第11話
腕に刀傷を受けた神子は、医師に正規の治療を施されて寝所へと送られた。屈強な衛士でも悲鳴をあげる傷の洗浄も縫合も、汗を滴らせながら歯を食いしばって耐えて。
「落ち着いた方だよな」
その晩、神子の寝殿内の衛士の詰所で、円卓を前に茶をいれた湯呑みを抱えながら、一連の様子を見ていたアジルがボソッとこぼした。
今宵、守護役三人は特令を下されて街の残党狩りに駆り出されて人手の足りない警備の頭数を補うために寝殿の警備に配置されていた。
賊の下手人はタスルの投じた刃が致命傷となりその場で死亡。他に街路に潜んだ賊と思しき容疑者が幾人か捕まったと、一時的に呼び出しを受けた兵部から戻ったシントがアジルとタスルに告げた。
怒涛のように目まぐるしく展開した一連の騒動がひと段落した頃にはもうとうに夜半を過ぎていた。
「あんなことがあったのに、取り乱しもしないし、泣き言一つ言わないなんて」
顔を真っ青にしながらも、毒矢の急襲を受けて以降気を失ったままだったカヌンのことばかり気にしていたケイジュ。
自分の腕から流れる血など全く意にも介さないように。
(その強さ、どこからくるんだ?)
歯噛みする気持ちだった。
神子はいつも何かを心に決めているように気強く振る舞い、その本心は決して明かさない。
(本当に役立たず)
自分を蔑む気持ちがどんどん溢れ出てきて、タスルは髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜながら卓に突っ伏した。
「タスルどうしたの?」
「……なんでもない」
アジルの問いかけに呻くように返答したタスルの傍から、聞き慣れた乾いた笑いが立つ。
「会いたいんだろ?」
シントの低い声が、静かに空気を震わせた。
「……」
「もうすぐ子の刻だ。それ以降の房側仕の役目、お前に任せるぞ」
今夜の寝所の側に控える当直の役割をタスルに任せると、シントはそう言っている。
「早く行けよ。神子の警備を手薄にするつもりか?
こんなに側に侍れる機会はもうないぞ」
今宵、昼間の騒動を受けて特配として衛士が組織され、山越えの脇街道も含め都周辺の主たる街道はすでに封鎖され検問が強化されていた。ダメ押しかつ見せしめの残党狩りに手広く都周辺に散った衛士の役目を補うように、直近、兵部に属し統家の血を引くシントが神子の寝殿内の警備における主権を与えられていた。
「ヨスク里は北の大山脈のルートを超えて、ナシクとつながりを強めていたらしい」
今回の事件の発端となったその背景については、タスルもうっすら察していたところではあった。凶宣から一連の流れは、その拠点となっていたヨスク里と関与した者たちを根絶やしにするために。その経緯を“わかるもの”には反逆者の末路を見せしめるために行われた策略だったのだと。
そして、神子という存在がそれに大いに利用されたことを。
「行け」
シントはぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「神子様はきっと、今日の件に動揺していらっしゃるはずだ」
そう耳元で囁いたシントと、無言のまま一つだけ頷いたアジルの心遣いに感謝しながら、タスルは神子の房へと向かった。
* * *
「神子様」
房の前でそっと声をかける。
「タスル? ……入っていいよ」
すぐに返答があった。
衝立を避けて中に入ると、寝台に横になっていた神子は首をこちらにむけて閉じていた目を開ける。
「来てくれたんだ。 カヌンは?」
「大丈夫です。毒矢も掠った程度で迅速に毒出しできたおかげで命にも別状ないそうです。今日は別殿で休んでいます」
「……良かった。
あの子はきちんと寝てる? 怖がっていない?」
そこで神子は身を起こそうとして、つい傷を負った利き腕を支えにしてしまい、顔をしかめる。ぎゅっと唇を噛み、痛みに耐える神子にタスルは駆け寄った。
「ケイジュ!」
自分自身のことより、付き人の心配をする神子が心配で、少し嫉妬めいた憤りのような気持ちを抱えながらタスルは神子の様子を伺うように膝を折りその顔を覗き込む。
「カヌンは睡薬を処方されてきちんと寝ていると聞きました。まずはご自分のことを気にして下さい」
そういって、包帯の巻かれた右腕の先の白い手に、そっと触れる。
「どうしてあなたはあんな危険なことを……」
「どうして?」
タスルの非難めいた声に、怪訝そうに、そして不快そうにケイジュは眉を潜めた。
「それ本気で聞いてるの?」
「……」
責めるような口調で言われて、何の良い返しも思いつかずにタスルは気まずく沈黙する。
「神子の格好をそっくりそのまま着させられて、いかにも俺の身代わりみたいな風に設えられて。それで、予定通りみたいな襲撃受けて」
神子という仮面を取り払って、ケイジュは感情のままに叫んだ。
