第11話 母の死
兄弟姉妹の会に戻ると、本音が語り合える貴重な場であったにもかかわらず,5,6年で足が遠のいてしまったというのは,いまから思えば残念なことだった。
ひとつには、第9話でも引用した手記集(精神障害のきょうだいがいます)を出版するという企画が持ち上がって、筆者のところにも原稿依頼が来たのに、出せなかったことに原因があった。
本業が多忙を極めてきたということもあったが,思いが複雑すぎて書けなかったと言っていい。
なにより,両親共倒れになってからようやく兄を入院させたという以外,何一つできなかったし,兄とのコミュニケーションもできないままという引け目があった。
(註 なお,そののち現在までにいたる兄弟姉妹の会については,藤澤(2020)参照)。
兄が三度目に入院してから5~6年の間,母が杖をついて歩行可能になってからはタクシーに同乗して数カ月に一度の割でC病院に通うことになった。
病院で見る兄は少なくとも悪化する前の状態に近づいてはいたが,母の問いかけに答える言葉はずっと不明瞭になっていた。
2年目と3年目の正月には外泊し,筆者も親の家に泊まり込んで迎えた。
4年目になると母の衰弱が著しくなったので,一人でC病院に行って外泊は無理と告げた。
兄は外泊を望んで病院の玄関まで出てきたりして,大いに不満そうだった。
母の方はといえば,ペットが死んで以来,「お兄さんが帰ってきた,お母さんという声が聞こえた」と真夜中に雨戸を開けるなど幻覚妄想気味になったので,かかりつけ医の紹介でまずD大学病院に入院させ,そこからさらに筆者の居住県内の老人ホームに入居してもらった。
6年後,母は96歳の高齢で世を去った。
兄の発病以来の50年近くを自己犠牲的なケアと絶えざる心労のうちに過ごし,努力も実を結ぶことなく暴力まで受け,希望も打ち砕かれて終わった母の人生とはいったい何だったのかと思わざるを得ない。
前日の手記集には,死去した兄弟への想いとして「いったい彼の人生は何だったのか」(p.187)とあるが,筆者としては存命中ということもあって兄への思いがまとまらない一方で,母へは十分に力になれなかったという後悔と自責の念で一杯である。
罹患当事者の母親という立場から,岡田(2022)は,「家族支援は,本人の再発防止を目的として,家族がよい介助者になるために始まった。現在,本人とともに家族も自分らしく生きる権利があるという認識に変化してきたことは,大変に喜ばしいことと思う」(p.70)と述べている。
筆者の母がこのような支援の恩恵を受けた形跡がなかったのは残念なことだが,筆者としては一歩進めて,家族が(特に母親が)無償・無期限で自己犠牲もいとわないケアラーであることを当然視する固定観念を,改めていかねばならないと思っている。
【参考文献】
藤澤洋子(2020)兄弟姉妹としてのかかわり.こころの科学210(3月号),93-97.
兄妹姉妹の会(編)(2006)『精神障害のきょうだいがいます』.心願社.
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