第9話

「タスル様どちらへ?」


老爺じじいたちの相手をひねもす勤めての退勤後。帰宅の途につかずに宮内の別場所に足を向けようとしたタスルを従者のシュジュは怪訝そうに呼び止めた。


「書庫だよ!」

「……は?」

「夕餉は適当に食べて帰るから、シュジュは先に帰っていていいぞ」


呆気に取られて何も言えない風のシュジュの脇を抜けて、タスルは言葉通り政務殿奥の書庫に向かった。





「タスル」


書庫で手当たり次第に書物を開き始めて一刻。卓の上が巻物で何層にも覆われた頃に、入り口から声がかかった。

油の大分減った灯明皿の上にのる灯りにぼんやりと浮かぶその人影。


「シント兄さん」

「……何を熱心に調べてるわけ?」

「……」

「神子のことだろ?」


完全に自分の思惑がバレてるな、とタスルは大きくため息をついた。


「ダジェを奉る慣習が生まれてから百年以上の時が経っています。神子という存在の本当の成り立ちはもはや誰もその経緯を辿ることができない。為政者に都合良く作られた典拠ルールブックが存在するだけです。

神子という存在はあくまで飾りでしかないということが照明できればあるいはその制度の有り様を覆すことができるかも、と……」

「いい加減にしろ」


シントの反応は辛辣だった。


「神子という存在をなくすのは無理だ」


言い切られて、ムッとして言い返そうとしたタスルを、シントは強い視線で遮る。


「神子という制度をなくしたとして。お前はその先に何を望んでいるんだ? この国の転覆か?」


違う、と言おうとして。けれどよくよく考えてみれば完全に否定できないことに今更ながらに気づく。


「その行動の理由が個人的な願いにあるなら、話にならねえな」


呆れたように、シントは笑った。


「……熱をあげすぎるな。上に歯向かって痛い目見んのはお前だし、その先に誰にとっても開けた未来があるとは俺は思えねえんだよ」

「……」


沈黙したタスルに、「なあ」と重ねて声をかける。


「傾国ってしってるか?

あれはまさに傾国の素養だ。毒のある花に惹かれて躍起になってると、いつのまにかそれを得るために全てを失うぞ」

「……毒、ですか」


シントはとりなすように、ほんの少しだけ口調を和らげる。


「神子が悪いって言ってるわけじゃない。

けど、今のお前見てたら。そればっかりに夢中になって視界狭めて道を誤る可能性があるぞって、その懸念を言ってみただけだよ」


わかってるよな、と。言外にそう言われていた。

タスルは卓に両肘をついて、両手で顔を覆う。そのまま髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

やらなければいけないことは明白なのに、やるべきことがわからない。これが己の未熟さかと、否応なしに現実を突きつけられる。


「……わかってます。

俺はただ、あの人を救いたいだけなんです」

「神子が、そう望んでるのか?」


『楽しみにしてる』


すべて諦めたように優しく微笑んだその言葉の裏に、きっと自由を望んでいるはずだ、と。自分がそう思い込んでいるだけなんだろうか。


「……わかりません」


とんでもなく混乱していた。何をしても間違いのような気がして。

自分自身の行動に、ここまで迷い狼狽えることなんて今までなかった。そもそも自分の行動が、他者にどれだけの影響を及ぼすかなど考えたこともなかった。


(怖い)


『この国にその才を捧げ、王の輔けとなれ』


遊学に出立する際に、父親から、教授方から、周囲に散々言われた言葉。

その重みをタスルははじめて実感していた。自分が背負うものの大きさを自覚して、改めてその未来に身震いする。自分の感情すら、うまくコントロールできないのに。


普段の冷静さを著しく欠いた様子のタスルに、シントはわずかに苦笑したようだった。


「神子という存在をなくすのは無理だって、さっき言ったけどな」


俯向くタスルの肩を励ますようにポン、と叩く。 


「それはあくまで現在の話だ。

隣国からの侵攻のリスクが、この百年のうちで前例のないほどに高くなっていることは事実。

それに対する備えを万端に準備しておくことは同意する」

「……」

「この国に根深く浸透している神子という制度をすぐになくそうとするのは無理だ。

でも、神子が矢面に立たせられるような事態が起こった時に、神子に全てのとがを背負わせことにならないようにすることはできるんじゃないか?

これからの国を背負う俺たちが、この国が今疎かにしている外交や国防を強化するように働きかけ、動いていくことで」

「……」


タスルは無言のまま、後ろ向きなようでいてその実非常に建設的なシントの意見を咀嚼していた。


「そもそも争いの火種を起こさないために、お前の頭脳と言語の才はなにより強い武器だ。他ならぬお前が、アショクとナシクとの新しい関係を築く架け橋になればいい。

これからアショクが生き延びる道は、神子に縋る以外にもきっとあるはずだ」


そう言い切ったシントの目は真剣だった。普段は冷静の中に感情を隠すこの年上の友人が、今はその情熱に頬を上気させている。


「それはたぶん、俺らの生涯かけての仕事になる」

「それじゃ、遅いんです」

「だったら」


シントは低音で囁くように。けれど強い意思を秘めた声で言った。


「なおさら焦るな。先を見て、本当に達成したいことを成し遂げるためにうまく立ち回れ」


(そうできたら、どんなにいいか)


タスルは大きくため息を漏らした。


目の前のことで精一杯。その自分の度量の狭さはおそらくすぐに変えられるものではないのだと思う。

さらに、慣習的に年功序列を重視するアショクにおいて、ようやく成人に達したばかりの自分達が主導して成せることの少なさ。圧倒的な立場の弱さ。大きな変化を呼び込むには、あまりに多すぎる障壁の数々。

シントが示した理想の姿勢に行き着くまでに、いったい何年の時が必要なのだろうと、行く先に思いをはせるだけでウンザリした。


(でも、黙っていても何も進展しない)


小さな何かを積み重ねていく事で、いつか大きな何かが築き上げられるのかもしれない。シントの言葉は、その果てしない苦行に足を踏み入れる勇気をタスルに与えた。


「常に、大事を見据えて動く事が肝要って事ですよね……」

「そ。そうすれば小事に心動かされる事もないし、大抵のいらねえことには目をつぶれるようになる」


ニヤッとシントは余裕の笑みを浮かべる。


(完全に、置いてかれてるな)


ずっと一緒に育ってきた一つだけ年上の幼馴染は、別れて生活していた一年の間に随分成長していて。


「シント兄さん、あなた何者?」


その含蓄を含みまくった言葉に素直に感嘆の意を表すと、シントは珍しく照れたように肩を竦めて。


「全部、俺の亡くなったお祖父様の受け売りだよ」


照れ隠しにか、その手元の巻物を弄んだ。

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