第3話
しばらくの間、遊学から帰国してすぐのタスルには表向きの休暇が与えられた。
その実は、彼が持ち帰った隣国の情報をサク家が収集し、上申するための準備をする期間だったが、その状況に甘んじてタスルものびのびとその余裕ある生活を楽しんだ。
午前の刻はサク家の邸宅で頭に収めている限りの情報を吐き出し、解放されるやいなやそのままシントと剣術の修練、自邸で懐かしい故郷の味の夕餉を摂り、親しんだ居室で何の憂いもなく眠りに就く。それはもう上学に入る前の少年時代を取り戻したかのような自由気ままさで。
そんな日が幾ばくか繰り返されたある日、タスルは自分の父親であるチダ家の当主イリョルから呼び立てを受けた。
「次回の祭の神子の
「それは光栄の至りです」
年に四度、王の御前で執り行われるダジェを奉る祭。
その
その剣舞を行う者を“守護役”と呼ぶ。
玄の絹衣。祭事用の緋色の鮮やかな甲冑を身に纏って夜の帳が落ちる舞台で舞う守護役は、この国の小さな民たちの憧れの的だった。
実際、幼い頃に目にした守護役の剣舞に憧れてシントやタスルも熱心に剣技に打ち込むようになった過去があったから。光栄という気持ちに偽りはない。
けれど、無邪気な子どもだった頃に比べて様々なものが見えはじめてきている今、そこに少し皮肉的な視点が入るのは仕方ないと──そうタスルは思うのだ。
「守護役に選ばれた意味、わかっているな?」
「俺が暇だから、ですかね」
「そういう戯言は家の中だけにしておけよ」
「わかっています」
素直なだけじゃいられないひねた気持ちを少し表に出すと、即座に父親に諌められてタスルは苦笑まじりに肩をすくめた。
「だから光栄ですと、申しました」
「左はシント様が勤められるそうだ。お前もせいぜいチダの名に恥じないように務めなさい」
“暇”なんだから最大限修練するのだぞ、と、タスルの言葉尻を取るように父親は釘を刺した。タスルはさらに苦々しく笑いながら。
「父上。して、
「アジル」
「……」
祭時の舞の定位置として、右より左のほうが、左より央の者が重んじられる。
統家の出身で年上のシントがタスルよりも上に置かれるのは慣例的に当然と言えたが。
「アジル、ですか!」
予想しなかったわけではない。けれどその口から出た懐かしい名前に、タスルは目を見開いた。
そのことを肯定的に受け止め歓迎しているそぶりすら見せる息子の態度に苦々しさを隠さず、イリョルは言葉を重ねた。
「剣舞の央の役を平民に譲るとは不名誉もいいところだぞ」
「面目ありません」
(ほんっと石頭……!)
内心父親に毒づきながら、タスルは形ばかりの謝罪のために深く頭を下げた。
* * *
「頭固いんですよ、うちの父上はさ」
喜びより面倒が先立つ守護役の任務を下されて。父親には脅迫まがいの小言に交えて大切な存在を卑下され。
タスルは解放されるやいなやサク家の門をくぐりシントの居室を訪れて、怒りに任せて散々くだを巻いていた。
「政だろうが史書編纂だろうが武芸だろうが舞踊だろうが。一番できる奴がやりゃいいんです!」
一連の経緯を黙って聞いていたシントは、そこで初めて口を開く。
「残念ながらそういう考えは、この国では主流ではないようだけどな」
感情を目立って露わにしなくても、彼なりに思うところはあるようで、その言葉尻には相当の皮肉が込められていた。
「……アジルの剣舞を見りゃ、誰だってそう思わずにはいられないからな」
「完全同意です」
守護役については父親に指摘されるまでもなくせいぜいアジルの足を引っ張らないように全力で修練するしかないだろうな、と。タスルは半ば諦めている。
ああ今までのようなのんびりした
「ってかタスル」と急に卓ごしに呼びかけられて。
はい? と突っ伏していた顔を起こしてシントと目を合わせる。
「守護役を仰せつかったってことはさ、もうお前も一人前なんだから、遊び呆けるのもほどほどにしろってことだぞわかってんのか?」
「無粋だなあ。父上と同じこと言わないでくださいよ。
俺、一年遊学してたんですよ? けっこう頑張ってきたのに、帰ったら任に次ぐ任を与えられてさあ。まだ到底遊び足りないんですけど?」
「あきらめろ」
「お前なんだかんだ隙見て遊んでんだろ」と、シントは辛辣に突っ込んで。
「アジルも首を長くして待ってるだろうな。帰ってきてからあってねえだろ?」
「……そうなんですよ。これまでサク家に半ば監禁されてましたんで」
「言い方、な」
タスルの冗談めかした皮肉に、シントは苦笑する。
「顔合わせはもう明日だろ?」
守護役としての神子への挨拶伺いの日取りは早々に明日を指定されている。
「ですね。結局、あいつの身の振り方はどうなったんです?」
守護役は中央に務める官吏からしか任命されない。アジルが文官にせよ武官にせよ自分の故郷に帰らずに中央で職を得たことは一連の経緯から類推できた。
「明日会えるんだから本人に聞けば?」
ばっさりと切り捨てるような言い方はいつも通り癪にさわるが、言い返しようのないほどの正論だったので、タスルはそこで一旦口をつぐんだ。
