第4話

祭りの日は、すぐに訪れた。


日没寸前の黄昏時。宮城正殿前の大広場に、溢れるほど大勢の民が集う。

宮城の正殿を背に設えられた舞台の周囲は無数の松明に照らされて、雨季の湿り気と人々の熱気を多分に孕んだ空気が一帯を覆っていた。


三月に一度の祭。雨月に行われる今回のものは“水豊祭”呼ばれる、その年の豊作と適度な降雨をダジェに請うという内容だ。

そのはじまりから長い時を経たこの神事は、厳密に型が決まっている。進行、衣装、演舞、請詩と呼ばれる神子の歌舞の歌詞に至るまで。


絶対に間違いは、許されない。


「……」


控えの間で緋色の甲冑を身にまとい、準備を万全に整えた状態で。無言で部屋の隅で俯向くタスルに、アジルは恐る恐る声をかける。


「タスル……もしかして緊張してる?」

「……」


(してるよ)


タスルはやや不機嫌に、友人を睨みつけた。

だいたい自分は剣技は好きだが剣舞が昔から不得手なのだ、と。心の底から憂鬱なため息をつきながら。


「あれだけ練習したんだから、大丈夫だよ」

「お前はいいよな。得意なことだからさ」


アジルのフォローもこの切羽詰まった状況ではただの煽りにしか聞こえない。


「何いまさら言ってんの、も〜」


上学在学中から剣舞においては抜きん出て巧みで、平民の身でありながら当然のように守護役の中央を務めることになっているアジルは、本番を前にナーバスになって頭を抱えるタスルの気をなんとか逸らそうとよりいっそう明るく振る舞った。


「俺だって緊張しないわけじゃないんだからな。

けどあれだけ万全に準備したんだからさ。俺がお前の今の出来を保証するよ。自信持ちなよって!」


この任を与えられてからというもの、本来自由な時間さえも削りに削って斎部の政務殿の庭で毎日のように剣舞の修練。

上学の教目でも当たり障りなく最低限のことを無難にこなし、人生に不要なものとしてスルーしてきた剣舞の技術を、付け焼き刃であっても人に見せられる程度にまで引き上げるには、それ相当の努力が必要だった。

万事器用なシントは比較的すぐに飲み込んだのに、タスルは型の決まったものをなぞる剣舞はどうにも苦手で。

公式の修練後は、アジルを付き合わせて自主練習の毎日。遊学で鈍った身体が悲鳴を上げるくらいには、時間を費やした。

それでも、まだ自信がない。


「はあああああ」


任官したら、こういうやりたくないのにやらなければいけないことがもっともっと多くなるんだろうな、と。自分の行く先も含めて大きくため息ついたタスルに、傍で同じく控えていたシントが呆れたように声をかける。


「いい加減諦めろ。もうここにきたら、何一つあがけないんだから」

「嫌なものは嫌なんですよ」


タスルがジトッと睨むと。


「やってきたことやるしかねえだろ」と、同情のかけらもない返事と、「大丈夫だって」と根拠のない励ましが両サイドから同時に掛けられる。


神子の【守護役】とは名ばかりで、神子の警護は今日の舞台に多数動員されている衛士が基本的に担う。三人の今日の主な責務は【剣舞を無事に務めること】に尽きる。


だからこそ失敗は許されないこの甚大なプレッシャー。


「やりたくないです」

「ごちゃごちゃ言ってんな。そろそろいくぞ」


シントはカチャリと甲冑の音を立てながら、立ち上がった。



* * *



とはいえ、タスルは生来人前に立つことが嫌いではない。舞台に上がって眼下の広場を埋め尽くす大衆を前にすると、不思議とすうっと心が静まってやるべきことに集中するモードに切り替わる。

ここ半月ほとんどの時間を費やした修練は無駄ではなかったようで、動きを覚えている身体は頭で考えずとも自然に次の動作へ向かった。


(っやべ)


油断禁物。

振りの左右を間違えたタスルの剣先が向かい合ったアジルの肩先を掠めた。不意打ちを食らった形のアジルは、剣舞の天才と言わしめる所以の体捌きで紙一重で切っ先を躱しながらその間違いをカバーするようにしなやかに上体を緩く旋回させて元の振りに復帰する。

そのやり取りが非常に切迫した組手に見えたようで、観客からはどよめきが起こった。


(うおい! 何してんだアホ)

(盛り上がったし結果オーライだろ)


普段の温厚さを脱ぎ捨てて剣舞にはとことんストイックなアジルの怒りを含んだ目線に、スンと澄ました無表情で返す。

目の端に、キレのある振りを淡々と続けながら“マジかよ”と呆れ顔を一瞬覗かせたシントが映った。


(もう開き直るしかねえな)


