勢いを増した血は、男の苦悶と同時に吹き出した。


「ぐおおおおッ!! な、何だ!? クソッ、どうなってやがる!?」


 腕を抑え、歯を食いしばって痛みに耐える長身の男。回復薬では、欠損には殆ど効果がない。治癒魔法があれば止血は可能だが、生憎とこの場には治癒術士ヒーラーが居ない。腕を繋ごうとすれば、大都市の治療院で多額の治療費を払わなければならない。どの手段を採るにしても、今この場では不可能なものばかりであった。


「て、テメェ!! 一体何者だ! アイツに何をした!?」


 リーダー格の男が声を荒げる。今度の誰何は本心からのものだった。『加護』持ちの諜報員として様々な世界を渡り歩き、多くの『加護』持ちをその眼で見てきた男だが、そんな彼を以てしても、一体何をされたのか分からなかったのだ。


 如何にも戦闘慣れした強面の男に凄まれても、仮面の少女は何も感じてはいない様子だった。ただ静かに立ち上がり、そうして告げる。



 ───私は痛み。

 総ての者に付き纏う、逃れることの出来ない痛み。絶望と嘆きの果て、人々が縋る最後の希望。

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