第2話
その次の日から、タスルのサク
早朝、日が昇りきらないうちに門を叩き、書房で書士と相向かってひたすらその頭の中に収めてきた知識を口述する。
「タスル様、さすがですね。非常に体系立ててお話されるので竹片の組み替えの必要もなさそうです」
タスルとそう年齢が変わらないように見えるサク家お抱えの若い書士は、そう言いながら今しがたその端まで字を書き終えた竹片を順序通りに几帳面に床に並べた。
「な、そろそろ午の刻になると思うんだけど? キリも良いとこだし、もう今日は終わりってことでいい?」
「鐘が鳴るまでは役に専念せよと当主様から命じられております」
「ほら外見てよ。もう日も頂点にきてるし?」
「でも……」
平民出の書士にとっては自分と大きく身分の隔たりがある七家の子息。そのタスルがまったく聞く耳持たず捲したてるので、書士はどう対処して良いかわからずオロオロとしだす。
「タスル様」
立ち上がって今にも房から出るような素振りを見せるタスルの背に、険しい声が投げかけられた。
「鐘がなるまでご辛抱ください」
いつもながらに房の入口傍に控えていたシュジュが、急に存在感を露わにしてピシャリと口を入れる。
「……シュジュ、いたの?」
「タスル様、お座りなさいませ。
今日、より多くのことを語られればその分だけ進捗します。結果的に、拘束される期日も短くなりましょう?」
タスルは舌打ちしながらも、おとなしく書卓の前に戻りドスッと腰を下ろした。
「……鐘が鳴れば、解放されるんだよな?」
シュジュの言葉はいつも正論すぎて過ぎて言い返せない。
その腹いせにと、しばしの後、鐘がなるが早いかシュジュが声を荒げるのも聞かず、タスルは外へと飛び出した。
「ここ数年でシュジュの若白髪がめっきり増えたのは、どう考えてもお前のせいだな」
六つの鐘が鳴り終わる前に息を切らしながら自分の房に姿を見せた弟分を見て事の次第をなんとなく察したシントは、気の毒そうな声音でそう呟いた。
「シュジュはそんなんで気を病むタマじゃありませんよ」
「いやいや自分の行動を正当化してんじゃねえよ」
それより兄さん、と。
年長者の諌めにまったく耳を貸す素振りもなく、タスルはねだるようにその腕を掴んだ。
「街にでましょうよ、俺、久しぶりに温麵食べたい!」
「……ちっとは懲りろよ」
そうは言いつつ、自分もよっぽど腹が減っていたのだろう。
シントは傍に投げ出していた財布を握りしめて懐にいれ、早々に外出の支度を始めた。
屋敷の門を出て二人が向かったのは街中にある
都へ出稼ぎにくる日雇い労働者の姿が多い中、簡素な身なりにしているとはいえいかにも良家の子息といった雰囲気を纏う二人は嫌でも目立つ。
周囲の興味混じりの不躾な視線を堂々と無視し、タスルは鼻歌交じりに躊躇なく店の入口から中に踏み込んだ。
「姐さん久しぶり!」
「あれ、タスル様」
昼時で賑わう店内。卓の周りをせわしなく動き回る給仕の女が、入口から呼びかけたタスルの声に動きを止めて破顔した。
「シント様も。ずいぶん長らくお姿見なかったけど、どうなさって?」
「うん、ちょっと都の外に出かけていたんです」
「それで、お帰りなすったわけですね? また来ていただけてうれしいですよ」
ニコッと屈託のない笑顔を浮かべたタスルにつられて、給仕女も破顔する。
「……シント兄さんも久しぶりなんですか?」
「お前くらいだよ、わざわざ街中の大衆食堂に来たがる奴なんて」
「安くて多くてうまいのに……」
周囲に聞き咎められないようなごくごく小さい声で、二人はぼそぼそと呟き交わす。
「で、一年の遊学はどうだったわけ?」
飯処の卓について、たっぷりと獣肉と野菜を煮込んだ温かいスープに細麺を入れた温麵の湯気を浴びて、やや機嫌良さそうにシントは訊いた。
「遊び放題でしたよ」
「いや、そういうこときーてんじゃねーわ」
