濁る瞳のアリス

しけもく

第1話 プロローグ

 まだ温かい地面の上で、一人の少女が座り込んで泣いていた。

 焼け落ちた孤児院、辺りに散らばるおびただしい血と臓物。周囲に動く者の姿は無く、少女の慟哭は虚しく響き渡る。


 そんな少女の目の前には、まだ辛うじて息のある男が仰向けに倒れている。目は既に見えておらず、腹部にはどう見ても助からない傷を負い、それでも男は血溜まりの中で唇を震わせた。


「ぅ……ぁ……」


「先生ッ!!」


 か細い、今にも消えゆきそうな声だった。

 燃え盛る炎でかき消されてしまいそうな、そんな小さな声を少女は聞き逃さなかった。


「あぁ……無事で、良かった。皆は……他の子達は無事かい? 誰も……怪我はしていないかい?」


 途切れ途切れに発せられる男の言葉に、少女は血に濡れた手で涙を拭い、努めて明るい声で問いに答える。しかし、その返事にはほんの一瞬だけ逡巡があった。彼女が周囲を見回したからだ。炎に照らされた、もはや誰のものかすら分からない血と臓物で出来た地獄を。


「っ……先生が守ってくれたから、無事だよ、皆……ッ!」


 顔を血と涙でぐしゃぐしゃにしながら、少女はそう答えた。それが嘘だと気づかれないように。息のある者は、もうここには二人しか残っていないことを悟られないように。男の目が、もう見えなくなっているのがせめてもの救いだった。少し見回しただけで、生き残りがいないことなどすぐに理解ってしまうから。


 孤児院の者は皆、血は繋がって居なくとも家族と同じだった。同じ食卓を囲み、共に泣き、共に笑った。孤児院の中では年長である少女にとって、彼ら彼女らは弟妹だ。そして同様に、先生と呼ばれた男にとっては息子、或いは娘と同じだった。


 伝えられるだろうか?

 死にゆく男の最期に、誰一人生き残りは居ないと。貴方が守ろうとした者は、自分を除いて一人も助からなかった。貴方の子どもたちは皆、無惨に斬り捨てられ血の海に転がっている。ある少年は首から上がどこかへ行ってしまって見当たらない。ある少女は半身が上下2つに別れ、内臓が溢れだしている、等と。


 否、出来るはずがなかった。少なくとも少女には、その勇気がなかった。


「そう……キミは優しいね……げほっ、ごほっ!」


 激しく血を吐き出しながら、男は悲しそうに微笑んだ。

 あぁ、いつもこうだ。自分が吐いた嘘など、男には全てお見通しなのだ。苦痛に顔を歪めながらも頬を緩ませる男を見て、少女は失敗を悟った。彼女がこの孤児院に来た時からそうだった。この男に隠し事は出来なかった。


 考えてみれば当然だった。如何に目が見えずとも、耳は聞こえているのだ。もしも子どもたちが全員無事ならば、今こうして彼女の声しかしないのは不自然なのだから。


「賊は……彼らはどうなった?」


「……ッ!! 先生!! もぅ喋らないで!!」


「……どうか、教えて欲しい。危機は去ったのかい? キミは怪我をしていないかい……?」


 自らの命が消えかけているというのに、男はただ少女の心配だけをしていた。孤児院を襲った賊達は一体何者なのか、その目的は何なのか。子供を庇って凶刃に倒れ、気を失っていた男には、その一切が理解らなかった。だがそのようなことよりも、男にとってはただただ、生き残った少女の置かれた状況だけが気がかりだった。


「……アイツ等は、もう何処かへ行ったよ。わたしも、大丈夫」


 僅かな逡巡。


 言えるだろうか?

