第6話
帰国から二月あまりが経ったその日、タスルは早朝から父に伴われて参内した。
御簾の向こうに座す王の御前。
朝議終了後に議場に呼ばれ、貴族の当主や各官の長官をはじめこの国の政を司る錚錚たる顔ぶれを前に、遊学中に取得した情報の報告を終えた後、大人たちに囲まれて延々質問攻めにされて。
(もう義理は果たしだだろ)
夕刻、庭園に囲まれた殿に雅やかに設えられた酒宴。諸所に最低限の挨拶を済ませたタスルは、父親の目を掻い潜って這々の態でその場を抜け出した。
朝から日没まで蝋で固めたかのようにガチガチに頭の凝り固まった年長者たちと予定調和で退屈な問答を繰り返し、合間には文字どおり貼り付けたような笑みで当たり障りのない世間話を交わして。
身も心も疲労困憊。絞りつくされた果実のような状態。
(ちょっとくらい腹満たす暇くれたってなあ……)
昼餉の暇すら与えられないのが宮仕えというものか。ほんと、大人の付き合いというのは楽じゃない。
賑やかに人の声がさざめき楽の音が響く殿の裏手を周り、内宮に隣接した池のある庭園に向かう。
ここは幼い頃、父に伴われて参内した際に所用を抱えた父親が任をこなしている間、度々兄や幼馴染と遊びまわった思い出の場所だ。
辺りを照らすのは、満月だった。
造られた池の水面が美しくその姿を映し、木々は爽やかな初夏の風にざわめいて黒くその影を夜の中に揺らした。
そういえば一月前の月滿る日は、祭の日だったよなあと。
守護役という役目を介して公務で出会ったあの美しい面ざしの神子をぼんやりと脳裏に思い浮かべていると。
唄が聞こえた。
祭で披露される請詩ではない。
よく巷で歌われる、童唄の類の、素朴な調と俗っぽい詩。
でも、その声は……
聞き間違うはずがない。
知らず知らずのうちに、タスルの歩調はその速度を速めて、その声の元に一路向かっていた。
「神子、様?」
「……誰?」
呼びかけると、月に向かって唄っていた人影は怪訝そうにこちらを向いた。
その人の居る場所は、タスルの場所から明らかに隔絶されていた。二人の間を隔てる鉄柵は、庭園の端から端までずっと連なっている。
淡い光に照らされて、じっとこちらを向いたその容姿の端麗さに。
タスルは改めて息を飲む。
「タスル?」
鉄柵越しに相対した神子は、冷淡にすら見えるその麗しい相好をもったいぶらずに大いに崩して屈託のない笑顔を浮かべた。
「私の名前、ご存知なのですか?」
当たり前だよ、と。
「先月の祭で守護役を勤めてくれたじゃない。覚えてないわけないし」
そう言って、ケラケラっと高らかに笑った。
この国において神子は絶対神ダジェの遣いであり、神の具現として重んじられる。
祭では互いに言葉を交わすことを堅く禁じられていたから、初めて耳にする、その笑声。この世のものとは思えない容姿に反して、なかなかに俗っぽい笑い方にちょっと面食らいながら、タスルは会話を継いだ。
「……なぜ、こんなところに?」
「毎日恒例、夜のお散歩。俺が外に自由に出られんの、この時間だけなんだよ? しかもここまでなの」
鉄柵を白く繊細な両手指で掴んで「ねえ、そんなの信じられる?」とその艶やかに赤い口が歪められて大きなため息が漏れる。
「タスルは、ここで何してんの?」
「今日は……私の遊学の成果の披露会だったんです」
「へえ」
興味を持った、といわんばかりにその黒々とした目を見開いて神子は身を乗り出した。
「どこかに行ってたの?」
「一年ほど。隣国の都へ」
「何しに?」
「……」
まさか神子相手に、幼馴染に冗談交じりに言うような妓女遊びとも言えず。任の本質である内情の偵察とももちろん言えず。
「学問です」
「へえ。頭がいいんだね、タスルは」
嘘ではないが秘すところも多分にある当たり障りのない答えを返すと、心から関心したように神子はニコニコと笑った。
「主役が抜け出していいわけ?」
「もう役目は終えましたし。宴での義理も果たしましたから」
そう言ってタスルは頭に載せていた窮屈な冠を脱いだ。
解放された黒髪が、はらりと輪郭の左右に流れる。
「堅苦しいの、つらいよな」
うんざりするような口調が漏れ聞こえて、タスルは思わずそちらを二度見した。
月を見上げている信じられないほどに整った横顔にニヤリと不敵そうな笑みを浮かべて、神子はその不敵な表情のままこちらを向く。
そこには神子という殻を脱ぎ捨てた、ごく普通の十八歳の青年がいた。
「な、そういう会ならごちそうたくさん出るんだろ? なにか食べ物持ってきてよ」
「はあ?」
「俺、おなかいっぱい食べたいんだ……よなあ」
「へ?」
「ここの飯さ、すっごい豪華でうまいんだけど、めちゃくちゃ量少ないんだよ?」
あまりに突拍子もない要望にタスルがあっけにとられていると、神子は心底不満げに唇を尖らせた。
「美しくあるのがあなた様の役割ですって。神子は太るのは絶対にダメらしくてさ。あーそーですか知らないっつーの」
そう明るく愚痴った直後にはもう「まあ、確かに太ってる神子じゃ示しつかないかもな」って、切り替えてケラッと笑ってる。
「嫌ですよ。こっちもほうほうの態で逃げ出してきたんです。あの場にまた戻りたくない」
「そ。ざーんねん」
呆れながらタスルが断ると、結構本気そうだったけど未練がましくなくさらっと引くので。なんだかもう少し目の前の人の気を引きたくなって。