そう気持ちを切り替えたら、わかりやすくすっと身体が軽くなる。ミスしたことで逆に心のつかえが取れた気がした。

ラストは前列で舞うアジルの舞の圧倒的な質感を楽しむ余裕すら持って、けれど心身のプレッシャーから大量の汗を滴らせながら何とか役目を終えて舞台袖に下がると。


「お前、本番中にやらかしてんじゃねえよ」


さっそくシントから小言のツッコミが入った。


「あれがミスだと誰が気づきました? 機転が利くって言ってください」

「大事にならなかったのはアジルのフォローのおかげだろうが。その減らず口なんとかしろ!」

「スミマセンデシター」

「謝罪に心がないよタスルう!! 俺あんだけ特訓に付き合ったのにっ……!」


シャン


神子の登場を告げるその音が、ギャーギャーと言い合う守護役たちの耳に届いた瞬間、三人はピタリと口を噤んで、その場に膝を折った。

 

シャン


三人の視線は、手にした錫を鳴らしながら奥から現れた神子に自然と釘付けになる。


その風貌は、ダジェの嫉妬すら引き起こしてしまうのではないかと余計な杞憂を起こさせるほどに完成されていた。

頸で束ねた黒く艶々とした緑髪が、純白の絹の衣地の背に垂れかかる。白に白を重ねた衣はぴたりと神子の身丈にあわせて仕立てられていて、歩を進めるたびに長く仕立てられたその袖と裾が図ったように麗しい軌跡を描く。

眉で切りそろえた前髪の下には意志のある黒い双眸があった。普段より心持ち紅く染められた唇と対照的に、膚はいつにもまして澄み、抜けるように白い。


神子は、真顔のまますれ違いざまにゆったりと会釈する。凍りついたように感情を排した表情。


知覚の全てを、奪われる。


神子という存在に、内心反発心を抱くタスルであっても思わずつばきを呑んだ程の、人外の艶やかさ。


「……ハハ、間近でみると一層すげえな」

「ですねえ」


シントとアジルが秘かに交わした囁きが、微かに耳に入った。


「タスル、俺たちもまだ役目があるからな」


三人には守護役として、舞台の上から神子の舞の始終を見張る役目があった。

シントにポンと肩を叩かれて、タスルは夢見心地のまま、その白い背を追って再び舞台に上がるとその隅に控えた。


* * *


カミとの交渉の器として完璧に仕立て上げられた神子は、すでに舞台の中央に立ち衆目を一身に集めていた。


笛と鼓の音が、満月の夜に響く。


とっぷりとした闇の中に揺らぐ松明の灯りに照らされて、神と人のはざまの存在は、この世ならざる雰囲気を身にまとう。

漂う音は複数の調べを重ねて徐々に音量を増していくが、対照的に場は凪のように沈静化して。


律に合わせ、神子はその手に持った錫を掲げる。


地面に打ち振るわれた錫の鳴は器楽の音にかき消されたが、確かに空気を震わせた。

音の旋律にあわせ、滑るように腕が伸びる。一瞬の後に畳まれ、そしてまた曲線を描いて伸びる。その動きに、長くあつらえられた舞衣の袖が、意志を持ったようにひらめく。何度も繰り返される同じ動作。