 この地獄を作り出した元凶、その半分は自分であると。辺りに散らばる臓物の、その大半は孤児院を襲った賊のものであると。私が、貴方の娘が、賊を全て殺し尽くしたなどと。どうしても上手い嘘など思いつかず、少女は真実を伝えられなかった。


 もしかすると、そんな少女の嘘も、心の内さえも、男には見透かされていたのかもしれない。だが男は追及することなく、ただ少女に対して謝罪の言葉を口にする。


「そう、か……、それならよかった……不甲斐ない先生でごめんよ」


「そ、そんなことないッ!! 先生は───ッ!!」


 男は身を挺して家族を守ったのだ。結果として賊を皆殺しにしたのは少女だが、そんなことは関係がない。そもそも彼が倒れなければ、きっと少女は『加護』に目覚めてはいなかった。男は自分の為すべきことを為し、その結果、こうして死んでゆくのだ。彼を誇らしく思いこそすれ、不甲斐ないなどと思う筈がなかった。


「ふふ……げほっ!! いいかい、よく聞くんだ。僕はもう、長くはない。悔しいけれど、君の成長を……最後まで見届けてあげられないんだ」


「……っ!!」


 それが男の最期の言葉になるであろうことは、まだ幼い少女にも理解っていた。故に、聞かなければならない。どれだけ聞きたくない言葉であろうとも、自らを育ててくれた男の、今際の言葉を遮ることなど出来ない。


「……僕の言葉を、覚えているかい?」


 それは酷く抽象的な言葉だった。だがそれでも、男の言葉が何を指しているのか、彼女にはすぐに分かった。それは男が子どもたちに、日頃から言い聞かせてきた言葉だから。


 『この世界は、他人の痛みを無視して成り立っている。それはとても悲しい事だ。だから君達は、君達だけは───』


「他人の痛みが分かる人間になりなさい……だよね?」


「いい子だね……そう、それを忘れないで欲しい」


 少女の答えに満足したのか、血を吐きながらもそう言って男は笑う。

 男が過去にどういった人間だったのか、何故こんな田舎で孤児院などを経営しているのか、少女は勿論のこと、孤児院で生活している子供達は誰も知らなかった。男の素性はまるで分からないが、それでも子どもたちにとっては唯一の親であり、先生だった。そんな男が口を酸っぱくして言い聞かせていた言葉だ。覚えているに決まっている。


 この地獄の中にあって、少女は男の言葉を反芻する。成程、つまりは『今』がそうなのだろう。子どもたちの感じる痛みなど、襲撃者にはまるで関係がないのだ。弱者の痛みも悲しみも、強者の前では塵芥と同然で。そしてそれが、この世界ではきっと当たり前で。


「げほっ! ごほっ!! うぐッ……!!」


「先生っ!?」


 大量の血を口から吐き出し、男の容態が悪化する。

 否、もう随分と前から、これ以上悪化のしようがないほどに悪かった。むしろ、これまで永らえていたことが奇跡的なくらいだ。つまりこれは悪化ではなく、ついに終わりがやってきたというだけのことだ。


「これから先……きっといくつもの試練が……キミに、襲いかかるだろう……だけど、それでも……どうか……諦めずに、強く生きなさい」


「先、生……」


「だいじょうぶ……キミは、僕の自慢の娘なんだから……それに、キミの親友……『あの子』も、きっとキミを待ってる……そう、約束したんだろう……?」


「先生ッ!! でもわたし……わたしはッ!!」


 もはや聞き取ることすら難しい、そんな掠れた声で男は言う。

 殆ど半身と言っても過言ではない程に、少女にとって最も親しかった同い年の『あの子』。何をするにも一緒で、共に年長として助け合ってきた『あの子』。二年前に『加護』に目覚め、王都の貴族に養子として引き取られていった『あの子』。


 少女と『あの子』、二人の間には約束があった。

 必ずまた会えるから、先に王都で待っていると、そう約束した。

 必ず後から追いついてみせると、そう約束した。

 どちらかが助けを求めているときは、必ず飛んで行くと、そう約束した。


 無論、それは子供同士の単なる口約束に過ぎない。所詮は夢と理想に過ぎず、約束が守れる保証など何処にもない。それでもその約束は、少女の胸の中にあり続けていた。


「キミは、独りなんかじゃない……だから、生きなさい───アリス」


 男は最期にそう言い残すと、それきり動かなくなった。力なく放り出された男の腕が、指先が、すっかり冷たくなるまでに、そう長い時間はかからなかった。


 独りその場に残された少女は、ただぼんやりと焼け落ちてゆく孤児院を眺めていた。確かに、小さな村が山賊に襲われる事例など、数えれば枚挙に暇がない。大きな街やその周辺ならばいざ知らず、辺境の田舎にある集落まで国の警備が行き届いている筈もないのだから。だからといって、納得など出来るはずもない。誰も彼もが、街の周囲に居を構えることが出来る訳では無いのだ。大した労働力にもならない孤児であればなおさらだ。