「次の機会に、持ってきてさしあげましょうか?」
黒い瞳がきらっと華やかに煌めいて、柵越しにタスルの袖をグイッと掴む。
「ほんと?! それいつ?」
「わかりません」
「期待させんなよ〜」
神子は本当に悔しそうに頭を手で抱えて天を仰いだ。その少年のような屈託のない仕草にタスルはクスリと笑いながら。
「あなたは、いつここにいるんです?」
「毎夜、来るよ。一人になりたいって言って、出るの許してもらえるのはここまでだから」
神子は静かに視線を伏せてそうポツリと言ってから、「君は?」とタスルに問いかける。
「ここまで入れるのは稀です。月に一度、父の参内報告の折に同行を申し出ればもしかしたら……」
「また、会えるの?」
明らかに弾んだ声。
うれしさを隠さない声音に驚いて、神子の内心を確かめるようにタスルはその表情を密かに伺う。
「神子様?」
「じゃあ、これからはタスルに会えるの、楽しみにして生きようかな」
「……間食にありつくためにですか?」
どうやら、この人外の美しさを持つ人が純粋に自分との再会を楽しみにしていてくれるのだと理解して。
びっくりするほど浮き立った内心を包み隠すためについつい天邪鬼さが出てしまったけど。
「そうそう」
その言葉を即座にユーモアと受け取ってクスクスと笑う、その聡くて優しい人柄に吸い寄せられるような感覚を覚えて、タスルはほんのわずかに身震いした。
(この人を、もっと知りたい)
いままでに他者に好意を抱いたことは、もちろん何度もある。けれど自身の制御が効かないまでに、他者にこうまで本能的に魅かれるという感覚は初めてだった。
「いつでもお腹空いてるからさ。俺のこと満たして欲しいんだ」
そういって、微笑む表情はこの上なく清廉なくせに、隣国の妓屋で出会った妓女のようにどこかはすっぱに男を挑発するような色を含んでいるような気がして。
危険だ、と。自分の心が警鐘をならしていた。
この人に溺れる前に、遠ざけないといけない。
「……毎月来られるかは、確約できませんよ?」
そこで「来ない」と言い切れない時点で、完全に自分の負けだった。
「いいよ。またここで会えるなら。いつでも待ってる」
時間だけはたくさんあるからね、と。自嘲するような口調で神子は笑った。
柔らかな黒の髪が緩やかな風になびく。
隣国で聞いたおとぎ話に出てくる、儚く美しくしかし強くしなやかな月の女神そのものだと本気で思った。
「じゃあ、またね」
「待って!」
そう言って踵を返そうとした神子の細い手首に手を伸ばして、思わず掴んで引き留めていた事実に、自分でも驚いた。
触れてはいけないものなのに。
思わぬ人間らしさを見せられてすっかり友人のような感覚を覚えてしまっていたけれども、この人は国の象徴で、絶対神の代弁者で、国に唯一無二の尊ばれ守られなければならない存在で。
「神子様!?」
神子の背後から咎めるような甲高い声が聞こえて、タスルは我に返って掴んでいたその手を離した。
「無礼だぞ、下がれ!」
案の定、月明かりの下に姿を現した年若い生真面目そうな付き人が、目を怒らせて鋭く忠告する。
「カヌン、そんなに声を荒げないで。大丈夫だよ」
神子はため息混じりに付き人を宥めた。
対するカヌンと呼ばれた少年は、白いふんわりとした頬を上気させて完全にオカンムリ状態。
「いつもいつもあなたって人は! 神子の自覚をお持ちくださいと何度言ったらわかるのですか?!」
「いや持ってるし……」
「早く殿にお戻りください!!」
「だからこんな散歩で我慢してるんじゃない」と憮然と呟かれた神子の発言は、息巻く少年の付き人に完全に無視されていて。
二人の気のおけないその関係性に、こっそりタスルは笑った。
「わかったよ〜」
やれやれと肩をすくめて不必要に色気のある視線を寄越す神子に内心苦笑しながら、タスルが柵越しに小さく手招きすると、その美しい顔が躊躇なく眼前に迫ってきて。
(なんなんだよ、この人……)
そのあくまで無防備な態度に、自分の圧倒的優位な立場とか、他者を狂わす美しさとか。そういうことを何一つ自覚していないんだと。
そう気付いて、タスルは絶望的なため息をこっそりついた。
(……お気の毒様)
その言葉は、すでに完全にこの神子に捕らえられている自分に対してのものか、はたまた背後でメラッと怒りの炎を静かに燃やす付き人にかはわからないけれど。
(んなことはどうでもいい)
完全に開き直ってタスルは今宵最後に自分が成し遂げたいことに集中することにした。
「あなたの名前は?」
そっと、秘密を共有するように、耳元で囁く。
黒曜石の輝きを持つ瞳が、遠く水辺に揺らぐ松明の灯りを受けて悪戯そうに光った。
神の遣いである神子の本名を聞くのはタブーとされている。平生は決して愚かではない自分が、その禁を犯したくなるほどに……この目の前の人にやはり狂っているのだと自覚しながら。
「ケイジュ」
いとも簡単に名を明かした意図を秘めた、その謎めいた微笑み。
その真意すら読み取れないほど、淡々と名を伝えるだけの美しい声音にタスルは心を揺さぶられていた。
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