「それであの子がまんまと俺の身代わりとして傷つき倒れることを良しとしろって?!」
「それはあなただって同じですよ!」
タスルも負けないくらい、声を荒げる。
「俺は神子だもの! 他人に比べて別段頭がいいわけでもないし何ができるでもない。何にも持たない俺なのに、ただ神子に選ばれたってだけでこうやって普段から下にも置かれない待遇してもらって、散々いい思いをしているんだから」
「いい思いなわけ、ないでしょう?!」
あなたはどれだけお人好しなんだ、と。
自分にそんなことをする筋合いは一つもないと思いながらも、タスルは憤懣を込めてケイジュを睨んだ。
「あなたの意思は、どこにあるんです?!」
グッと何かを堪えるような表情で、ケイジュは唇を噛んで目を逸らした。
痛いくらいの静寂がその場をしばし支配して。タスルはそれを破るように再び微かに神子の手に触れる。
「声を荒げてすみませんでした」
灯油に灯るぼんやりとした明かりだけがある房の中、二人は沈黙の視線を交わした。
「タスル」
静かに名を呼ばれる。
目を合わせると、その紅い唇がゆっくりと開いた。
「眠れない」
蠱惑的な色を湛えた瞳が、可憐な口が、ねだるようにタスルを誘う。
「こっち来て」
抗うことなど、できるわけなかった。
「手、握って」
上掛けから出されたその白い手をおずおずと握る。戸惑いながらも、手持ち無沙汰にもう片方の手でその頭を撫でると、ホロリ、と。
艶やかに光を讃える神子の美しい目から涙が一つだけこぼれ落ちた。
「怖かったんですね?」
「……」
「ケイジュ? 俺の前では、本音、言ってください」
徐にその身体がむくりと起きて。腕が不意に伸びてきて、ギュッと抱きつかれる。恐る恐るその背に腕を回すと、その華奢な身体は微かに震えていた。
「怖いよ……いつも」
「そんな神子という役目を、あなたはなぜ愚直に務めようとするのです?」
「なぜ?」
そんなこと、聞くの? 腕から抜けて正面から合わされたケイジュの瞳は、大きく揺らめいて、そこに淡く湧いた水膜が灯りを集めてほのかに光る。
「俺は神子で、その存在は民のためになるばかりでなく心を惑わし災いとなる存在でもある。
けど、俺の家族や里の人は、俺がこの役を務めることで明日の生活を保障されるんだ。俺が神子である限り、その役を期待される通りに務める限り、小さな俺に幸せをくれた人たちは飢えに怯えることは決してない。
逆を言えばさ、俺がこの役目を疎かにしたら、たくさんの人の生活が、失われる可能性があるんだ」
タスルは後悔した。
この人に、こんな独白をさせてしまったことに。人のことを思い、人を愛するこの人に、むざむざ自分の意思を犠牲にするその理由を聞く愚かな自分。
そしてその愚問に返された、自分には想像も及ばないその覚悟。
「……すみませんでした」
喉まで込み上げてきたものを必死で飲み込んで、タスルはなんとか言わねばならない言葉を絞り出す。
「本当に、俺は愚かです」
自分の罪への、許しを乞うように握った白い手の甲に下げた自分の額を押し付ける。
「あなたのような、覚悟なんて一つもなく今に不満しか吐けないような未熟な自分が……本当に恥ずかしいです」
心からの羞恥に、顔なんて上げられるわけなくて。
「ねえ、タスル謝らないで」
そんなタスルの頭の上から、柔らかい声が降ってくる。
「そんなに大層なことじゃないよ。
……俺は、決して神子を務めることが嫌じゃないんだ。
神子として俺が振舞うことで、その詩や舞を見ることで少しでも明日を生きる糧としてくれる人がいるってことは、とても光栄なことだと思うから」
本当はそんな大層な人間じゃないんだけどね、そう振る舞うのがどうやら神子としては正解みたいだから。と、はにかむように微笑んだ。
「でも、俺の次になる神子は同じ思いをしないほうがいいかな」
そう言って神子はタスルの肩に頭を傾げて寄りかかり、頰を摺り寄せる。
「でさ、俺自身も、お前と柿を食べに故郷に帰れる日が本当に来るといいな」
その微笑みが、あまりに愛おしくて。
タスルは何もかも忘れて、その身体をもう一度強く抱きすくめた。
「きっと、そうします」
それはタスルが初めて自分の人生に役割を背負った日。
「俺、一生をかけて。
あなたと、そしてあなたが大切だと思う人すべてが幸せになれるような、そんな国を作ります。
その日を待っていてくれますか?」
ここにある、確かな温もり。人生ではじめて愛というものを教えてくれたかけがえのない存在。
この人を幸せにしたい。
タスルの目は未来に向いていた。
「ありがとう」
そっと耳元で囁かれたケイジュの声は、そんなタスルの決意を支えるように。
限りなく優しく、強かだった。
繭の君【1章】 三川由 @mikawa-yu
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