「むこうの
「きーてねーって」
ズルルっと口いっぱいに麵を啜って、タスルはいたずらそうな光を目に浮かべた。
「シント兄さん?」
「んだよ」
「おれ、十六になったんです」
「何が言いたいんだよ」と、嫌な予感いっぱいにシントは聞き返す。
「妓屋連れてって」
「……」
「少し酒飲みながら、話しましょうよ。その方がいい」
一見軽妙に聞こえるタスルの口調に、やや真剣な空気を感じとってシントは一瞬黙して。
「……今夜、お前出られんの?」
「そうこなくっちゃ」
途端にニカッと笑って投げた言葉に飛びついてきたタスルに、シントはもしかして俺こいつに嵌められたのかな、と憮然とした表情を浮かべた。
「……マジふざけんな」
「俺知ってるよ? 兄さんはなんだかんだ言いながら付き合ってくれるって」
シントの醸し出す静かな怒りを平然と無視して、タスルは愉快そうに笑った。
* * *
タスルの生家であるチダ家やシントのサク家など、王の元でこの国の執務の主権を担う“七家”と呼ばれる有力者の屋敷はカリョの北部に位置する。
宮城を中心に政務に関連する庁舎や民家の連なる北地区と比べ、大路を南に進んでいくごとに通りの左右は商いの色合いが濃く現れてくる。
都の地理的な中央から少し西に入った区画は、いわゆる花街だった。茶屋といえば、昼間は飲食を提供する場を意味するが、夜には妓屋と呼称を変えて歓楽の場の意味合いが強くなる。
夜の帳が下りた闇の中、裸の松明に照らされたそれぞれの店先には、火番と呼ばれる寝ずの番の男たちがたむろする。その面構えをみれば、男たちが番をするのは、文字通りの“火”ではないことが窺い知れた。
「タスル様、シント様。我々から離れられませぬよう」
例に漏れず警護役兼お目付役として二人についてきたシュジュは、他の警護役の従者とともに周囲に目を光らせながらタスルに声をかける。
「わかってるって」
タスルは軽く返して、隣を黙って歩く友人に声をかけた。
「シント兄さん、馴染みの店あんの?」
「……あるわけねえだろ」
「誓いを守るタイプですか? 堅物ですねえ」
婚約者の存在をチラッと匂わせるタスルの軽口に、シントは思いっきりその後頭部を叩いてどやしつける。
いってぇ、と涙目になって口をとがらせるタスルに、冷ややかな視線が突き刺さる。
「少し黙ってろ」
シントは容赦なくそんなことを言いながら、通りのある店の前で歩を止めた。
ホムロと看板を掲げるその妓屋はともすれば周囲の店に埋もれそうな平凡な佇まいの外観をしている。
「ここ?」
「連れてきてもらってんだ。文句言うなボケ」
「怖いw」
ホムロとは幼い頃に北方から都に出てきたという女将の故郷の言葉で暖炉を意味するのだと席につくなり胸元を大きくあけた
「姐さん、今日は少しこの人とゆっくり話したいんだ。後で、ね」
そんな妓女の腰を一つ撫でて小銭を握らすと、タスルは片目をつぶって見せた。
シントの目からしてみれば、妙に女の扱いがこなれていて小癪にさわるばかりだったが。
「……お前、大陸で何を学んできたんだよ」
「言ったでしょ。女遊び」
「……笑えねえな」
先ほどの渡したタスルの袖の下がきちんと効いているのか、衝立で囲われた卓の周りに不必要に近寄ってくる妓女はなく、落ち着いて話をすることができそうだった。
警護役たちは、もともと衝立の外で侍している。
「さすがシント兄さんの勧める店ですね。行き届いてる」
感心したようにキョロキョロと周囲を伺うタスルに、
「で、真面目に話すんだろうな? そろそろ」
しびれを切らしたように卓を指でトントンと叩きながら、シントは鋭い視線を送った。
「真面目な話なんてもんじゃないんですけどね」
そう言いながら、向かいの年上の友人の小さな酒杯にトクっ、と濁酒を注ぐ。
「……少しだけ、この国の行く末が見えた気がします」
