第22話 光トポグラフィー実験の被験者になった
だいぶ前に、光トポグラフィー実験の被験者になったことがある。
光トポグラフィーとは、テレビで見た人もいると思うが、ボコボコと突起がいっぱい付いたヘルメット状のものを頭にかぶる。
突起の内側が頭皮に当たると、その部分がセンサーになっていて、脳内の血流変化が測定できる。
正確に云うと、センサーからの近赤外線によって、脳内血流中のヘモグロビン酸化度が測定できる。
それを画像化すると、脳のどの部分の活動が高まっているかが、赤や青の色の変化で一目で分かる。
たいていは、暗算とかテニスの試合の想像のような課題が与えられ、課題の違いによって相関している脳の部位が分かってくる、という仕掛けだ。
その日は、センサーを頭に装着すると、課題が与えられる前に何分か安静にするよう言われた。
実験データとなるのは安静時の測定値と課題遂行の時の測定値の差なので、事前安静は絶対に必要になる。
ところが筆者は、構想を始めたばかりの論文が気になっていた。
そこで、これさいわいと論文の構想の続きを考え始めたのだった。
すると、とたんに、
「何か考えていますね。考えないで下さいよ」という、実験者の声が飛んできた。
あとで聞くと、そのとき、大脳皮質前頭葉の活動が高まったことが、グラフ化されリアルタイムで示されたということだった。
この被験者経験は、深い印象を筆者に残した。
それまでは、脳神経科学の教科書どおりに、脳の活動によって思考が生み出されるから、脳が原因で心が結果なのだと、何となく思っていたのだった。
けれども実験室で筆者は、考えようとして考え始めたのである。その結果、前頭葉の活動が高まったのだ。
これでは、心(=考え)が原因で脳(=前頭葉の活動)が結果と、見なしてもいいのではないか。
筆者が論文の構想を考え始めたとたんに、脳血流のヘモグロビン酸化活動が高くなった。
酸化とは燃焼である。脳血流で燃焼を盛んにして脳細胞の活動にエネルギーを供給しているのである。
脳細胞が単独で活動するわけでなく、必ずネットワークとして活動する。ネットワークの活動に不可欠なのが、脳細胞と脳細胞を連絡する脳内神経伝達物質だ。
精神医学の本に出てくるセロトニンやドパミンもそうだが、前頭葉で最も重要な伝達物質は、グルタミン酸とGABAだ。
つまり筆者は、論文の構想を考えることによってグルタミン酸やGABAに動員令をかけ、そのために前頭葉の血流量に変化を生じさせた、と考えることも可能ではないか。
いってみれば、筆者は自分の脳を、考えるための道具として用いたのだ。
ちょうど、カクヨムに投稿するために、自分の指を使ってパソコンのキーを叩いているようなものだ。自分の指もパソコンもカクヨム投稿のための道具なのだ。
もちろん筆者は、意識してグルタミン酸やヘモグロビン酸化に動員をかけたわけではない。
けれどもそれは、この文章を書くのにわざわざ意識してパソコンの内部電流の流れや指先の血流を動員しているわけではないのと、同じことではないか。
ここで、本題である「統合失調症やうつ病のような精神疾患は脳の病気である」という、精神医療界のキャッチフレーズに戻ろう。
このフレーズは(実は仮説なのだが)、脳内伝達物質の流れに変化を生じさせるような薬物が、症状に効果をあらわす、という観察に基づいている。
けれどもそこに、論理の転倒があるように思えてならない。
精神疾患の根本原因は、やはり精神なのではないか。
精神が脳という「道具」の使い方を間違えて、脳の失調という故障を引き起こしたと考えられないだろうか。
たとえば兄の最初の発病の原因は、明らかに、大学入試にすべり、一年予備校で猛烈に受験勉強をし過ぎたことだろう。
こういうことを言うと、すべての一浪受験生が統合失調症になるわけではないので、遺伝的なストレス脆弱性を想定しなければならないと反論されてしまう。
けれどもそれは、使い過ぎで壊れるパソコンと壊れないパソコンがあるのと、同様なのではないか。
なにもパソコン故障の原因をパソコンの側にだけ求めることはないだろう。パソコンの性能を良く知らず、間違えた使い方をしたところに原因を求めたっていいではないか。
【追記(2023/11/2)】:ここに書いたような説がすでに近年の精神医学の専門書に現われていることに、その後気づいたので引用しておく。
「‥‥異常な機能や病態生理現象は、精神障害の原因というより、結果である可能性がある。精神障害の原因を最初に発見しようと熱中するあまり、脳の活性がいろいろな経験で変化しうることが往々にして忘れられてしまう。脳の機能を意識的に変えることが可能な場合もある。バイオフィードバックの実験で、被験者はある種の経験を頭に思い浮かべているだけで、自分の脳の電気的活性に変化を与えられることが証明されている。(ヴァレンスタイン、Ē.S.『精神疾患は脳の病気か?:向精神薬の科学と虚構』(巧刀浩/監訳、みみすず書房、2008)、p.171.
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