その7  

 ――雨が降ってきた。窓ガラスに当った雨滴が風圧のため扁平に広がった。真一は外が暗くなったため顔を映す様になった列車の窓ガラスを眺めた。ガラスに映った目分の顔を見ていると、光子が「あなたはあまり人と話をするのに慣れてないみたいね」と言った言葉が思い出された。それは音楽会で光子と会った(真一の期待通りに)時だった。 一緒に入った喫茶店で、真一が勉強に追われて人と話をする事もない目分の生活をこぼした時、光子は「そういえば」と言う風に言ったのだ。何気ない言い万だったが、真一は改めて目分の現状を確認させられた様な気がした。 ズバリと物を言う人だと思った。


 二人はその時電話番号を教え合って別れた。 自分から電話はしても、 まさか光子から電話はあるまいと真一は思った。自分の中の暗いものが健康な光子を弾くだろうと思っていた。だから光子から電話があった時、真一は驚くと同時に、 目分の気持が伝わった様な喜びを感じた。

「あなた明日空いている……植物園の入場券が二枚あるのよ、私、午前中なら空いてるの……お勉強の本持ってくればいい、私も持っていくから」

 光子はそう言った。真一が「午前中だけなら勉強する時間なんかないだろう」と言うと「いいのよ、それは」と照れた様な声が返ってきた。光子は病院の「母親教室」で、出産前後の婦人達と英会話を勉強していた。光子の声は鋳躇いながら弾んでいた。自分から電話をかけてくる事のなかったNを思って、真一は光子の能動性を新鮮に感じた。光子の存在が真一の胸の中でふっと膨らんだ。

 植物園の花園は美しかった。真一は歌を口ずさみながらその間を廻った。 日に輝く花の色が服や顔に映える花壇の側のべンチで二人は語った。様々な花の名前を当て合いながら、広い園内を歩き廻った。光子は急に弾みだした真一を少し怪訝そうに眺めていた。 こんなプランを立てる光子に一層真一はひきつけられていた。植物園の半日は瞬く間に過ぎてしまった。


 その日から光子は真一にとって特別な人になった。するとこの人を失いたくないという気持が真一の中で強まった。光子をNの様に自分から離れさせたくなかった。光子とは心から豊かな交流がしたかった。だがそう思うと真一は自分に自信が持てなかった。自分の中の暗いものが二人の間を壊してしまいそうに思えた。いつかそれが光子を傷つけ、幻滅を与えそうに思えた。その恐れが真一の心の自由な動きを奪った。


 ―― 俺は光子の前でどれだけこの枷から脱れようと腕いたか、と真一は思った。映画館に誘った時は、それが最も激しく俺の心を締め上けて、光子との交流をぶち壊してしまった― 光子との噛み合わぬ会話、「さよなら」と言った時の光子の淋し気な顔が再び浮かんだ。もうたくさんだ、と真一は思った。


 列車は長いトンネルに入った。窓の外をナトリウム灯の黄色い光が殆ど一直線の閃光となって走った。


 ――生活を変えなければいけない、真一は唇を噛んだ。俺はもうこんな生活はできないんだ……。

「働こう―」

 真一は呟いた。働いて社会の中に自分の足で立とう……。真一にはやはりそれ以外に目分が立ち直っていく道があるとは思えなかった。このままでは俺は光子を愛せない人間になる、それは恐怖だった。真一は光子と同じ地平に立ちたかった。揺るがない労働という大地に立って、光子を充分に愛したかった。


 「早まるな」 「合格さえすれは」、そんな声がした。しかし大学院は真一の気持の中て既にその魅力を失っていた。ただ知的経歴をつけるために自分は大学院に進もうとしたという事が、今は素直に承認される様な気がした。その事よりも聴講生としての自分の生活の空虚さに真一は激しい憎悪を覚えた。


 列車はトンネルを抜けた。外は日射しが回復していて、暖かい光が窓から飛びこんできた。

「働こう」

 真一はもう一度呟いた。その気持の中で光子が自分に近づくのを真一は感じていた。それだけでなく、まわりの人々との結びつきをもう一度作り直せそうな気もするのだった。


 光子に会わずに帰ってきた、だがこの帰郷は無駄ではない、真一は光子に語りかける様にそう思った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

帰郷 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説