* * *
翌日の定刻。
宮城内の面会場として指定された殿に入り、控えの
「タースールううううう!!」
入り口にシントとタスルの姿を認めるや否や、ゆるく癖のある明るい鳶色の髪を頸で束ねた少年が、翡翠色の目をキラキラと輝かせて真正面から飛びかかるように抱きついてくる。
「帰ってきたんだなっ!」
「アジル!!」
一年前まで書卓を並べて勉学に勤しみ、剣技を共に磨いてきた同い年の学友の変わらない姿に、タスルは思わず頬を緩めた。
外見は少し輪郭の肉が落ちて大人に近づいたような気配はあるものの、その気質の明るさをそのまま表すような太陽のような笑顔は相変わらずで。
久しぶりの再会。タスルも友人の肩を強く抱き返す。
「お前ちゃんと上学出たんだろうな? その後どうしてた?」
「うん、教授方の配慮でなんとか、ね。……で、中央官吏の末席に滑り込んだ感じだよ」
平民の出のアジルが、中央での任官を決めたのは本人の才覚あってのこと。そして地方に戻らない進路を決めたということは、これからもこの親友と過ごす時間が約束されたということで。
タスルは心底それがうれしかった。
「なおかつ、今回は神子の守護役だろ? すごい出世じゃないか」
「ま、剣舞だけは誰にも負けないからね」
そういって、自慢というよりは自嘲気味にアジルは肩をすくめた。
積もる話はいくらでもあった。
けれど多くを語りつくす前に、鐘が面会の刻限を知らせた。
三人が約束の房に入ると、神子は入り口に背を向けて付きの者と何やら秘か言を交わしていた。
「神子様、守護役のものが挨拶に」
案内した下官の呼びかけに無言で振り返った、その姿にタスルは思わず喉を鳴らす。
遊学を経てそもそも神子という存在への懐疑心を強めていたタスルは、「神子として説得力のある人物」だと、そんな風に神子を評したシントの言を話半分に聞いていた。
だから実際にその姿を目にして、その言葉がそっくり事実だと認めざるを得ないと悟った自分自身にわずかながら嫌悪感を抱く。
(嘘だろ)
恵まれた身分に生まれ、貢ぎものの中にある多くの優れた美術品を目にしてきた。父親に伴われて、芸術鑑賞という名目で多くの美しい舞台や役者に
大陸では、この国では見られない多国籍の美しいものや人に出会った。
けれど。
そういった今までの経験から培われた自分の中の“美”という概念を覆すほどに。目の前にある存在の放つ輝きは尋常でなかった。
(……これが男? ありえない)
これほど美しい存在にはついぞ出会ったことがないし、きっとこれからも出会うことがないだろう。
背の半ばまで長く伸ばし頸で一つに束ねた黒く艶やかな髪がさらりと動作に従って揺れる。完璧な弧を描く輪郭線。透けるように白い滑らかな肌に、筋の通った鼻梁と赤く存在感のある艶かしい唇。
そして、何より周囲の目を引いて虜にさせるのは、その瞳。どこまでも深くどこまでも澄んでいて、見る人を深淵に引きずり込むようなどこか蠱惑的な色を湛える。
人を狂わせるような色香を放ちながら、不思議とその内面の聡明さや清廉さが滲み出て清らかさを感じさせる、対極的な印象を不自然なく相手に抱かせる無二の容姿。
「あれが
その場に棒立ちで固まったままのタスルの様子に気づいたように、シントが傍から囁いた。
白の薄絹を幾重にも重ねた長衣は、彼が一つ身動きするたびにその身体のラインに沿って光を纏って揺れる。
息をのむほどの美しさというものを、その時初めてタスルは知った。
「ご機嫌うるわしゅう、我らが戴くダジェの拠所にして化身たる神子様。
私は来る水豊祭においてあなた様の守護役を勤めさせていただきます、シント グ サク(サク家のシント)にございます」
まずは年長者のシントが名乗り、
(お前も挨拶しろ)
ツン、とシントに腰の脇を肘で突かれて、ようやくタスルは我に返る。
「同じくタスル グ チダ(チダ家のタスル)です」
「アジル ダ ソヤ(ソヤ出身のアジル)と申します」
「……」
人前での発声を禁じられている神子は、目を伏せて少し腰をかがめるように挨拶した。
(ありえない)
再び正面からこちらに向けられるその面の造作。それは美丈夫として巷に伝搬するダジェを模して彫られたどんな神像よりも精巧で。
『見りゃわかる』
過日のシントの言葉が、納得感をもって脳内に響く。
性別、そしてヒトという概念すら超越するほどの美。
(なんなんだ)
タスルは自分の中に生じた感情を受け止めきれずに戸惑っていた。今までは色恋沙汰をはじめ何事も年齢の割に達観したようにドライで、何かに固執することがなかった。
それが自分の揺らぐことのない性質だと思っていたけれど。
その自己認識が根底から揺らぐほどに、目の前の存在に本能的に惹きつけられるような不思議な感覚を、神子を前にしてタスルは確かに感じていた。
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