 少女は思う。

 弱いから、力が無いからと、そう言って諦めなければならないのか。こんな理不尽を、ただ受け入れなければならないのか。


 男は言った。

 人の痛みが分かる人間になりなさい、と。その言葉を聞く度に、少女もまたそうありたいと願ってきた。

 だがコレは何だ。こうして自分達の痛みは無視され、無惨に蹂躙されているというのに。それでも他人を思いやれと言うのか。ふざけるな。それは、そんなことは───


「先生……わたしには、無理だよ……」


 そう小さく呟き、少女はその場に顔を伏せた。


 それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 空が白み、激しく燃えていた孤児院の火がいくらか落ち着きを見せた頃。少女は静かに立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。彼女の長く美しい金色の髪は、誰のものかも分からない血でどす黒く変色していた。


 少女はのろのろとした足取りで、ゆっくりと時間をかけ、物言わぬ骸となった子供たちの『部品』をかき集めだした。自分よりも小さな女の子のはらわたを腕に抱え、いたずら好きだった少年の頭部を拾い上げ。転がっていた目玉を、千切れた髪を、可能な限り残さずに。そうして1つずつ腕に抱える度、少女は自分の心が壊れていくのを感じた。


 少し離れた丘に『部品』を纏めた後、孤児院の残骸からシャベルをひっぱりだして穴を掘った。なにしろ数人分の遺体を入れる穴だ。幼い少女一人の手では時間がかかると思われたその作業も、しかし『加護』に目覚めた少女の手にかかれば、ものの十分もしない内に終えることが出来た。最後に、少女が先生と呼んでいた男を運び、子供たちだったモノと一緒に穴へと埋めた。


 泥と血と、その他の様々なものですっかり汚れた少女は、何をするでもなく、ただぼうっと空を見上げ眺めていた。ここにある地獄とは正反対の、綺麗に晴れ渡った蒼空だった。




 * * *




 孤児院から煙が上がっているのを近くの村人が発見し、そうして騎士団に助けを求めてから丸一日。こんな辺境に常駐している騎士団など居るはずもなく、実際に彼らが孤児院へたどり着いた時には、襲撃から二日が経っていた。たまたま最寄りの町に巡回に来ていた隊があったおかげで、これでも随分と到着は速い方だ。


 孤児院に辿り着いた騎士達が見たものは、この世の地獄かと錯覚するほどの凄惨な光景だった。ざっと見ただけでも十数人、或いは数十人分はある、恐らくは襲撃者であろう男達の死体と撒き散らされた臓腑。既に二日も経過しているというのに、未だ乾くこと無く地面を濡らす血溜まりが、ここでどれほどの惨劇が起こったのかを一目で彼らに理解させた。だがいくら探しても、孤児院の者達の遺体はただの1つも、終ぞ発見出来なかった。


 その後も騎士団による簡単な調査が行われたが、ここで何が起こったのか、賊を殺したのは一体何者なのか、孤児院の者達の遺体は何処に行ったのか、それらの詳細は不明のままだった。だが、所詮は僻地で発生したよくある事例の1つに過ぎない。詳しい調査など行われるわけもなく、報告書上で辻褄を合わせればそれで終わりだ。


 結局、丁度この付近で暴れ回っていた、騎士団でも手を焼いている山賊団の襲撃ではないか、と騎士団は推測。山賊の死体については、酔った勢いか、或いは分け前絡みでの仲間割れによるものだと判断された。そうして最終的に、この一件はよくある山賊被害の1つとして雑に処理されることとなった。


 生き残りは、誰一人見つからなかった。

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