第8話
「タスル!」
月夜の晩の、密会めいた逢瀬。この間より声が弾んでいるように聞こえるのは自分の欲目かなと、タスルはこっそり苦笑した。
なんだかんだ理由をつけて父親に月次報告への随行をせがんでしまったのは、この人物に会いたいという己の願望に起因しているのはまぎれもない事実で。
「来てくれたんだ」
そんなタスルの内心など知る由もない神子は、そう言って屈託なく破顔した。
先月の遊学の成果報告の折に偶然出会って以来の再会。
「ケイジュ様。お元気でしたか?」
「“様”はいらないって」
本来は君の方が身分上がなんだからさ、と神子は微笑む。
「年上ですし、あなたはこの国に唯一無二の神子という存在ですからね」
この人の前ではちょっと大人ぶりたい。そんな心理が働く自分も不思議だった。
「少なくてすみませんが、約束の差し入れですよ」
そういって手にした小さな布包みを差し出す。「開けてもいい?」とタスルに許可を得て、ケイジュは包みを解いて。
次の瞬間、わあ、とわかりやすくその表情が輝いた。
「干し柿!」
「お好きですか?」
「大好物だよ! 故郷でよく食べたもの」
カヌンに見つからないうちにここで食べちゃお、と。二つ三つと驚くべきスピードで口内に消していく神子に半ば呆れながら。
それでもきれいな顔を大いに歪ませながら口いっぱいに干し柿を頬張る神子は本当に愛らしくて、日頃の憂いも忘れてタスルは声をたてて笑った。
(この人のことを、もっと知りたい)
そんな気持ちが働いて、不意に口を突いて出る質問。
「ここに来る前のこと、話してくれませんか? あなたの故郷のこと」
タスルの唐突な質問に、ケイジュはパチリと瞬きした。
「……特に面白いこと、なんもないと思うけど」
「別に、いいんです。あなたがどんなところで生まれ育ったのか知りたい」
「そうだなあ」と少し逡巡してから、ケイジュはぽつりぽつりと話し始めた。
「この国のどこにでもあるような、平凡な里の暮らしだったよ。北方で冬の寒さは厳しいけど、気候は落ち着いていたし土地は痩せてなかったから。裕福ではないけど暮らしに困ることはなかったな」
その顔に浮かぶ表情が、彼の幸せだった日々を何より物語っていた。
「俺は長男で弟妹が四人いてね、一番仲の良かったのは五つ年下の弟で、俺がここに来る時は十になるかならないかだった」
手にした最後の干し柿に目を落とす。
「故郷は秋にたくさん柿が実るんだけど、木登りがうまいやつが分け前を多く取れてね。弟は木登りが本当にうまくて。兄弟の分まで余るほどとってきてくれるから秋のおやつには事欠かなかったな」
取ったばかりの甘柿をかじるの、ほんとうにおいしいんだよ、と神子はうれしそうに笑った。
「小さい頃からなんでもできる頼もしいやつだったから、俺が里を離れる時は両親のこと頼むぞって託してきたんだけど。
年上にいじめられてもビクともしないで睨み返すような奴が、その日だけはわんわん泣いてたな」
そう話すケイジュ自身の目も、僅かに潤んでいた。
憂いを帯びた相手の郷愁を癒そうと、そっと手を差し出すと、何の躊躇もなく柵越しに手が伸びてきて握り返される。
滑らかな冷たい手の感触。
自ら振った行為なのに、驚くほど動悸が早まって。タスルはひとつ深呼吸すると極力平静を装って話を繋いだ。
「神子の任が終わったら、帰るんですよね?」
タスルの何気ない問いかけに、一瞬ひどく不自然な沈黙が降りて。
「?」
疑問を投げかけるようにタスルが目線で問うと、ケイジュは微笑んだ。それはそれまでにタスルが見たことないような、硬く切ない笑顔だった。
「ううん」
「?」
「……もう、会えないんだ」
ケイジュは絞り出すように、小さな声で呟いた。
「神子になるとね、たとえ任期が終わってももう家族の元には戻れないんだって」
個人として生きる選択肢を与えられない存在として、その覚悟の裏にある深い諦め。決して取り乱すことのないその様子が、逆に痛々しかった。
神子の候補者として選ばれてから、この人は何度こうやって何かを諦めてきたんだろう。
「……すみません」
「謝ることないよ」
その傷を抉るようなことをしでかした自分の究極的な鈍さと、謝ることしかできない自分の無力さを呪いながら。
タスルが謝罪すると即座にケイジュは首を左右に振った。
「神子の任が終わったらね、離宮に移されるんだって」
感情を極力抑えたような静かな声が、逆に神子の内心の悲しみを浮き彫りにしているようで。タスルは胸に微かな痛みを覚えた。
「とてもきれいなところらしいよ。でも、寂しいだろうな」
「……」
里で家族や友人やに囲まれて賑やかに生活してきたこの神子にとっては、それは流刑に等しい扱い。
国のため、民のために任期を終えて、その先に待っているべきはこの人自身の幸福ではないのだろうか。
「仕方ないんだ」
「……」
「神子ってさ。何も知らないきれいな存在ですって皮を被りながら、人に言えないような悪いこと、たくさんしてるから」
目の前の人は微笑んでいた。
けれどその内に、耳には決して聞こえない大きな叫びが、慟哭が音を立てて渦巻いていることは自明だった。
(それはあなたのせいじゃない)
そんな慰めすら、かけられない。
やるせなさに。自分の無力さに。思わず握った手に力がこもった。
「神子の任が終わったら、一緒にあなたの里に行きましょう。俺もその柿、食べたい」
