第5話 25年間の在宅生活
退院ののち兄は,C病院へ三度目に入院するまでの25年間を親の家で過ごした。
相変わらず昼近くに起き,日課と言えば散歩に出かけ駅近の喫茶店で1時間ほど過ごす位であった。
たまの帰省時の筆者の印象では,なるほど「正気」であったが,最初の入院から二度目の入院の間の、大学に通っていた時期よりもずっと悪い状態に思えた。
元々,最初の入院後の,妙に子どもっぽい状態へ変化した時点で,筆者は,幼時から親しみ何かと頼りにしていた「兄的」な人格が失われてしまったという喪失感があった。
まだ兄が大学に通っていた当時の母の語りでは、B医師の説明では「甘やかされていたからね,子どもに還ってしまったんですよ,中学生ぐらいの‥‥」ということだったが,筆者は,それは違うと思ったものだった。甘やかされていたのは末っ子である筆者の方で,兄は割を食っていたのではと,何となく感じていたからだった。
それはともかくとして今回の人格変化はより深刻に思われた。自分からはまず言葉を発することがなく,話しかけられてもウン位しか答えないし,無表情というより何か人格の空虚といったものさえ感じるのだった。
それでも母は,手紙の文句を引くならば「もう一度お兄さんを一人前にしようと」色々働きかけていたのだった。新たな主治医のS医師のアドヴァイスで兄に世話をさせるべく犬も飼った。宿泊旅行にも度々連れて行き,筆者の赴任地も何度か訪れた。
けれども6年7年とたつうちに,母もどうやら諦めたらしいということが分かった。
その頃筆者は,知友を通じて全家連(全日本精神障害者家族会総連合)のことを知り,機関誌『ぜんかれん』を購読するようになり,母にも勧めた。
母はこの雑誌の情報を頼りに,隣の駅近で開かれていた家族会に出席するようになった。そこである日,「いつか自宅をグループホームにして息子が管理人になれば自立できるのではないかと思います。夢かもしれないけど‥‥」と自己紹介したと言うのだった。
グループホームの管理人というのは,『ぜんかれん』の記事にヒントを得た筆者の発案だった。けれども「夢かもしれないけど」という母の発言から,そのような仕事にさえ耐えられないほど兄は悪いという諦めを感じて,筆者は一瞬,胸を突かれたのだった。
そのうち母は家族会に出なくなってしまった。
会で,兄自ら今後について相談できるような場はないかと母が尋ねたところ紹介された相談所に兄をやったところ,後日,女性相談員に「何を言っても一言もしゃべらないので怖くなってしまった,こんな人は初めてだ」と報告を受けたからだという。
加えて母は家族会で話されるような福祉系の話題にはなじめないようだった。
そのうち近所の自治体出張所内でデイケアがひらかれていることが分かり,母に伴われて兄も定期的に通うようになった。そこでは母も通所者に書道を教えるなどし,また家族向けの講習会で薬の副作用についても学び,今までの長い孤立状態からようやっと脱したかに思えた。
時代は,1987年に従来の精神衛生法が精神保健法へと改正され,さらに1995年には精神保健福祉法と改められ,日本の精神医療史の中で初めて,精神障がい者にも福祉の陽の光が当たるようなときであった。この前進に果たした全家連の役割は大きいという(滝沢,2017,p.92ff参照)。
【参考文献】
滝沢武久(2017)『こころの病ときょうだいのこころー-精神障害者の兄弟姉妹への手紙』.松籟社.
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