「……」
「というか、俺が思っていたことの裏付けができて確信に変わったというか」
「ダジェに縋りすぎってこと、だろ?」
そうです、と。タスルは密やかな声で頷いた。
「百年前の戦乱期。隣国ナシクの侵攻を悉く退けた“神の導き”。そこから絶対的に信仰されるようになった絶対神ダジェの存在」
「ダジェの恵みを受けし地、アショク」
冗談めかして笑ったシントにつられて、タスルも薄く笑う。
「滞在中、ナシクの民に広く伝播されるダジェの教本を探してきたんですよ」
「ん?」
「ナシクは政に文書を用いることを重視する国です。その書の保管のされ方……その扱いを見るに。もはや、ナシクの中央は民のダジェへの信仰をあえて薄れさせるようはたらきかけ始めています」
「その信仰心は、ナシクにとって政に利用するにはもう不要ってことか?」
タスルは肯首した。
「これまではアショクが今のようにダジェの存在に頼む形でもなんとか隣国との平穏を保てました。ナシクにおいてもダジェは同様に重んじられていましたから。
けれど……やはり少し時勢は変化している。そう感じました」
「……それ、もう父上に言ったのか?」
「実はまだ……そのまま報告するべきなのかは。迷いがあります。
あなたの父上に理解いただけると思いますか?」
少し考え込むように、シントは腕を組んで目線を伏せた。
「……どう伝えたら、良いと思います?」
アショクにおいて、いまだにダジェの存在は絶対だ。
タスルやシント自身、そういう考えのもとに育てられてきた。それに若年者である自分が異を唱えて、果たしてそれが正しく上に届くのか。
古い慣習やしがらみに囚われた官吏としての父親たちの姿を見てきた二人にとって、その打開策をすぐに見いだすのは至難の技に見えた。
「まず手を入れるべきはダジェ信仰の象徴でもある神子の制度ですね。それに付随する“祭”の存在も。もはやこの時代においては、形骸化された悪しき風習ですよ」
「公然と言えないやつだな」
シントはクスッと皮肉げに笑った。
「……迷信じみたバカバカしい習いはなくすべきなんです。今に目を向けないと、この国は近いうちに墜えます」
「とはいえな」
手の中の酒杯を、手持ち無沙汰に弄ぶ。
「民の心を支えているのは、他ならぬその神の存在だから」
「……でしょうね」
若い二人には、到底結論の出せない話だった。
「ありのままだけを伝えるのが、いいんじゃないか?」
重い空気を裂くように、シントはいつも通り淡々と言葉を紡ぐ。
「……お前の主観は抜いてさ。祭とか、神子の存在とかはおいておいてさ。
ナシクの動きは放っておけばこの国の存続を脅かす事象だ。話が通るかどうかは別として、報告しておく必要はあるだろう」
「……そうですね」
釈然としない感丸出しで頷くタスルに、シントはさらに苦笑して。「そういえば」と、空気を変えるように話題を切り替えた。
「お前がいない間に、神子が代わったの知ってるか?」
「そうでしたね。どこの里出身で?」
「さあな、北のほうだった気がするけど。……特筆すべきは、俺らより年上ってことかな」
「いくつなんです?」
「昨年の着任の儀の時に十七っていってたから……今は十八、かな」
「……珍しいですね」
神子は任期五年。神子の任期が残り三年になると、専任の官吏が全国を行脚して次の神子の候補者を選定し、その候補者らは都で特別な教育を受ける。
着任するときの年齢はまちまちだが、それでも十五を超えることは稀だった。
「でも、まあ実際に会えば年齢うんぬんという議論が湧かなかった意味がわかるっていうか? 適任っていうか?」
「何が、ですか?」
「見りゃわかる」
そう言って、シントは珍しく本当に楽しげに笑う。
「きっと来月の
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