第3話 母の語り(2)ーー再入院まで
母の語りを中心に兄の再入院までのいきさつを再構成する。
前述のように兄は8カ月に及んだ入院のため大学を2年留年し,当時の学園紛争のあおりでさらに5カ月遅れで卒業したのであるが,就職が決まってから卒業単位を22単位も落としていることがわかった。母は怒って兄をつれて担当教官を戸別訪問し,単位を何とか出してもらって卒業に漕ぎつけたという。
また就職先としては公務員,大学院進学,商社という3択があったが,本人の希望を主治医のB医師も尊重し,商社に決めたのだという。
ちなみにB医師は兄が在学していたT大学の学生相談も兼務しており,在学中卒業後を通して面接と投薬を受けていたのであり,再入院先はこのB医師が副院長を務めるB精神科病院となった。
母の話を聞いて筆者は,よくも最悪の選択を重ねたものだと思ったのだった。
単位を大量に落としたことは,今まで筆者が帰省するたび、兄が昼過ぎまで起きないと母が連日大騒ぎをしていたことからも合点がいく。起きられないのは薬の副作用ではないかと思ったが,母はそれについて説明を受けていない(もしくは理解していない)ようだった。
さらにひっかかったのはB医師が,「この病気は5年間再発しなければ治るんですよ」と言ったということだった。そのような話は聞いたことがない。
また,兄の状態を思い返してもせいぜいが「寛解」だったのに母にはそのような概念がないようで,再発していない状態を「治っている」状態と同一視し,T大出というエリートコースに戻ることが可能だと思っていたことは,兄の入社が決まった当時「社長になるんじゃないの」と嬉しそうに話していたことからも察せられる。
今更ながら思うのであるが,両親が兄に対してエリートコースに戻ることを期待し、叱咤激励し病気を隠して無理な就職を決断させた要因の一つが,この病気の「手ごわさ」(註)についての認識の不足にあったことは疑えない。
(註)「手ごわさ」という表現は『精神障害のきょうだいがいます』の手記に
「統合失調症という病気は想像をはるかに超えたてごわいものだということ
は,このあと〔最初の入院のあと〕気づいたのですが」(p.141)とあることか
ら選択した)。
元々両親はその世代にありがちな「分裂病は治らないと聞いていた」といった統合失調症観の持ち主だったにもかかわらず,一転して奇妙とも思える楽観論者に転じたのは,「治る」という精神科医の言葉を「元通りになる」と解釈し,再発していない状態を「健康な状態」と思い込んだからではないだろうか。
「治ります」という医療側の説明の問題性は『精神障害のきょうだいがいます』に寄せられた手記にも,「弟はすぐ,「治ります」と言われたのに,今では働いているけれど〔同じ病気の〕私よりひどい状態です」(p.54),「精神科医が気休めに言う「治る」」(p.218)といった記述のあることからも窺われる。
母の話を聞いた時の筆者の思いに戻るならば,「本当ならば兄の最初に入院した時点で(当時の筆者の思いに忠実な言葉で表現すると)、人並みのまっとうな人生を断念し,もっと気楽な生き方を選択するよう促すべきだったのに」ということになる。
【参考文献】
兄妹姉妹の会(編)(2006)『精神障害のきょうだいがいます』.心願社.
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