「は?」と、唐突なタスルの発言にケイジュは惚けながらも、なんだか面白そうな表情で首を傾げた。
「神子の制度は、今の時代に即していないんです。きっと、近いうちに変えなければいけない。……俺は、それを変えたい」
若い気持ちだけが走った無責任な言葉。
愚かな自分のその場限りの戯言で、到底達成などできっこないって。
(聡いこの人はきっとわかってる)
けれど、この場では絶対に言わなければならないし、そう言った以上は実現させなければならない。
それは、タスルの覚悟。
自分の行く先は、他者に決められたものだと。そのレールの上でうまく生きることが最善なのだと自分に言い聞かせて、人生を賢く諦めようとしていたタスルが初めて心に抱いた自分の意志だった。
「楽しみにしてる」
そう言うケイジュは、たぶんすべてをわかっている。
けれど本当に幸福そうな表情をして、そういう返しをしてくれるこの目の前の存在を、タスルは本当に愛おしいと心から思った。
* * *
「神子様!」
月光の下で繰り広げられるとりとめのない会話は途切れなくて、どのくらいの時が経ったかも定かでない。
そこに不意にケイジュの背後から高い声が聞こえて、二人はハッと我に帰った。
まだ幼さの残る柔らかそうな白い頰。その輪郭線にふわりと掛かる栗色の髪。形のよい鼻梁に綺麗な一重の目。外見はこの上なく愛らしいのに。
「見知らぬ者にそのように近づいてはなりません、と私は何度申しましたか?」
そういって、不信感と警戒感を露わにして柵越しにタスルを睨みつける表情はそこらの衛士よりも険しい。
「今回を入れれば十二度目かな」
「そういうことを言っているんじゃありません!」
冗談めかしてはぐらかしたケイジュに、本気で腹を立てたようにカヌンは噛み付く。
「ごめん、てば」
「謝るなら早くその者から離れて寝所にお戻りください」
「……わかったよ」
しぶしぶといった態で寝殿の方へ踵を返そうとした神子の腕を掴み、ぐっと引き止める。
「ケイジュ」
「……はあ?!」
神子の身体に触れる礼を失した態度に、その親しすぎる呼び方に、目を剥く付き人にしてやったりと内心ほくそ笑みながら、タスルはその細い手首を引いて不必要なほどに側に引き寄せてから、耳打ちする。
「次はまた、祭の夜に」
ケイジュの返した微笑みが、自分と気持ちを同じにしていることの表れであると信じて。
タスルはそっと掴んでいたその腕を離した。
「またね」
密やかに囁いて、カッカするカヌンに一言二言言い置いてケイジュはその場を去った。
「役目に忠実で、良いことだな」
こちらを睨みつけながらケイジュの後を追おうとしたカヌンに向かって、タスルは棘ある言葉を投げかける。そこに、常にケイジュの側に居られる立場にある者への嫉妬めいた気持ちがないとは到底言い切れなかった。
軽い敵対心。その感情が伝わったんだろう、こちらに向けられるカヌンの視線にはタスルに対する一層の反発がこもった。
「あの人は、俺の全てだ」
行動はしごく直情的に見えるのに、その声は思ったより感情をきっちり抑えていて。どうやらただの真面目バカではないらしいと、タスルはほんの少しこの付き人に関心を抱いた。
「あんたには絶対、わかんねーよ」
カヌンは吐き捨てるように言った。
「生まれた時から周囲に傅かれて、何一つ欠けたものなんかなくて。恵まれた環境で育ったあんたにはさ」
口論の際にそれをあげつらわれたら、自分はいつだって不利な立場に置かれる。事実その通りだから、反論の余地など一切ない。
そういうところから切込むのは卑怯じゃないか、とタスルは内心憤る。
「俺だって……確固たる身分ある立場にあるからといって自由があると思ったら、それは大間違いだ」
「全部自由にならなくたって選べる選択肢があるだけ、その選択権が自分にあるだけマシってわかってる?」
けれどタスルの怒りをはるかに超えて、目の前の少年の憤りは強かった。
「あんた、本当に“それ以外にない”っていう状況に、陥ったことある?」
ギリギリと不快な音を立てて軋む、今にも崩壊しそうな家屋のように。カヌンがその中に抱えるものをそのまま写した口調は切実だった。
この少年が過去にどんな凄惨な事柄を乗り越えてきたのか、タスルには想像も及ばない。そう思わせるような、にじみ出るような惨たらしさを含んだ声音。
「あんたがもし、自分に自由がないって言うんならさ、」
どんなにそれが無礼に聞こえても、諌めも反論できないのは当然だった。過ごしてきた過去が、あまりにも違うのだから。
「それは単にあんたの覚悟と努力が足らないってだけだよ」
年下の、身分のはるかに低い者の戯言とは到底受け止められなかった。反論したかった。けれどぐうの音もでなかった。
それが真理だと、よくわかっていたから。
『……もう、会えないんだ』
その言葉を口にした時の神子の表情が忘れられない。
人生に選択肢がないということがどういうことか。そして特権階級に生まれた自分の立場からしたり顔でその境遇への共感を語るというのがどんなに愚かしいことか。
──ケイジュに出会い、一人の人間としての神子に触れてしまったタスルは、すでに気づいていた。
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