ひらり、ひらりと舞う白い袖は、闇をうけて川面のさざめきのようにも見え、光をうけて炎のゆらめきのようにも見えた。


つと、音楽がやんだ。


多くの人が集っているはずの、広場に。咳一つ立たない。

静寂の支配する空間に、神子の足運びに従う裳裾の揺らめきと袖の波。それが人々の視覚を捉えて離さない。


そこに、歌が響いた。

歌にのせ、その身体はなお滑るように舞う。


ゾクリと、タスルの背筋に怖気が走った。


高らかに澄んだ声音。朗々と、その声が広場に伸びる。



来れ来れ我が元に

久し来訪を冀う我が元に



広場に集った群衆の熱に浮かされるように顔を火照らせて、タスルは膝の上の拳を握りしめ、唾を飲み込んだ。ダジェに伝うその文句。それはまるで恋歌(こいうた)だ。


この場にいるもの全員が、その声にのまれる。この声に応じたい、神子の求めに応えたいと。すべてを惹きつける抗い難い魅力。


優れた神子は舞と詩を介してダジェの心を掌握するという。

本当にその言葉通りだと。そしてそれは同時に人の心も掌握するものなのだと、タスルは身をもって実感していた。

どこからが夢か現か。そんな曖昧な感覚に捕われているうちに、歌がやんだ。同時に、広場の群衆から空気の割れるような喝采が沸き起こる。

周囲が周囲を巻き込んで抗うことを許さない一つの強い流れを作る群集心理。薄ら寒くなるような、熱狂。


舞台の上の神子は、万雷の歓声と拍手を一身に浴びて舞台上で膝を折り沈黙していた。


そこに、ドーンと、腹の底に響くような大鼓おおつづみの音が鳴り響く。

ドーン、ドーンとその音が十二鳴り響くと。広場は咳一つ立たない異常なまでの静けさを取り戻していた。


「託宣のじかんだ」


シントが傍でぼそりと呟く。

ダジェの意を伝える時間。広場全体に緊張が走る。


シャン


舞台の上で、再び立ち上り空を見上げた神子がまた一つ錫を鳴らす。


その喉から、人のようでいて人のようでない、恐ろしく通る高らかな声が大きく空気を揺るがせる。



北の水辺の地に災禍あり

大いなる赤の波に飲まれしその地は無に帰せむ

これ避けることえあたわじ



(──凶宣だ)


神子の託宣には、二種ある。良い未来を示唆する吉宣と、悪い未来を示唆する凶宣と。

祭の際の託宣で凶宣が下されることは、めったになく、タスル自身はじめて耳にした。


神子の口を介して伝えられたあきらかに不吉な響きをもった言葉に、広場に動揺を含んだ騒めきの波が広がる。


あたりにドーン、ドーンと、祭の散会を示す場違いなほどに大きな太鼓の音が響き、会場を巡回する衛士達が民衆を誘導しようと事前に示し合わせた通り動くが、すでに広場には叫び声、怒声、罵声の渦。所々では託宣のその意を巡って口論や小競り合いが始まり、その場の混乱は加速するばかり。


神子様!

神子様っ……!


ダジェの意を問うような、狂気じみた声が怒涛の渦をなして舞台上の神子に降りかかる。

よもやその身に危害が及ぶ可能性も見えて、側に控える警護の衛士たちの緊張が一層高まったその時。

 

シャンシャンシャンシャン


錫が激しくかき鳴らされた。

周囲の注目を一身に浴びたその音の主、神子は感情の見えない人間離れした表情で一段高くから周囲をすうっと舐めるように見渡して。


「皆のもの」


かなりの喧騒にも関わらず、よく訓練された高く通る作り声はその中空を滑り、すべてに行き渡る。


「今宵託宣はすでに下された


ダジェの意に背くか

ダジェの意に従うか

前者を選べばさらなる厄災が降りかかることもあろうぞ


ダジェは予期し備えよとおっしゃられておる

さらば、その事態に際し努めて備えよ」


それを発する神子が一切の感情を排しているからこそ、その言葉は改めて神のものとして人の心に説得力を持って届いた。


「もう一度言う」


美しい容貌。揺らぎを見せない振る舞い。絶対的な意思を含んだ言葉。

神々しいまでの輝きを放つ神子のその声が、広場を伝う。


「その事態に際し努めて備えよ」


シン、と場が静まった。


未知への恐れという所在ない民衆の感情の中に一筋の希望をうまく投げかけることで神子が、その場の混乱を収束したのは自明で。


神子様!!

神子様!!!!!


再び広場に神子の名を熱狂的に呼ばう民衆の声が、こだます。

今度は賛美の意を含んで。


「行くぞ」


耳をつんざくような歓声をかいくぐるように傍から掛けられたシントの声に、タスルは再び我に帰った。


「……な、理解できただろ。当代の神子が他に代替できない理由」


シントの声に、アジルがゆっくりと頷く。


「たとえ一連の流れが周到に用意された託宣であっても。ああまで神子として完璧な振る舞いができなければ意味をなさない。

だから……あれは生まれながらの、神子だ」


タスルは立ち上がると、舞台の真ん中で直立したまま沈黙する神子に退場を促すためにゆっくりと中央に歩を進めた。


「でも、兄さん。あんな幻術まがいの演技で民心を左右するなんて」


自分もそれに心奪われた。その事実に頑なに目をつぶって。悔し紛れに呟いた言葉は、はっきりと自覚できるほど、明らかな負け惜しみだった。


「けれどこれが、今のこの国のやり方だ」


シントの言葉が反駁しようのないほど正しいことは、つい先刻この目に収めた広場の情景が証明していた。


(一体、なんなんだ)


祭という装置のその裏に一体どういう思惑が動いているのか、タスルは懸命に考えていた。

神子という存在と。久しぶりに下された凶宣の、その意味を。

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